【質問】
「恒に転ずること暴流の如し」についての意味を玄奘三蔵の解説で教えて下さい。
【回答】
阿頼耶識とは、
「恒(つね)に転(てん)ずること、暴流(ぼうる)の如し」
と唯識では説かれています。
例えて言うと、私達の全ての生命は、
「恒(つね)に激流のように動いて、やまないものだ」
と言われています。
素晴らしい一節だと思います。
「暴流」とは、激しい滝の流れです。
阿頼耶識は、その激流のように瞬時も、とどまることなく、激しく流れ来たり、流れ去るのであります。
断絶するのでもなく、また常住不変でもない。
常に非ず、断に非ず、「非常非断」である、と教えられます。
これが、私達の生命の実相であります。
この印象深い比喩に対して、玄奘(げんじょう)三蔵は、
この詩句について、三義を述べられています。
つまり三つの意味があるのだと教えられます。
第一義は、
「無始の時より、このかた今日まで、生滅しながら相続して、有情を漂わせ、溺れさせて出離させない」
と述べられます。
輪廻する主体としての阿頼耶識の一面を表しております。
限りある個体の存在に対して、それを越えた無限の主体として、
迷える限り、川の流れのように永遠に流れていく阿頼耶識を捉えた表現であります。
第二の意義は、
その阿頼耶識が縁に触れると、具体的な個体として、現れ起きる角度で阿頼耶識を捉えます。
激流が、岩に触れたり、風に会うと、千変万化して、様々の白浪を現すようなものである、と教えられます。
第三義は、
暴流(ぼうる)が上流から、様々のものを押し流して来るように、
阿頼耶識は、久遠(くおん)の過去の世から、今まで作った身口意の行為、
善業も悪業をも全部、蔵の心に包み収めて、一刻もとどまることなく、
過去から流れ来て、現在から未来へ流れ去っていくものであると、阿頼耶識を捉えます。
実に上手な比喩だと思います。
人間の生命の重さ、生命の奥行きの深さを見事に唯識では、表現しておられると思います。
「恒に転ずること暴流の如し」についての意味を玄奘三蔵の解説で教えて下さい。
【回答】
阿頼耶識とは、
「恒(つね)に転(てん)ずること、暴流(ぼうる)の如し」
と唯識では説かれています。
例えて言うと、私達の全ての生命は、
「恒(つね)に激流のように動いて、やまないものだ」
と言われています。
素晴らしい一節だと思います。
「暴流」とは、激しい滝の流れです。
阿頼耶識は、その激流のように瞬時も、とどまることなく、激しく流れ来たり、流れ去るのであります。
断絶するのでもなく、また常住不変でもない。
常に非ず、断に非ず、「非常非断」である、と教えられます。
これが、私達の生命の実相であります。
この印象深い比喩に対して、玄奘(げんじょう)三蔵は、
この詩句について、三義を述べられています。
つまり三つの意味があるのだと教えられます。
第一義は、
「無始の時より、このかた今日まで、生滅しながら相続して、有情を漂わせ、溺れさせて出離させない」
と述べられます。
輪廻する主体としての阿頼耶識の一面を表しております。
限りある個体の存在に対して、それを越えた無限の主体として、
迷える限り、川の流れのように永遠に流れていく阿頼耶識を捉えた表現であります。
第二の意義は、
その阿頼耶識が縁に触れると、具体的な個体として、現れ起きる角度で阿頼耶識を捉えます。
激流が、岩に触れたり、風に会うと、千変万化して、様々の白浪を現すようなものである、と教えられます。
第三義は、
暴流(ぼうる)が上流から、様々のものを押し流して来るように、
阿頼耶識は、久遠(くおん)の過去の世から、今まで作った身口意の行為、
善業も悪業をも全部、蔵の心に包み収めて、一刻もとどまることなく、
過去から流れ来て、現在から未来へ流れ去っていくものであると、阿頼耶識を捉えます。
実に上手な比喩だと思います。
人間の生命の重さ、生命の奥行きの深さを見事に唯識では、表現しておられると思います。