⑦ヴァールブルク家

 

ヴァールブルク家

ワールブルグ家。銀行、慈善活動、および奨学金に卓越したメンバーがいる家族。

おそらくイタリア起源で、彼らは1559年にドイツの町ワルブルグム(その家族はその名前の由来)に定住しました。その後、支部はスカンジナビア、イングランド、およびアメリカに定住しました。Simon Elias Warburg(1760–1828)は、スウェーデンで最初のユダヤ人コミュニティを設立しました。彼の孫であるフレデリクエリアスウォーバーグ(1832〜99年)は、セントラルロンドン電気鉄道の共同設立者でした。コペンハーゲン支部は、家族の元の名前であるデルバンコを引き継いだ。

モーゼス・マーカス・ウォーバーグ(1830年)と彼の兄弟のガーソン(1825年)は、1798年にハンブルクのMMウォーバーグ&Co.の銀行を設立しました。彼らの子孫には5人の兄弟、モーゼスM.の孫があり、そのうち4人は銀行家でした。ポールモリッツウォーバーグ(1868〜1932)、クーン、ローブアンドカンパニーの米国銀行および連邦準備理事会のメンバー。 Felix Moritz Warburg(1871–1937)、Kuhn、Loeb、Co。のパートナー。フリッツ・モリッツ・ウォーバーグ(1879–1964)。フェリックスMは、成人教育とユダヤ人の神学校の支援者であり、他の慈善団体で活動していました。ポールMの息子であるジェームスポールウォーバーグ(1896〜1969)は、銀行家で経済学者であり、フランクリンD.ルーズベルト大統領の最初の「脳の信頼」のメンバーであり、数冊の本の著者でもありました。

学者の中には、物理​​学者であるエミールウォーバーグ(1846〜1931)がいました。カールヨハンワールブルク(1852〜1918年)、スウェーデンの文学史家、国会議員。植物学者であり、パレスチナでのユダヤ人の植民地化と農業活動の支持者であるオットーウォーバーグ(1859–1938) Aby Moritz Warburg(1866–1929;以前に指定された4人の銀行家兄弟の兄弟)、ルネサンス芸術の歴史家。オットーハインリッヒワールブルク(qv;エミールの息子)。

社会奉仕や社会奉仕活動に積極的な人々の中には、フリーダシフ(フェリックスM夫人)ウォーバーグ(1876–1958)と彼女の息子、フレデリックマーカスウォーバーグ(1897–1973)、投資銀行家、ニューヨークの第92ストリートヤングメンズヘブライ協会の会長などがいました。市; 著名なチェロ奏者であり音楽の守護者であるジェラルドフェリックスウォーバーグ(1902年〜71年)。ポールフェリックスウォーバーグ(1904–65)、金融家、慈善家。エドワードモーティマーモリスウォーバーグ(1908–92)は、現代美術の慈善家であり後援者であり、コレクターでもあります。

 

 

ウォーバーグ家もロスチャイルド家と同じくユダヤ教徒で、元々はフランクフルト・ゲットーの出身と言われています。 

ポール・ウォーバーグ(1868年ー1932年)は、1902年、ハンブルグを本拠とする一族の銀行M・M・ウォーバーグ商会のパートナーシップを保持しながら、ロスチャイルド家の代理人として渡米、

ニューヨークのクーン・ローブ商会の創業者ソロモン・ローブの娘ニーナと結婚して、ジェイコブ・シフ同様、クーン・ローブ商会の共同経営者となりました。

彼は、中央銀行設立を進める動きの中で、ドイツ国籍が障害になったので、1911年にアメリカに帰化しました。 1918年12月付けの合衆国海軍情報部(諜報部)の報告書には次のように記載されています。


「ポール/ウォーバーグミューヨーク市 ドイツ人。 彼は1911年にアメリカ市民権を取得。 1912年にドイツ皇帝より叙勲。合衆国連邦準備制度理事会副議長(議長代理)を務めた富裕にして有力な銀行家。 ドイツからレーニンおよびトロッキーに供与された帯金を扱った。 同人には、ドイツ人のスパイ組織の指導者である兄弟がいる」。



マックス・モリッツ・ウォーバーグ

Max Moritz Warburg (1867年ー- 1946年

ハンブルクでウォーバーグ家に生まれたドイツの銀行家である。民間銀行M・M・ヴァールブルク&COの取締役を務めた(1910年-1938年)


なお、彼は1918年5月に連邦準備制度理事を退職しています。 ポールの兄マックス・モーリッツ・ウォーバーグ(1867年ー1946年)は、M・M・ウォーバーグ商会の最高責任者(在任1910年-1938年)です。

第一次世界大戦が始まるまでの間、ドイツのユダヤ人銀行家たちは手厚く国家から保護されていました。 彼らは自分達の愛国心を証明して皇帝に取り入り、ドイツ帝国の資金調達を担ったのでした。

その中でもM・M・ウォーバーグ商会は、ドイツ帝国の積極的な外交政策に深く関与して急激に一流の国際銀行となり、資産は1900年から2014年にかけて3倍に膨れ上がりました。

同商会は、ドイツ外務省の緊密な指導の下、植民地経営活動に隠密裏に加担していました。 ドイツ国民は、ウォーバーグ家が密かに帝国を動かしているのではないかとの疑念を抱いていました。



ウォーバーグ家は、秘密情報をフルに活用して莫大な利益を得ていました。 彼らは、ロスチャイルド家のドイツにおける代理人のような存在でした。

第一次世界大戦の間、マックスはヴィルヘルム2世の顧問を務め、敗戦後のベルサイユ講和条約の交渉ではドイツの代表団に参加しました。 彼は、戦前も、戦中も、そして戦後もドイツを牛耳っていたのです。

 

 

さらに、マックスは、ロシア革命への関与も噂されていました。 ロスチャイルド家の意を受けて、レーニンらを操ってロシア国内の皇帝反対派を組織させたのは、ドイツやスイスのロスチャイルド家の傘下にある大富豪や官僚たちであったと言われていて、

マックスがドイツの皇帝直属の秘密警察としてそのように動いたとの説もあります。 

ドイツとしても、第一次世界大戦の敵国であるロシア国内で革命を起こすことはこの上ない策であり、故にレーニンらを封印列車に乗せて密かにスイスからドイツ経由でロシアに送り込んだのでした。

レーニンは1917年、スイス・チューリッヒから、「封印列車」と呼ばれる秘密の貸し切り列車で移動しました。ドイツ領内を移動中、レーニンらは列車から離れてはならず、ドイツ市民と接触しないことを条件とされ、列車の車両の乗降口には施錠がなされていました。


ポールの弟のフェリックス・ウォーバーグ(1871年ー1937年)は、ドイツのプロイセン生命保険会社の重役でしたが、ポールより先にアメリカに移住してクーン・ローブ商会の一員となり、ジェイコブ・シフの娘フリーダと結婚しました。



フェリックス モリッツ ウォーバーグ(1871 年 ー 1937 年) 

は、ドイツのハンブルグ生まれのアメリカの銀行家でした。

彼は、ドイツ、ハンブルグのウォーバーグ銀行家の一員でした。

彼は銀行の創設者の 1 人である MM ウォーバーグ (1798 年) であり、モリッツとシャーロット エスター オッペンハイム ウォーバーグの息子であるモーゼス マーカス ウォーバーグの孫です。

フェリックスの 16 歳での最初の仕事は、ドイツのハンブルグで、NM オッペンハイム & Co で、フェリックス ウォーバーグは、クーン、ローブ & Co.のパートナーでした。


後には、ユダヤ教のアメリカ長老会の会長についています。 彼も兄のマックスと同様に、ロシア革命に関与し、レーニンに革命資金を与え、レーニンを封印レ社の乗せてロシアに送り込む際に一役買った言われています。

ちなみに、フェリックスの娘フェリシア・シフ・ウォーバーグ(1927年生)は、フランクリン・ルーズベルトの息子ルーズベルト・ジュニアと結婚して3番目の妻となっています(1970年結婚、1976年離婚)。

ポールの息子ジェームズ・ポール・ウォーバーグ(1896年ー1969年)は、ルーズベルト大統領1期目の金融財政顧問となります。

 

 

ポール・ウォーバーグ|アメリカ中央銀行、連邦準備銀行創設者

今回は、アメリカ連邦準備制度の父と称される、ポール・ウォーバーグについて見ていきたいと思います。



それでは、ポール・ウォーバーグの生い立ちについて見ていきましょう。

ポール・ウォーバーグは、1868年にドイツのハンブルクでユダヤ系銀行家、ウォーバーグ家に生まれました。

――ウォーバーグには、たしか弟がいましたよね。

そうですね。

ウォーバーグには、以前に紹介した弟のフェリックス以外にも、他に美術史家のアビー・ウォーバーグと、銀行家の兄であるマックス・ウォーバーグという有名な兄弟がいます。

マックス・ウォーバーグについては、いずれ取り上げたいと思っています。

ハンブルクの学校を卒業後、ハンブルクの輸入業者であるサイモン・ハウエルの元でビジネスの基礎を学びました。

ウォーバーグは、更に短期間、ロンドンのサミュエル・モンタギュー商会、パリのロシア外国貿易銀行などに勤務しました。

1891年に、ウォーバーグの曾祖父が、1798年に設立した銀行、MMウォーバーグ商会に入りました。

ウォーバーグはその年の冬の間に仕事を中断し、世界旅行を行っています。

その後、ウォーバーグは、MMウォーバーグ商会とパートナー関係になります。

1895年に、ウォーバーグは、ニューヨークの投資銀行クーン・ローブ商会の創業者であるソロモン・ローブの娘、ニーナ・ローブとニューヨークで結婚しました。

2人は、ジェームズとベッティーナという2人の子供を授かっています。

ウォーバーグは、ドイツ金融業界で大きな影響力を持っていました。

頻繁にニューヨークに出張した後に、1902年に、ニューヨークのジェイコブ・シフが取り仕切るクーン・ローブ商会のパートナーとなります。

ウォーバーグの弟であるフェリックスが、シフの娘と結婚し、ポールとフェリックスは長年にわたってクーン・ローブ商会と関わり続けました。

また、ジェイコブ・シフと同じく改革派ユダヤ教のエマヌエル寺院の会員となります。

ウォーバーグはアメリカにおける中央銀行創設の提唱者としても知られるようになっていきます。

当時のアメリカ人の多くが、ウォーバーグがアメリカ中央銀行創設の最大の原動力と見做していました。

その頃のアメリカの銀行家や政治家たちの一部では、銀貨の無制限鋳造を要求する、自由銀運動が活発化していました。

アメリカの銀行家で外交問題評議会の議長のラッセル・レフィングウェルは、そうしたさなかに、ウォーバーグは、ヨーロッパの近代的な銀行理論の実践を説くことに尽力したと言っています。

一方、保守的な雑誌であるセンチュリー誌では、内気で繊細なウォーバーグが、1億人に自分の考えを押し付けたと批判的に論じています。

ニューヨーク到着後に、ウォーバーグは中央集権化が不十分なアメリカの銀行システムに、批判的な論文を書きましたが、不完全な英語と新参者であることを自覚していたため、4年間にわたり、その論文を放置していました。

1906年に、中央銀行システムを提唱していた、ユダヤ系でコロンビア大学教授、エドウィン・セリグマンの晩餐会で、彼に自身の金融システムの考えと知識を明かしました。

「自分の考えを国に伝えるのは君の義務だ。」

セリグマンは、彼を称賛し、こういったと言われています。

その直後、ニューヨークタイムズはウォーバーグの「銀行システムの欠陥と必要性」という論文を掲載します。

アメリカの金融システムについてウォーバーグは次のように論じています。
「アメリカは実際のところ、ヨーロッパのメディチ家の時代、アジアで言えば、恐らくハンムラビの時代に到達していたものとほとんど同じシステムである。」

このような発達が遅れた最大の理由を、銀行の約束手形を再割引して、将来の支払いの約束を現金と交換することを容易にする、中央銀行が存在しなかったことと考えていました。

ウォーバーグは、ドイツ帝国銀行のような中央銀行システムがあれば、ある銀行の過剰な準備金を、他の銀行で不足している準備金に当てることが容易になると考えました。

学校で習った、現在の近代化された中央銀行システムのモデルですね。
ウォーバーグの考えは、1907年の金融恐慌の後に広まり、その後ウォーバーグは、「修正された中央銀行のための計画」、「アメリカの連合準備銀行」という論文を発表します。

ウォーバーグは、大学やさまざまな学会が主催する会議に出席しました。
1908年に、共和党上院議員、ネルソン・オルドリッチから、通貨改革の相談を受けるようになりました。

ちなみに、オルドリッチの娘のアビー・オルドリッチは、ジョン・ロックフェラー2世の妻であることが知られています。

――ウォーバーグ家と、ロックフェラー家の間で、利害が一致していたと考えることができますね。

1910年2月に、ウォーバーグは、ウェルズ・ファーゴ社の取締役に就任します。

同じころ、オルドリッチは、ウォーバーグをジョージア州のジキル島で開かれた、有力銀行家たちとの秘密会議に招待し、中央銀行創設のための草案が作成されました。

センチュリー誌のハロルド・ケロックは、このように書いています。

ウォーバーグがたった一人で活動を始めてから5年後に、彼のアイデアは、オルドリッチ法案という形で議会に提出された。

ウォーバーグは、ハンブルクのM・Mウォーバーグ商会とのパートナー関係を保ったまま、1911年にアメリカに帰化します。

オルドリッチ法案は通りませんでしたが、後のオーエン・グラス法案が連邦準備法になりました。

学者のエルマン・ウィッカーはこういっています。

「ニューヨークの銀行家たちは、自分たちがそれをコントロールするということ以外は、全ての望みをかなえることができた。連邦準備法は、グラス議員と同じかそれ以上に、オルドリッチ上院議員に負っている。」

1914年に、ウォーバーグは連邦準備制度理事会のメンバーに任命されたため、ウェルズ・ファーゴ社の取締役はジェイコブ・シフが引き受けました。
1921年、外交問題評議会の設立時に、理事に就任し、1924年からは諮問委員会の会長をつとめます。

以前の動画で紹介していた外交問題評議会はここでも関わってくるんですね。

同年、ニューヨークの国際容認銀行を設立し、初代会長に就任します。

1929年に、国際容認銀行はマンハッタン銀行に買収されましたが、ウォーバーグは合併後に会長となっています。

マンハッタン銀行は後に、チェース・ナショナル銀行と合併し、チェース・マンハッタン銀行となり、1969年から1981年まで、デーヴィッド・ロックフェラーが会長をつとめています。

――ウォーバーグ家とロックフェラー家は蜜月の関係だったんですね。

そうですね。

デイヴィッド・ロックフェラーもウォーバーグと同じく、外交問題評議会の会長に就任していますからね。

1932年に、ウォーバーグはニューヨークの自宅で亡くなりましたが、当時彼は、マンハッタン銀行の会長で、マンハッタン信託銀行、ニューヨーク農場融資信託会社、ボストン第一ナショナル銀行、バルチモア・オハイオ鉄道、ユニオン・パシフィック鉄道、ロサンゼルス・ソルトレイク鉄道、ウェスタン・ユニオン電信会社などの取締役をつとめていました。

――凄い肩書ですね。

ウォーバーグの息子のジェームズは、フランクリン・ルーズヴェルト大統領の初期に、財務顧問をつとめています。

 

 

 

 

ウォーバーグ商会のスイス医療会社が生み出した 麻薬 LSD (リゼルグ酸ジエチルアミド)

 

ユースタス・マリンズ著『民間が所有する中央銀行』より以下抜粋。

 『過去65年間の合衆国における心理学の発展のほとんどは、英国陸軍の心理戦争局(Bureau of Psychological warfare)によって指示されたものであることを知っているアメリカ人はほとんどいない。ほんの少しまえ、著者は新しい名前、タヴィストック人間関係研究所として知られているロンドンのタヴィストック研究所を知った。「人間関係」は人間行動のあらゆる局面を網羅し、タヴィストック研究所の穏当な目的は、アメリカ市民の人間行動のあらゆる局面を支配し影響力を行使することである。』

 『タヴィストック研究所グループは、第二次世界大戦中に戦略事務局(OSS)、戦略爆撃調査部、連合国遠征軍最高司令部などの重要な米軍グループの全員を組織・訓練した。第二次世界大戦中、タヴィストック研究所はロックフェラー財団の医学部門と合同で、意識改革の薬の秘密の実験を行った。現在の合衆国の麻薬分文化はこの研究所に源を発し、この研究所は中央情報局(CIA)のトレーニング・プログラムを管理した。』

 『LSDカウンターカルチャーが発生したのは、S.G.ウォーバーグ商会所有のスイスの医薬会社のサンドス.A.Gが、リゼルグ酸からLSDと呼ばれる新しい薬を開発したときである。ジェームズ・ポール・ウォーバーグ(1910年に連邦準備制度を作成したポール・ウォーバーグの息子)は、政策研究所(IPS=Institute of Policy Studies)と呼ばれる合衆国にあるタヴィストック研究所の支部機関の資金調達を行った。

 ジェームズ・ポール・ウォーバーグはCIAプログラムを設計してLSDの実験を行った。そのなかの何人かはのちに自殺を図った。MK-ウルトラと呼ばれ、ゴットリーブ博士が指導を行ったこのプログラムは、犠牲者たちの家族による合衆国政府に対する巨大な訴訟を引き起こした。』

※CIA = (スカルアンド ボーンズ)OSS + (ナチス)ゲシュタポ

タヴィストック研究所、CIAにナチス、MK-ウルトラ

 

ワクワクするワードがたくさん出てきましたね。

調べてみる価値はありそうだニヤリ

 

 

今日も最後まで読んでいただきありがとうございました。

次回もお楽しみにグー

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