今日も前回に引き続き田中角栄さんについて

~おしながき~

1970年代の時代背景

日中国交正常化とは

田中角栄の功績「日中国交正常化」の評価

なぜ、中国なのか?

中国のマーケットを狙っていた

毛沢東と周恩来

中国と台湾

日中国交正常化→日中平和友好条約

 

2022年9月29日で日中国交正常化から50年。

角栄さんが望んだ日本と中国の関係になっているのか。

日中の邪魔をしているのは誰?

 

1970年代の時代背景
 
中ソ対立によりソビエト社会主義共和国連邦との関係が悪化したままの中華人民共和国と、ベトナム戦争の早期終結を目的に、ベトナム民主共和国を牽制しようと目論んだアメリカ合衆国が秘密裏に接近し、それを機にアメリカ合衆国を始めとする西側諸国の関係改善が進んだ。
その結果、1971年には、従来中華民国(台湾)の中国国民党政府が保有していた国際連合における「中国の代表権」が、アジア・アフリカ諸国を中心にイギリスやフランス、イタリアといった一部の西側諸国の支持すら受けて、中華人民共和国(中国)に移った(アルバニア決議)。
 翌1972年には、アメリカ合衆国のリチャード・ニクソン大統領が訪中し毛沢東と会談を行ったほか、日本の田中角栄首相も中華人民共和国を訪問、第二次世界大戦以来の戦争状態に終止符が打たれて、日本との間で国交が樹立されるなど、文革中の鎖国とも言えるような状況も次第に緩和されていった。

 

日中国交正常化

中華人民共和国は49年の成立以来、日本との国交がなかったため、一般には「国交回復」ではなく「国交正常化」と称される。 それまでの日本は、52年の日華平和条約締結以来、中国国民政府(台湾)との間に国交を結んでいた。中国と同様に、太平洋戦争において争った隣国であるソビエト連邦共和国(現在のロシア)との間では、56年に国交が回復した。しかし当時の日本では、台湾での権益を持つ親台勢力が与党自民党関係者などに多く、中華人民共和国とは貿易も含めた関係が長らく希薄なままだった。この一方で、米国は中ソ対立などに乗じ、72年、ニクソン大統領(当時)が北京を訪問するなどして、東アジア新秩序構想により、日本の頭越しに米中関係を深めつつあった。このため、日本政府は野党社会党なども巻き込んで、急速に中華人民共和国に接近をはかり、日中共同声明にこぎつけた。日中共同声明によって、日本は中華人民共和国政府を中国唯一の合法政府としたため、日華平和条約は終了中華民国(台湾)は日本との国交を断絶した。また、78年には日中平和友好条約が調印されている。田中角栄は、日本の親台勢力を押さえて日中国交樹立を遂げたことなどから、中国では最も高名な日本の政治家として「古い友人」と呼ばれ、現在も称賛する声が強い。

 

 


 
田中角栄の功績「日中国交正常化」の評価
 まずは田中角栄さんの最大の功績と言われる中国との関係改善について見て行きます。 1949年10月に中華人民共和国(以下、中国)が建国されたことで資本主義と共産主義の対立(冷戦)は東アジアにも及び、米中に挟まれた日本は難しい立場に追い込まれていました。

 

当時の日本は台湾に逃れていた蔣介石ひきいる国民政府(中華民国)との間で「日華平和条約」を結んでおり、本土を支配する中国とは国交を結べていない状態が続いていたのです。 そんな中、1970年10月にカナダ、12月にはイタリアが中国と国交を結んでおり、同時期に宿敵だったアメリカも関係改善を探り始めたことから日本でも関係改善の議論が高まりました。 1972年7月7日に田中角栄さんは自身の内閣を発足させ、池田勇人・佐藤栄作両政権が踏み切れずにいた中国との国交正常化を公約として掲げ、与野党の要人を介した交渉を開始。 事前に中国の周恩来(しゅうおんらい)首相と条約の調整を行い、1972年9月25日に田中角栄さんは外務大臣や官房長官を引き連れて現職総理として初の訪中(北京)をしました。

 

 

 首脳会談では大局に立って関係改善する意義を認め合い、国交回復や賠償請求の放棄などで合意した一方、中国と対立関係だった中華民国と結んでいた条約の失効(破棄)も決断。 中華民国を切り捨てる形になったことで日本国内の中華民国派から非難の声が上がったものの、世論の大勢が関係改善を歓迎したことで反発を乗り切ることが出来ました。 田中角栄さんが成し遂げた「日中国交正常化」は1978年8月に福田赳夫政権が結んだ「日中平和友好条約」へと繋がり、こんにちの日中関係の礎を築いたことに間違いはありません。

 

 

なぜ、中国なのか?
アメリカの目論見 対ソ連、対日本

 

 この当時アメリカにとっては中華人民共和国をパートナーとした新しい東アジア秩序の形成を模索するもので、中華人民共和国と対立するソ連のみならず、中華人民共和国が支援していた北ベトナムに対しても揺さぶりをかけることで、膠着状態にあった北ベトナムとの和平交渉を促進することも目的であった。1965年から武力介入して泥沼化したベトナム戦争を抱えて複雑な状況の中で米国としても主導権を持って外交を積極的に推し進めるためには、ソ連と対立しつつ北ベトナムを支援していた中華人民共和国を承認することが必要であることをニクソン自身は大統領になる前から考えていた。 また前年に国際連合での中華人民共和国の加盟をめぐって賛成票が多数となり(米国の重要事項案も可決されて三分の二以上の賛成票ではないので加盟は実現しなかった)、この年秋の国連加盟が確実視されていた。また大統領選挙で公約したベトナム戦争からの名誉ある撤退を進めるためにも北ベトナムを支援する中華人民共和国との交渉が必要なことであると認識していたことで、ニクソンの突然の中華人民共和国訪問が実現した。 このニクソン訪中の時に周恩来との数回の会談の中で日米安保条約は対中華人民共和国のものでなく、「対ソ連が中心でかつ日本の軍事力を抑えて日本の軍事大国化を防ぐ目的のものであること」とをキッシンジャーが説明して周恩来も理解を示した。このことは後に日中国交正常化の障害を1つ取り除いていたことになった

1972年日本より先にニクソンアメリカが訪中飛行機

アメリカ「ソ連が脅威ならアメリカと組まないか?」

日本の目論見

 ところで、なぜ中国だったのでしょうか。これは私の説で人に言ってもあまり理解してもらえないのですが、角栄は新潟という政治の光の当たらない《裏日本》に政治の光を当てることを自らの政治信条とした政治家でした。これは角栄の外交政策でも同じことを目指したと言えるのではないかと思います。 中国は日本の幕末時代から欧米諸国に収奪された国です。新潟が太平洋ベルトの先に開発が進んだ土地から収奪されたように、中国も欧米先進国の植民地にされるだけでなく、隣国アジアの日本《表アジア》からも収奪されたのです。地球儀で中国を見れば、新潟と同じような〝裏側《裏アジア》〞の土地だったという考え方です。 角さんならそういう考え方をしたのではないかという、私の期待も含んだ考えですが、客観的な事実として、そこには当時の世界情勢からの政治的判断がありました。 まず、角栄は首相を目指すにあたって、72(昭和47)年6月23日に、「国民への提言」(私の十大基本政策)というものを出しています。その2番目として、 「憲法9条を対外政策の根幹にし、中華人民共和国との国交回復をすみやかに実現し、アジアと世界の平和に貢献する」 とあります。当然、急にやろうと思ってできる話ではないので、首相になる前から準備していたわけです。そしてそれは、吉田茂がレールを敷き、池田勇人、佐藤栄作に引き継がれた自民党の保守本流の国際協調路線の流れでもあったわけです。佐藤は岸信介の実弟でタカ派の色も付いていましたが、総合すると「吉田路線」の中にいました。 そこには戦後に吉田が敷いたレールがあったわけです。吉田が経済優先で軽武装の路線を敷いて、池田が「所得倍増計画」でこの経済優先を引き継いだ。そして佐藤は日韓国交回復や沖縄返還問題で戦後処理を急いだわけ です。簡単に言えばハト派の流れですね。 国体というものにこだわって、改憲や軍備にこだわったのは、岸信介や中曽根康弘の系譜(タカ派)ですが、戦後の自民党政権の《本流》は吉田のラインで多くが継承されてきました。となれば、角栄の中国との国交回復は自然な流れというものです。角栄の場合、満州に従軍しましたが、戦闘には関わっていなかったという点も、心理的には中国と向き合いやすかったはずです。 ただ、当時の日本は外務省も自民党内も親台湾派が多数派でした。吉田政権時も、中国国内の内戦で毛沢東(1893〜1976)率いる共産党に負けて台湾に逃れた蒋介石(1887〜1975)が、日本軍の帰還を許して賠償も求めなかった恩義に報いる形で、52(昭和27)年台湾の国民政府と日華平和条約を結んでいました。また、冷戦下の「反共」の時代でしたから、岸信介や佐藤栄作らは台湾を訪問していますし、佐藤が果たした71(昭和46)年6月17日に調印された「沖縄返還協定」でも、ニクソン(1913〜94)との共同声 明で「韓国・台湾条項」を盛り込んで、両国の安全が日本の安全にとっても重要としています(72﹇昭和47﹈年5月15日沖縄返還)。 もちろん、日本に亡命して日本と所縁の深い孫文(1866〜1925)の流れを汲んだメンバーがいて、中国との水面下での橋渡しに尽力する動きが水面下ではありました。 それと一番の大前提として、71(昭和46)年にアメリカ国務長官のキッシンジャー(1923〜)が極秘裏に中国を訪問して翌72年2月にニクソンの中国訪問という、第1次ニクソン・ショックがあったことは言うまでもありません。 台湾を正統政府として扱ってきた日本は梯子を外されていたわけです。この流れに遅れるわけにはいきませんでした。 ニクソンが北京を訪問して米中共同声明を発表するのをテレビで見ていた角栄はこう漏らしたと佐藤昭の『日記』に書かれています。 「ニクソンもやるもんだなあ。中国は十億もの人間がいる隣国なのだから、いずれ日本も国交回復を考えなくてはいかん」 また、金とドルの交換を一時停止し、輸入品に10%の課徴金をかけるなどの経済政策を発表した、第2次ニクソン・ショックも佐藤栄作政権をあざ笑うがごとく翻弄しました。 その佐藤の後を受けた角栄としては、中国は「自分の時代の到来」を示す上で格好の外交交渉の相手でもあったのです。 

日本1972年9月25日アメリカアメリカに続けと訪中飛行機

日本「今までが異常だった。国交を再開しましょう」

アメリカ「ぐぬぬムキー

 

「なぜ中国だったのか」という問いの答えも含まれています。そこには角栄らしい計算と腹づもりもあったのです。後年に角栄はこんなことを話しています。

 毛沢東、周恩来の目玉の黒いうちにやらなきゃと思ったんだよ。ふたりは何度も死線をくぐって共産党政権をつくった創業者だ。中国国民にとって肉親を殺された憎き日本と和解して、しかも賠償を求めないなんて決断は、創業者じゃないとできないんだ。毛沢東と周恩来が言えば、中国国民も納得する。ふたりがいなくたって二代目になったら、日本に譲るなんてことはできるわけがない(早野透『自画像』)

 

 

中国マーケットを狙っていた

中国とソ連の関係が悪化→日本を味方にしておきたい→でも植民地にはなりたくない

発展途上である

隣国なので貿易がしやすい

1970年代初頭で、すでに人口が8億人で更に増え続ける見込み(巨大なマーケット)

これは仲良くならないと損。

 

 

中国と台湾

日中国交正常化や日中記者交換協定

日中国交正常化・残された課題
~「正常化」の裏にある「不正常化」・今後の問題点を考える~

 1972年9月29日、日本の田中角栄首相、大平正芳外相、および中国の周恩来総理・姫鵬飛外相らの間において、日中共同声明が署名され、日中の国交は回復されることになった。この国交回復は、通常「正常化」と呼ばれる。

 では、正常化以前はどうであったか。正常でない、異常な状態であったということか。確かに、ある意味で異常であった。すなわち、まったく大陸を支配していない国民党政府(国府)を全中国の代表と認め、実質的に大陸を統治している共産党政府の支配権を認めていなかったのであるから、これは異常であったと言わざるを得ない。この意味において、まさに国交回復は「正常化」であり、これが1972年までずれ込んだことは、遅すぎたとも言える。フランスなどは、すでに1964年から北京との国交を回復していたのである。

 しかし、日本と中国の関係のみならず、アジア全体を考えたときに、1972年以降がまったく「正常」であったのか、といえば、決してそうとはいえない。むしろ、1972年以降、かえって異常な状態になってしまった面もある。「台湾問題」だ。日中の関係は、このとき「正常化」し、両国の関係は安定化へ向かった。だが、台湾は見捨てられ、日本と台湾が国としての交流が絶たれただけではなく、中国の圧力によって、台湾の国旗や総統府をTV画面で流すことすら難しいといった、極めて不健全、かつ「不正常」なものとなってしまったのである。
 「台湾問題」とは何か。私が報道等を総合的に見て感じることは、日本の立場から見れば、事実上(de facto)台湾が中国の一部分とはなっておらず、主権独立国家を構えているにも関わらず、中国がこれを承認せず、急速な軍備拡張を続け、戦争をも辞さない非平和的姿勢を取っていること、これが「台湾問題」の核心である。だが一方、中国の立場としては、日本(米国も同様)がこの中国の姿勢に必ずしも同意せず、台湾併合という現状変更には積極的ではなく、むしろ台湾の民主化を歓迎している点、さらに中国の武力行使に断固反対の立場をとっている点が、「台湾問題」なのである。また、「台湾問題」という言い方自体、若干の政治的偏向でもある。なぜなら、台湾の立場としては、問題の核心は中国の覇権主義であるから「中国問題」であって、台湾側の問題ではない、ということにもなる。一般に「台湾問題」と言わず、「両岸問題」と称する所以である。
 日中共同声明中において、日中両国は、
中華人民共和国政府は,台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は,この中華人民共和国政府の立場を十分理解し,尊重し,ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する。」(外交青書17号)
と宣言している。この表現は、日本では通常、中国政府に譲歩しすぎであると批判されるが、ただそう簡単に言い切れない点もある。現実には他の西側諸国と中国との間の取り決めの表現も大差なく、しかも「承認」という言葉を日本が決して使わなかった点において、かならずしも日本が突出して中国に譲歩したとは言えない。また、台湾の帰属に関してはまだ未決定という議論も存在し、少なくとも日本が積極的に台湾の中華人民共和国への編入を促進する内容とはなっていないのである。しかしながら、この声明と続く台湾断交以降、日本と台湾という二つの国家が相互に承認を取りやめるという、新たな「異常」状態が発生してしまったのは確かであり、最低限、台湾関係法を整備して時間をかけて国交を回復した米国と比べれば、田中・大平は長期的見通しなく拙速であったとも言える。

 中共・国府両方とは同時に国交を維持しないのは、北京の要請であったのみならず、「一つの中国」を堅持しようとした蒋介石の望みでもあった。しかしながら、断交とは、そもそも戦争を行うか、国家の消滅といった事態を前に行われるものであり、台湾という一国家と主要国が次々断交してしまうということ自体、地域に大きな不安定要素を抱え込むことになることは、明らかだったはずだ。
 日中国交正常化は、東アジアにおける安全と経済的繁栄を確実にしてゆく契機として、貴重な一歩であり、慶賀すべきであることに、間違いはない。しかし、それが台湾という事実上の一国家との「断交」の上に成り立っていることは、やはり現在の東アジアが内包する歪みであり、安全保障上の不安定要因である。

 多くの人々の犠牲の上にではあるが、日朝関係が、相互に国家承認していない、という異常状態を脱しつつあり、安全が確保されつつある現在、東アジアにおいて次に求められるのが台湾海峡の安定であることに、異論はないであろう。筆者は歴史研究者であって、政治家でも外交官でもないし、国際政治専門家ですらないから、その最も良い具体的な道筋を描くことはできない。また、台湾が今後、主権独立国家としての道を歩むのか、あるいは中国との一体化を選択するのかは、当事者たる台湾人自身の選択に委ねられるべきことであって、決して部外者である我々が口を挟むべき問題ではない。しかし、1972年の日中国交回復という、アジアにとっての安定化の大きな画期が、実は多くの課題を残したものであり、そのときから30年を経た現在、それらの課題をどう解決してゆくかが問われているのは確かであり、これは我々アジア研究に携わるもの一人ひとりが考えなくてはならない、問題である。

その他の頁:
○台湾人は戦後、共産党同様に「一つの中国」を主張し、実質的に独裁政治を行ってきた国民党に対する民主化運動が続けられてきたが、この民衆の政治的自由の獲得は主権独立国家としての台湾の独立に他ならなかった。この台湾の独立運動を簡単に追ったのが、「台湾独立運動図解」であるが、現在では少々古くなっている。
 

○中国は共産党政権によって運用されているが、共産党・共産主義は、選挙による最高意思決定システムを持っておらず、民意を敏感に反映しにくいという点において、非常に脆弱である。経済成長を維持しつつある間は民衆の不満を吸収できるが、不況や失業が続いた場合など、選挙がない分、体制転覆につながる可能性は民主主義国家よりも高い。だが、中国の場合、代替的な政治勢力が見られないのである。そのような中で、一つの試論として、中国国民党大陸復帰論というのがある。その実現性は、台湾における国民党支持の低下=国民党弱体化で低下しつつあるように見えるが、興味深いので「中国共産党の動向と国民党の役割」において検討してみた。
 

○台湾と中国の関係を考えるときに忘れてはならないのが、台湾人のアイデンティティである(「台湾アイデンティティを考える」)。自分で自分を「中国人」と考えていない人に対して「中国人」呼ばわりするのは、失礼であるし、逆に自分が「中国人」であると考える人に対して、「あなたは中国人ではない」、というのも、失礼である。これは政治と言う以前に、礼儀の問題である。

 

中国(中華人民共和国)を選び、台湾(中華民国)との別離

 

日中国交正常化→日中平和友好条約

日中平和友好条約
 1972年の日中国交正常化以来、日本政府と中華人民共和国政府は、両国が交戦状態を終了させ正式な国交を樹立するための平和条約の交渉が続けた。しかし日中共同声明に盛り込まれた「覇権条項」を平和条約にも採り入れるかどうか、をめぐって交渉が難航した。当時中国は、1971年の林彪事件の直後であり、文化大革命はますます混迷の度を深めていた。毛沢東の権威が動揺する中、四人組と周恩来・鄧小平らの権力闘争が激化していた。また、外交では中ソ対立が解決の糸口をつかめず、緊張状態が続いていた。そのような行き詰まりをまず外交で打開しようとしたのが、72年のニクソン訪中受け入れと米中外交交渉の再開であった。


「覇権条項」をめぐり難航
 「覇権条項」とは、日中共同声明第7項にある「日中両国間の国交正常化は第三国に対するものではない。両国のいずれも、アジア・太平洋地域において覇権を求めるべきではなく、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国あるいは集団による試みにも反対する」というものであった。同様の条項は同年のニクソン訪中の際に締結された米中共同声明にも含まれていた。
 つまり覇権条項とは「反覇権条項」であり、中国・日本も含め、あらゆる国の覇権に反対するという、至極当然の内容であったが、当時まだ中ソ対立が続いていたので中国にとっては「ソ連の覇権主義に反対する」ことが主眼であった。その条項が日中平和条約に盛り込まれることは、ソ連から見れば、日中がソ連の覇権に共同して当たるととれるので、ソ連は強く反発した。また、日本国内にもソ連との関係も重視して、覇権条項に反対する意見も強かった。


日中平和友好条約の締結
 条約交渉は覇権条項の扱いをめぐって難航したが中国の情勢が大きく変わり、一挙に交渉が進展した。それは1976年の毛沢東の死去、77年の鄧小平の復権、そして文化大革命の終焉であった。
 このような変化を受けてようやく1978年8月12日、中国の華国鋒政権と日本の福田赳夫内閣は「この条約は第三国(注、ここではつまりソ連のこと)との関係に関する各締結国の立場には影響を及ぼすものではない」という「第三国条項」を加えることで妥協が成立し、調印にこぎ着けた。10月には中国の鄧小平副首相が来日し、東京で批准書が交換され、正式に発足した。
 

 覇権条項のその後
 中ソ対立は1979年の中越戦争など、なおも尾を引いていたが、80年代に入るとソ連の政治・経済の行き詰まりが明確となり、1985年のゴルバチョフ政権の登場によって一気に解消に向かい、中ソ関係の正常化が図られたため、「覇権条項」は意味をなさなくなった。
 しかし、2000年代以降は、中国自体の東シナ海・南シナ海での海上進出が顕著になっている。これは中国自身が覇権主義を採っていると言わざるを得ない。日本は、日中共同声明と日中平和友好条約で両国共にどの国の覇権にも反対するという条項で合意していることをもう一度思い出し、中国の覇権主義に反対すると共に、軍事的反応ではなく外交によって対峙していくべきであろう。
 年表を見ていると、福田首相は1978年8月12日、北京で日中平和友好条約に調印した直後の8月15日には靖国神社を内閣総理大臣として参拝している。中国に媚を売ったとして批判されることを恐れての行動であったのだろうが、日本軍国主義の中国侵略を肯定するこの行動ははたして日中平和友好条約の精神と整合性がとれるのだろうか、日本の為政者の腹を中国に見透かされることになった。

 

  米中国交正常化は1979年

角栄さんは早かった!

 

 

 

驚異になる前に手を打つキッシンジャー

 日本については、経済大国である以上政治・安全保障両面でも大国として台頭しようとする欲求を持つだろうとの見方を一貫して示している。特に、1971年の周恩来との会談で日米安全保障条約に基づく在日米軍の駐留が日本の「軍国主義」回帰を抑えており、同盟関係を解消すれば日本は手に負えない行動を取り始めると警戒感を示した「瓶の蓋」論は有名である

冷戦後間もない時期の著書である『外交』でも将来日本が政治的に台頭するとの予測を示した。2008年1月放送の「日高義樹のワシントン・リポート」でも変わらず、「日本は10年後に強力な軍隊を保有しているだろう」と述べ、日本の核武装や憲法改正については「日本が決めることだ」と発言している。

日本が軍を持つこと、憲法改正はアメリカにとっては脅威

そのための日米安全保障条約、在日米軍

どんな手を使っても阻止。

 

 

キッシンジャーも、日中が近づいたからキレたわけではないのです。

ソ連と中東とバチバチしている間に利権を奪われる驚異を感じたのでしょう。

そこには角栄さんの行動力が発揮されています。

新しい資源、エネルギー外交によって開拓しようとしていたのです。

恐るべし角栄さんニヤリ

 

つづく

 

今日も最後まで読んでいただきありがとうございました。

次回もお楽しみにグー

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