田中角栄さんについて
~おしながき~
田中角栄とは
政治家、田中角栄
総理大臣、田中角栄
VS福田赳夫
田中角栄とお金
清和会とアメリカ
「あわせて読んで欲しい」リスト
など調べてきました。
今後は
- 日中国交正常化
- オイルショックと石油
- アメリカ、国際石油資本との関係
- ロッキード事件
- 日本列島改造論
についても、まとめていきたいなと思っています。
いまの政治家がかすんで見えるくらい、とにかくこの人は国のために動いた。国益のために動いた人。
計画が実行できてたら世界も変わっていたでしょう。
まぁ、そのぉ〜革命家ですな。
田中角栄とは
昭和後期を代表する政治家、第64・65代内閣総理大臣。1918年新潟県刈羽郡(現柏崎市)の農村地帯に生まれる。
高等小学校を卒業した後、15歳で上京。工事現場で働きながら、夜間学校(中央工学校)を卒業する。
39年陸軍召集によって満州に送られるが、肺炎にかかり除隊処分となる。
43年に田中土建工業を設立し、終戦は仕事先の朝鮮半島で迎えた。
47年自身2度目の挑戦となった衆議院議員選挙で初当選(以降16回連続当選)を果たすと、地元の交通関連企業の経営にも加わり、利益誘導型政治(金権政治)の基礎を固めていく。57年、岸信介内閣の郵政大臣として初入閣。池田勇人内閣と佐藤栄作内閣の下では、大蔵大臣、通産大臣、自民党政調会長、幹事長を歴任し、日本の高度経済成長を支えた。
72年7月、第3次佐藤内閣の後を受けて内閣総理大臣に就任すると、非エリート・苦学の経歴から、空前の「角栄ブーム」を巻き起こした。就任2カ月後には中国を訪問し、周恩来首相と共に「日中共同声明」を発表すると、その決断力・行動力は海外でも高く評価された。
マスコミに「今太閤」「庶民派宰相」と持てはやされ、就任直前に出版した『日本列島改造論』も人気を後押ししたが、これが暗転のきっかけとなった。改造論は高速道路と新幹線網の拡充によって人口と産業の地方分散を推進し、過疎と過密を同時に解消させるという構想だったが、過剰な投機が地価高騰やインフレを招き、更に73年の第1次石油危機によって破綻(はたん)に追い込まれた。
翌74年、週刊誌に田中ファミリー企業の「土地ころがし」の実態などを暴いた記事が掲載されると、国民の人気も凋落(ちょうらく)。マスコミの激しい追及を受け、同年末、首相在任期間2年5カ月で辞職した。
更に76年には、米・ロッキード社からの不正献金(収賄)容疑で起訴され、83年に東京地裁で有罪判決を受けた。しかし、このロッキード事件の係争中も自民党の最大派閥を率い、大平正芳内閣、鈴木善幸内閣を誕生させ、中曽根康弘内閣を支援するなど、85年に腹心の竹下登が派閥を割るまで、「闇将軍」として政界に大きな影響を保ち続けた。93年の死去後も、壮大な構想力と日中国交正常化や33もの議員立法を成立させた実行力、巧みな人心掌握術など、不世出の政治力とカリスマ性を評価する声に、現代政治が失った往時を懐しむ声も重なってか、たびたび「角栄ブーム」が再燃している。
政治家、田中角栄
1947年(昭和22)衆議院議員に初当選(民主党)。
1948年民主自由党に移る。
同年炭鉱国管疑獄で逮捕されるが裁判では無罪。
1957年岸信介(きしのぶすけ)内閣の郵政相を皮切りに、党政調会長、蔵相、党幹事長、通産相などを歴任。とくに1962年から1965年まで池田勇人(いけだはやと)内閣、佐藤栄作内閣の蔵相を務め高度成長政策を推進する。
佐藤派の中心として福田赳夫(ふくだたけお)とともに佐藤政権を支える。
1972年6月「日本列島改造論」を発表、7月佐藤退陣のあと首相に就任。54歳の若さと農村出身、無学歴の「庶民性」から「今太閤(いまたいこう)」とよばれ、角栄ブームをつくりだした。9月日中復交を果たすが、
1973年に入り経済政策の破綻(はたん)から狂乱物価を招き、
1974年11月田中金脈問題により内閣総辞職。
1976年7月ロッキード事件で逮捕され、
1983年10月、懲役4年・追徴金5億円の一審判決を受け、控訴。逮捕後自民党を離党したが、党内最大派閥の田中派を維持し「目白の闇(やみ)将軍」とよばれ、政界に強い影響力を行使した。
1985年脳梗塞(こうそく)で倒れた。1990年年政界を引退。
総理大臣、田中角栄
自民党の歴史 角福戦争1・ポスト佐藤
70年代の自民党は激動に継ぐ激動、そう、田中角栄と福田赳夫の「角福戦争」の時代へと突入します。今回はその序曲、ポスト佐藤争いに勝利した田中の栄光と、彼を待っていた落とし穴を見て行きます。
執筆者:辻 雅之(2005.10.31)
自民党激動の70年代、それはあまりにも長期政権を率いすぎた佐藤栄作の後継をめぐる田中角栄と福田赳夫の争いが発端でした。田中と盟友関係を組む大平正芳、小派閥ながら機を伺う三木武夫、そしてにわかに台頭してきた中曽根康弘の「三角大福中」時代の、まずは序曲です。
【「意中の後継」福田への政権禅譲を逸した「佐藤4選」と「沖縄返還」】
70年代初め、激しく揺らぐ自民党の地盤
70年代の自民党も相変わらず大きな議席を維持していました。しかしその一方で、得票率がじょじょに低落し、大都市では首長の座を革新勢力に奪われる。
また、国際情勢も多難でした。71年、突然、アメリカのニクソン大統領が訪中し、電撃的な米ソ和解。また、ニクソンはドル=金交換停止も発表し、日本や欧州の復興によって相対的に落ち込んだ経済力を力づくで立て直そうとしていました。
そんななか、続く佐藤栄作の長期政権。いつしかそれは連続記録として日本最大の7年以上に及ぶことになりますが、佐藤政権の末期、はたして日本外交は機能していたのかどうか。
佐藤は3期で総裁を辞めるべきだったのかもしれません。やるのであれば、とことん、引きずり降ろされるまで頑張るべきだったのかも知れません。
いずれにせよ、佐藤は「72年沖縄返還で引退」という「輝かしい花道」を、ただ待っていたのでした。こうして、70年代、角福抗争の時代へと突入していくのでした。
「角福戦争」の構図=佐藤・岸派の分裂
佐藤後、いわゆる「三角大福中」、つまり三木・田中(角)・大平・福田・中曽根の5派による激しい抗争が生まれることになります。しかし、実質上は田中角栄と福田赳夫の争いでした。大平正芳は田中の盟友でもあり、三木と中曽根は小勢力をどのようにうまく動かすかをさぐっていました。
つまり、自民党を長年支配してきた佐藤・岸の兄弟同盟は、その後田中角栄と福田赳夫に分かれ、自民党の主導権をめぐって激しく争うことになるのです。これが「角福戦争」の図式だったのです。
田中角栄の台頭と派閥システムの構築
佐藤が描く意中の後継者は福田だったといわれます。実兄・岸の路線に忠実な福田は、自民党右派のプリンスでした。
しかし、結果的に緒戦は田中が勝利します。なぜ、田中にそれが可能だったのでしょう。
田中は集金力に非常に長けていました。戦中戦後にかけて資金力を伸ばした企業「田中土建」は、その後数々の企業を手に入れ「田中ファミリー」を形成。地縁や血縁に頼った資金集めしかできない政治家たちとは雲泥の差が、この時点からできていました。
田中は議員になるや難しいといわれる議員立法を次々に通します。たとえばガソリン税の道路建設財源への目的化など。これらの利害は官庁と業界が山分けします。その仲介者として田中は権力をふるいます。
そしてこれら開発の恩恵は田中の地元・新潟を代表とする農村部へ分配。農村から社会党支持者はいなくなり、農村は自民党、そして田中勢力の大票田になっていきます。
この豊富な資金力と大きな政治力を背景に、やがて岸・佐藤派の若手議員たちが、田中のもとへとやってくることになります。
こうして佐藤が沖縄返還の花道を思い描いていた頃、着々と田中は「佐藤派乗っ取り」を進めていたのでした。
「佐藤4選」というみこしにかつがれた「宰相」
しかし、もし佐藤が今後の影響力も考え、3期目の人気終了後、福田に政権を「禅譲」していれば、田中はどうなっていたでしょうか。
しかし、佐藤は4選に打って出るかどうかで、次第に優柔不断になっていきます。そこをついたのが田中でした。一生懸命、佐藤4選ムードを盛り上げていきます。
また、盟友大平も一役買いました。池田派をついだ前尾繁三郎が立候補の動きを見せていました。前尾自身、ここで立候補しなければ派閥の領袖としての面目が立たないと思ったことでしょう。
それを止めたのが大平です。大平は、前回の総裁公選で出馬だけして、資金集めなどは任せきりにした前尾に不満を持つ議員たちを集めます。こうして出馬困難の様相が濃くなってきた段階で、田中が佐藤4選後の前尾入閣を約束。こうして前尾はろう絡されてしまいました。
公選は佐藤と三木武夫の一騎討ち。佐藤323、三木111。佐藤の圧勝といえば圧勝でしたが、三木が100を大きく上回ったことは、佐藤がここにきてその求心力を落としてきていることを示すものと受け止められました。
そしてまたも失敗「福田禅譲計画」
こうした中、田中はいよいよ多数派工作。その資金にものをいわし、佐藤派の3分の2を自分のもとへ誘導していきます。
田中の盟友大平は、佐藤4選後、反前尾派を使って前尾を辞任させ、第2派閥の領袖となっていました。三木も佐藤カラーの強い福田を嫌って田中寄り。「風見鶏」中曽根の動向だけは、よくわかりませんでした。
こうした中、福田の後見役、保利茂は佐藤に72年大会での福田への「禅譲工作」を進言。党大会は1月ですから、ここで公選すれば、まだ福田は間に合ったかも知れません。
しかし、「沖縄返還=花道」にこだわったのか、佐藤は保利の案に乗ってきません。こうして福田への政権禅譲が伸びていくなかで沖縄返還が近づき、自民党内はいよいよ慌ただしくなってくるのでした。
【「決断と行動」田中の華々しい勝利と国民的人気、それを襲った「狂乱物価」】
「今太閤」田中政権の発足
沖縄返還すんだ72年6月、佐藤が退陣を表明。佐藤は1ヶ月後の公選に備えて、立候補するであろう田中と福田を呼びます。福田には「激励」。田中には「君子の争いを」。
総裁選には田中・福田のほかに三木・大平も出馬。しかし、決選投票では三木と大平は田中に投じることを約束していました。まだ中間派閥も多いなか、中曽根が不出馬だったことは田中には幸いしたと考えていいでしょう。
佐藤派は次々と「田中派」へ。若手議員だった橋本龍太郎や小渕恵三は佐藤じきじきに呼ばれたようですが、佐藤の説得(どう喝?)も及ばず、逆に田中派入りを事実上宣言。
それでもまだ派閥が強固になっていないこの時期、なにがあるかわからない永田町、相変わらずの「実弾(現金)選挙」。しかしこうなると資金力がものをいいます。ますます田中有利に。
7月の公選は、第1回投票で田中156、福田150、大平101、三木69。決選投票は田中282、福田190。計画通りの田中勝利でした。こうして、田中政権が発足します。
第1次田中内閣は、三木が副総理格、中曽根が通産相として入閣。田中派4名、大平派3名の入閣。福田派は2名のみ。典型的な「論功行賞」的人事になりました。
「素人外交」田中が成し遂げた「日中国交正常化」
こうして佐藤の長い長い政権は終わりました。若い田中、実行力の田中、庶民性の田中。田中内閣支持率は60%台に。
さっそく田中は停滞していた外交に切り込みます。政権発足3ヶ月にして、田中は外相大平とともに日中国交正常化を鮮やかに実現。
とはいえ、田中は何も準備していなかったわけではありません。まず訪中する公明党議員団を通じて中国側幹部と間接的に接触(田中と公明党のつながりは、その後の創価学会批判本事件で「暴露」されることになります)。
自民党・親台湾派(岸らが中心)の激しい攻撃もありましたが、田中と大平は日中首脳会談に臨み共同声明を発表。田中は意気揚々と日本に戻ります。
素人に近い分野の外交に大きく喝を入れた田中の次の狙いは、かれ得意の「開発」でした。しかし、得意だったはずの開発政策で、彼は大きくその威信を傷つけてしまうことになるのです。
「日本列島改造計画」と総選挙
田中は、時論の「日本列島改造計画」を発表。道路や鉄道を整備し、工業立地の再編を狙うという大胆なものでした。
これを狙って土地買収などが始まり、戦後最長景気がおわった日本に、「列島改造ブーム」が。景気は再び上向きました。
しかし、その中身がどうだったのか。田中はたしかに綿密な構成でこの計画に臨んでいましたが、なにせ大所帯の自民党、そして彼が作り上げた官・産・政のトライアングルが、この構想の「芯」から食いちぎっていきます。
結局、具体的な中身を国民に提示できないまま、田中政権は党内基盤強化のため、おきまりの早期総選挙へと動いていきました。
結果は、田中政権の高い支持率とは裏腹に17議席減らした271議席。社会党と共産党が議席を伸ばしました。最初、田中を持ち上げた大都市の今でいう「無党派層」は、じょじょに上昇しつつあった「改造ブーム」の副作用であるインフレに、不快感を示していたのでした。
「狂乱物価」と「オイル・ショック」の襲来
田中は、開発が人の心をつかみ、それが票に結びつくことに関しては、だれよりもよくわかっていたのでしょう。
しかし、経済政策のことについては、正直「疎かった」と断じざるを得ません。
つまり、田中政権はインフレが忍び寄る中でも、積極財政を続け、73年度予算は前年比24%増の11兆円に。74年度予算は25%増の14.0兆円に。もっとも74年度編成当時は、50%増の計画でした。後にいいますが、これは急きょ蔵相に就任した福田が切り詰めたものです。
インフレ気味だった経済は、いよいよ本物のインフレになって国民を襲いかかりました。いわゆる「狂乱物価」です。
1972年4.9%だった消費者物価指数の上昇率は、73年には11.7%に、74年には23.2%へ。人々はパニックになり、1974年のGDPは戦後始めてのマイナス成長(1.2%)となりました。
ここへオイル・ショックがかぶさってきたからたまりません。原油価格の高騰は消費者物価指数という数だけでなく、市民の心理を大きく疲弊させました。60年代後半から日本経済を牽引してきた輸出は、変動為替相場制以降による円高の開始により、停滞をよぎなくされていました。
福田の再台頭と田中政権の危機
このような経済危機を立て直すため、旧佐藤派で田中派に転じた「政策通」愛知揆一が大蔵大臣に任命。しかし、74年度予算編成のさなかに急死。
万事休すかたちとなった田中は、政策転換、すなわち積極財政による国土改造計画の後退を覚悟して、緊縮財政派、しかし自民党一の財政通福田の起用に踏み切らざるを得ませんでした。
こうして福田は「復権」。田中の求心力は低下していきます。
そして経済の低迷で内閣支持率の低下を食い止められない田中。そして発言力を増す経済通の福田。こんななか、田中に決定的な出来事が起こります。
◎栄光もつかの間、田中を襲った前代未聞の「狂乱物価」という大インフレ
金権選挙と福田の田中批判
田中の74年の参院選は苦しいものになりました。このような経済状況の中でなにが頼りになるのか。……やはり、それは「カネ」でした。
かくして企業ぐるみの文字通り「金権選挙」となった参院選。しかし自民はぎりぎり、辛うじて過半数。革新政党(当時は社会・民社・公明・共産)との議席差は7議席にまで迫ります。
ここから始まるのが、70年代の国会を象徴する言葉「保革伯仲」、つまり自民党議席が革新勢力に近づいていくことによって、自民党一党支配体制がが大きく揺らいでいることにを示した言葉に表される現象の始まりでした。
そしてこの「5当3落(5億の資金があれば当選、3億なら落選という意味)」とまでいわれた極限の「金権選挙」を、福田らは猛然と追求します。
次第に、そう、あの記事が出る以前から、反田中派は田中の「金権」を糾弾していました。もちろん、思惑はいろいろあったと思いますが。
文藝春秋の『田中角栄研究』と金脈疑惑
さて、月刊誌・文藝春秋は立花隆が中心として書いた、田中の「金脈」を白日のもとにさらす『田中角栄研究』を、10月発売の号に掲載します。
それは緻密な記事であり、それだけの記事を書くためには当然大掛かりな取材をしているわけで、数カ月も前からそれは自民党幹部の耳に入ってきていました。
田中は圧力をかけますが、結局発売。しかし、当初はマスコミが騒ぐこともなく、田中はほっと一息。
ただ、アメリカ有力紙『ニューヨークタイムズ』『ワシントンポスト』などはこれを取り上げます。海外マスメディアの目は明らかに田中の「金脈疑惑」に目を向けはじめました。
そして、その後の外国人記者クラブの記者会見に出席した田中の姿がいやおうなくマスコミから国民の目にさらされることになって、情勢は一変します。
『田中角栄研究』に基づいた外国人記者たちの呵責ない質問に対し、田中は何度も、答えに窮してしまったからです。
こうして「金脈疑惑」が田中に持ち上がり、田中はいよいよ窮地に追い込まれはじめたのです。
田中の退陣と「フォード大統領訪日」
田中は、これを外遊と内閣改造で乗り切ろうとしますが、うまくいきません。むしろ内閣改造は福田を入れた内閣から、再び田中・大平連合で突き抜けようとします。
挙党体制は崩壊。しかし、田中には「史上初のアメリカ大統領(当時はフォード)訪問」を成功させなければならないという大きな総理としての仕事があったため、やむを得なかったのです。
岸信介も果たせなかったアメリカ大統領訪日。日本が経済大国から政治大国へと移るうえでは必要なセレモニーであり(少なくとも当時はそう考えられており)、田中は「退陣覚悟」で挙党体制崩壊というリスクを背負わざるを得なかったのでした。
大統領訪日日程終了後、田中は退陣表明。「今太閤」の政権は、幕を閉じました。
VS福田赳夫
常に激しい駆け引きが展開されている政治の世界。令和のいまよりも、もっと激しい派閥抗争が繰り返されていたのが、昭和の政界だ。なかでも、もっとも熾烈を極めたのが「角福戦争」である。
尋常小学校卒で党人派として成り上がった田中角栄と、東京帝大から大蔵省に進んだエリート官僚出身の福田赳夫の対立は、それぞれの支持者を巻き込み、いつしか単なる政争を超えた「階級闘争」の色合いを帯びていった。
2人の対立のきっかけとなったのが、7年8か月という長期政権となった佐藤栄作首相の後継争いだった。佐藤は自派(佐藤派)の番頭として政権を支えてきた田中ではなく、福田への禅譲を画策。鉄道省出身であった佐藤は、同じ官僚派で兄・岸信介の派閥を継いだ福田に肩入れしていた。
だが、田中は水面下で多数派工作を行ない、1972年の総裁選で福田を下し、総理の座に就く。
その後も幾度となく政争を繰り広げる2人だが、政治家としてはお互いを認め合っていた。双方に仕えた藤井裕久・元財務大臣が証言する。
「私は大蔵省出身で、福田さんが大蔵大臣時代に主計官を務めていました。また、田中内閣で官房長官秘書官を務め、そのご縁で田中派の政治家となりました。
田中さんが総理に就任したとき、福田さんが官邸に来るから『場所をつくれ』と指示がありました。田中さんとしては、対立を引きずらないためにもちゃんと福田さんをお招きしたいということでした。
そうした調整役は本来、官房長官が担うものですが、当時の官房長官だった二階堂(進)さんは、“趣味・田中角栄”という人で、福田批判の急先鋒でしたから頼みづらい。だから私に命じたんだと思います。
それで私が『丸テーブルにしましょう』とご提案したら『それがいい!』とおっしゃった。角のあるテーブルでは対決感が出てしまうので、より柔和な空気を出したかった。田中さんは『仲良くしとかにゃいかん』とおっしゃっていましたし、いらした福田さんも、まず『おめでとう』とおっしゃっていました。
その後、第二次田中内閣で愛知揆一・大蔵大臣が急死された際には、田中さんは間髪入れず(2日後)、誰にも相談せずに福田さんを後任に指名しました。当時は石油ショックという有事で、大蔵大臣を任せられるのは福田さんしかいないと考えた。田中さんは、それだけ福田さんの手腕を高く評価していたということです」
福田もまた田中に一目置いていたと、政治評論家の小林吉弥氏は語る。
「福田は、『角さんとサシで会うのは嫌だ』と言っていました。田中の迫力にやられてしまいかねないと感じていたのでしょう。私も幹事長時代に間近で見て、その迫力に圧倒されたからよく分かります」
角福戦争が日本政治に与えた影響は大きかった。
「角福の対立は政治にダイナミズムをもたらした。田中は積極財政の高度成長を訴え、一方の福田は安定成長を唱え、両者ともにその主張を譲らず、切磋琢磨して政治を活性化させました。
今は政治家が国民の顔色ばかり窺っていて、『俺はこの政策をやる』『俺はこういう国を作る』という気概が見えません」(同前)
田中派の若手議員が美人局に引っ掛かってしまい、田中角栄に100万円の清算金を無心してきた時には、電話を受けるや否や話半分に承諾。ものの30分で若手議員の下に届いた封筒には300万円が封入されており、「100万円でけりをつけろ」「次の100万円で不始末のせいで苦労した周囲の人間にうまいものを食わせてやれ」「次の100万は万が一の場合のために持っておけ」「全額、返済は無用」というメモ書きが同封されていたそうです。 金については「借りた金は忘れるな。貸した金は忘れろ」という持論をもつ田中角栄。加えて「人間は失敗する。政治家を志す人間は、その人をそのまま愛さなきゃダメなんだ」という寛大な人間愛の持ち主でもあったのです。田中角栄が内閣総理大臣を務めていた当時、休日の東京・目白の自宅には朝から各界の客が田中に陳情しようと行列したといいます。「年寄も孫も一緒に楽しく暮らせる世の中を作る」という政治目標を掲げ、「大衆軽視」への排除姿勢を見せる田中角栄に提言しようと並んだ人々は、実に要人から庶民まで多層に渡りました。そんな彼ら1人1人に対面し、「よし分かった」「出来る」「出来ない」と応答し、了承した案件に関しては100%実行したそうです。田中角栄は「約束したら必ず果たせ。できない約束や蛇の生殺しはするな」と竹を割った様な性格である事も知られており、例え相手が外国人であっても曖昧な返答をしませんでした。非常にせっかちな性格も手伝っての事だったのでしょう。 しかし、是が非でも単刀直入だったわけではありません。敵対する相手に批判を述べる時には、相手が対立関係にあっても悪口は一切言わず、先ず長所を褒めてから批判意見をきっちり述べるのです。総合すると田中角栄の魅力は”叩き上げ”の豪気と、天性の人たらし術にあったと言えそうです
困っている時に手を差し伸べられるかが重要
角栄流「生きた金の使い方」 ただ、田中さんの凄いところは、1回目の投票で盟友の大平さんに票を回していたこと。盟友とはいえ、総裁選に出るくらいだからライバルでもあるのに、盟友が恥をかかないよう、本来なら自分に入るべき票を回したというのです。常人なら自分がぶっちぎりでトップになりたいと思うでしょうに。とはいえ、そのおかげで、大平さんに入った101票がそのまま2回目の投票で田中さんに流れたろうことは、容易に推測ができます。 田中さんは、それ以外にも緻密な計算を働かせています。たとえば表向き福田派に属する人間で、「今回は親分の福田さんに入れざるを得ません」とわざわざ田中さんのところに仁義を切りに来た人もいました。しかしさすがは田中角栄。「あんたは福田さんに入れればいいよ」と、けっして裏切り者呼ばわりはしないのです。こうなればイチコロですよね。取りあえず福田さんに票を入れはしても、総裁選のあとは田中さんに尽くそう、と考える人がいろんな派閥にいた。いえ、自民党内部だけではなく、野党の社会党にもいました。田中さんほど「生きた金の使い方」をする人もいません。これは総理になってからの話ですが、福田派のある議員が入院したとき田中さん自ら見舞いに行きました。議員からすればそれだけでも恐縮するのに、帰りぎわにさりげなく封筒が置いてある。角さんは気前がいいというから見舞金は50万円ぐらいかな、と思って中身をたしかめると、これが500万円。さらにこのお見舞いを4回繰り返す。〆て2000万円。こうやって隠れ田中派をふやしていくのです。こういうやり方は、人間心理を知り尽くしていないとなかなか出来るものではない。ふつうの政治家とはスケールが違うのでしょう。
そしてそのお金がもとで・・・
アメリカが潰しに来た!
清和会とアメリカ
清和会 せいわかい
自由民主党の派閥。第3代自由民主党総裁岸信介の系譜を受け継ぎ,1979年,内閣総理大臣を務めた福田赳夫が設立。
清和会とアメリカ偶然であるはずがないこれは悪魔に魂売ってしまいましたね?キッシンジャーと契約しましたね?アメリカに売ったのは誰だ〜
「あわせて読んで欲しい」リスト
こちらは動画↓
「田中角栄」は何がスゴかったのか?
「俺は十年後、天下を取る」
命を賭けて成し遂げた日中国交回復
「あのくそじじい、ぶっ飛ばしてやる」
小学校卒が官僚を掌握 人を魅了する田中角栄の決断力昨日までの敵が、今日から味方に官僚たちからどよめき
大臣就任当日の大決断
潔く全てを捨て、頭を下げる
またたくまに下落した角栄人気
立花隆「田中角栄研究」が明かした金脈の全体構造
一人百万円から数千万円の金をばらまいた人脈づくり
今日も最後まで読んでいただきありがとうございました。
次回もお楽しみに