みんな元気ですか
聖徳太子は蘇我氏と深いつながりが
ありました。
その蘇我氏ですが、歴史上に初めて出てくる
のは西暦500年代の初めの蘇我稲目です。
稲目は蘇我馬子の父親とされています。
それまではまったく無名の豪族でした。
その出自が謎に包まれているのです。
家系図を見ると蘇我氏は非常に入り組んだ
姻戚関係をもち実力者との関係を
強めたように見えます。
物部守屋を滅ぼしたのは蘇我馬子でしたが
実は馬子の妻は物部守屋の妹でした。
その子供の蘇我蝦夷(えみし)の妹の
刀自古郎女がさらには聖徳太子の
妻になっています。
つまり蘇我蝦夷に滅ぼされた
山背大兄皇子は蝦夷の甥にあたります。
その山背大兄皇子は聖徳太子の息子でした。
息子はおじさんに殺されたのです。
さらにもとをたどれば聖徳太子自身も、
日本書紀に拠れば、蘇我稲目の子孫
となっています。
(以上の部分家系図参照→蘇我氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E6%88%91%E6%B0%8F)
これだけでも聖徳太子がいかに蘇我氏を
自分の庇護者として、あるいは身内同様の
近い存在として思いを寄せていたかが
想像できるのですが、それを裏切られたのは
やはり相当なダメージだったと思われます。
さらにもう一つ知られざる事実があります。
実は蘇我氏も渡来系外国人の可能性が
非常に強いんです。
蘇我氏の「蘇」の文字もそのことを
示唆しますが・・・
上に参照した家系図の一番初めの部分、
つまり蘇我稲目の祖先は「高麗」と
なっています。
これが事実だとすると明らかに蘇我氏は
帰化人の一族なんです。
このことは歴史の教科書には出てきません。
だとするとこの一連の事件はにわかに
別の様相を表して来ます。
まったく今までと違う次元のストーリーが
展開します。
古代日本はもしかすると外国人同士の
戦いの舞台だったのかもしれないのです。
この時代は、聖徳太子を含めて日本には
本当に多くの外国人がいたのです。
続きはまたね
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