【質問】

仏教用語としての「智慧」と、日常的に使う「知恵」の違いを教えて下さい。

【回答】

まず「おばあちゃんの知恵袋」とか、「あの子も知恵がついてきた」などど使う日常的表現の知恵とは、どんな意味か。

知恵を知識と比較すれば、その特徴が見えてきます。

知識は外部から、取り込まれた情報や経験のことで、つまりインプットですが、

知恵は、その知識に基づき、何かを処理する能力のこと、つまりアウトプットです。

おばあちゃんは、長年、蓄積した経験や情報に基づき、日常でのトラブルを処理する能力に長けているので、「おばあちゃんの知恵袋」という表現が出来ました。

子供も少ない経験や知識であっても、それを目の前の課題を処理出来れば、知恵がついた、と褒められます。

ただし、悪用すれば、悪知恵になりますが。

仏教の智慧も、アウトプットであり、何かを処理する能力には、違いありませんが、

智慧は、知恵と根本的に異なります。

仏教の智慧とは、仏教の根本思想である「縁起」つまり因縁生起の自覚に基づいて、発動する働きです。

縁起とは、縁って起こること、あるいは、何かを縁として生起することを意味します。

全てのものが、それ以外のものの助けを借りて存在している、という世界観が、仏教で言う「縁起」です。

紙の裏表の関係が、縁起を説明するのに、最適ではないかと思います。

裏を縁として、つまり裏に支えられて、表があり、表を縁として、つまり表に支えられて、裏があるので、裏だけの紙や、表だけの紙は、存在しません。

左と右、上と下、夫と妻、親と子など、すべて一方が、他方を支える関係にありますから、縁起の関係にあります。

このように縁起の自覚は、対立するものの間に存在する、境・仕切りを取り除くように働きます。

私達は、左右や、上下などを別々に、分けて、考えますが、縁起の自覚は、両者を分けず、その二つを丸ごと、捉えます。

ですから、智慧は別名「無分別智」つまり、分別しない智慧、とも呼ばれます。

智慧の前提となる縁起の自覚には、境・仕切りを取り除く働きがあると言いましたが、

釈尊がまず、縁起の自覚に基づいて、取り除いたのは、生と死の境でした。

死の苦しみは、釈尊を大いに悩ませたので、釈尊は何故、命ある者が死ぬのかを冷静に考えました。

そこで発見した事実は、実に単純明快でした。

それは、生まれた、からです。

「生に縁って、死があり、死に縁って、生がある」という、まさに縁起の自覚です。

それまで、釈尊は、生と死とを別々に考え、生のみを肯定し、死を否定しようとしていました。

しかし、生死も、紙の表裏と同じように、縁起の関係で、密接に関係していますから、分けることは不可能です。

つまり、生まれた者は、死は必然であり、この死の苦しみを克服するには、

生への執着を捨てて、死を受け入れることしかありません。

こうして、釈尊は、縁起の理法を自覚し、執着を捨てることが、全ての苦しみを克服することになる、と気づいたのです。

ですから、縁起の自覚に基づいた智慧は、生と死の間の境を取り除き、死の苦しみをなくす働きを持っています。

つまり、分別心、正確には、「虚妄分別心」を取り除く働きが、無分別智なのです。

縁起の自覚に基づき、自己と他者との間に境がなくなると、人はどのような行動をとるのでしょうか?

釈尊が、縁起を自覚し、智慧を体得して、苦しみから解脱することは出来ましたが、

この知らされた真理は、「自分一人では、幸せになれない」ということです。

自己と他者とは、縁起の関係で結ばれていますから、これを二つに分けて、自分だけが幸せになる、ことは出来ないのです。

自分が幸せになるために、自分との関わりのある他者を幸せにするようになります。

これが、慈悲です。

勿論、悟ってしまった人は、

「自他不二、自他平等」と悟りますので、自分の幸せとか、他人の幸せとかという区別自体が存在しないのです。

ですから、智慧を獲得すれば、必ず慈悲へと展開します。

その智慧は、慈悲として発動して、初めて智慧といえるのであり、そうでなければ、真の智慧とは言えません。

まさに仏様とは、智慧と慈悲の覚体であり、

この二つを兼ね備えてこそ、仏であり、真の意味で、人々を救うことが出来るのです。