Acqua アクア 水..... 私にとって幾つかの重要な意味がある言葉です。

 

ここでたびたび書いているように、私は水泳が大好きで、水泳なしに健全な精神を保つことができません。水泳では痩せないし、体重を減らすとかそういうことのためにやっているわけではありません。むしろ水の中にいることで心の平穏さを保つところに意味があると思っています。脳に酸素を送り込む、全身の血流をよくする、そうすることでボケ防止になるかもしれない。

 

私は三月生まれなので、誕生石が美しいアクアマリンであることも見逃せません。

 

そしてイタリア語を勉強する中で、l'acqua frizzante(炭酸水)とか、L'acqua arrivava fino a qui(洪水で水がここまで来た)などを思い浮かべます。炭酸水が好きで、そこにりんご酢を入れて飲むと糖分なしでも美味しくさっぱりと飲めるのが気に入っています。「水がここまで来た」という文は、最近のイタリア語レッスンのテキストに出てきた半過去の例文です。今学期のNHKの講座ではローマを巡りながら動詞をより深く理解することが課題で、ローマのサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会が舞台となっている回にテヴェレ川の洪水の話として出てきたセンテンスです。

 

そしてあえてacquaと題して書いている理由は、坂本龍一さんの名曲Acquaを初めて聴いて感動したからです。坂本龍一さんはもちろん知っているけど、その音楽を正面から聴いたことはありませんでした。たまたまInstagramで、バイオリニストの@niklasliepeがウィーンで行ったコンサートの一部を聴いて、一体この美しい曲は何なのかと思ったことがきっかけでした。Acquaはピアノ曲ですが、私が聴いたのは@niklasliepeのバイオリンとビオラ、チェロ、フルート、クラリネットなどからなるアンサンブルでした。

 

 

この直後に坂本さんが弾くピアノで聴きました。

 

坂本さんは政治的な活動もしていて、そこはあまり好きではありません。芸術家やアーティストがあえて政治について発言したり活動したりするのはちょっと違うなあと感じるからです。

 

でも世の中の醜悪な部分や、自分の頭の中の混乱、混沌などを意識すると、Acquaのような曲は純粋に素晴らしいし、こうした曲を作れる人は偉大だなと思います。

 

 

先日の都議選ですが、私が住んでいる区は人口が少ないせいか、定数2なのです。そこへ三人が立候補しました。自民、共産、都民ファーストの三名です。選びようがないじゃないですか。

 

もっと人口が多くて定数も多い選挙区では国民民主も候補者を立てていて、前回のゼロから9名獲得という大躍進でした。自分の選挙区に国民民主の候補者がいれば投票していました。

 

自民、共産などの政党が衰退していくのは当然のような気がします。

 

他方で、前回の都知事選で立候補して2位に食い込んで話題になった石丸伸二氏が結成した再生の道は当選者ゼロに終わりました。支持するしないは別として、彼の言っていることはもっともだと思っています。選挙戦で各党は物価高を掲げているがそれは的外れだと言います。物価高対策で東京都ができることは限られている、国政の論点ではなく都政の問題を掲げないといけない、地方政党を国政の縮小版だと考えるのは誤った考え方だと切り捨てています。

 

私はこれはその通りだと思うのです。反戦・平和のような主張を地方選挙で掲げる政党にはいつもおかしいと思っていました。地方政治は国政とは異なる政策を打ち出さなくてはいけないのですがね。だから、石丸さんの言うことはもっとももなのですが、どうやら選挙公約を掲げずに都政改革だけを訴えたらしい。それでは支持を得られませんよね。石丸さん、的を突いた主張は素晴らしい反面で、どうもそれを実現する具体的な手段などで有権者を納得させられないのではないかと思いました。いくら、小池都政に飽き飽きしていてもこれでは・・・

 

国際政治では、アメリカがイランの各施設を攻撃するという出来事があって、一体何を考えているんだろうと思いました。何も考えていないんでしょうね。攻撃をしたらどのような波及効果があるかなんて、考え抜いた形跡がないらしいから、もう開いた口が塞がりません。NATO首脳会議も開かれていて、国防費を5%にするという新目標が設定されたとのこと。みんなトランプに拍手を送ったらしいけど、なぜあんなものを評価するのか解せません。愚か者にはおだてることで対応するのが一番なのでしょうか。

 

政治面では楽しくないことばかりです。

 

 

老人力。赤瀬川原平さんの著書です。以前から気になっていて最近読んでみました。

 

読んでみましたと言っても、面白かったのはごく一部でした。ソーシャルメディアで面白そうと思った本は、ほぼ例外なく最後まで読まずに図書館に返却しています。例外はこのブログで取り上げたことのあるものに限られます。(ブログカテゴリーの本を参照。)

 

私がその通りだと思った箇所は「ソ連崩壊と趣味の関係」という章です。赤瀬川さんは若い頃は趣味というものを軽視していたと言います。ちょうど米ソ冷戦の時期で、革命とか前衛芸術とか、思想の方が偉いのだと思ったそうです。例えば、ピカソとマチスを比べると、ピカソの方が偉い。何故ならゲルニカに代表されるようにフランコ独裁に抗議する姿があるし、朝鮮戦争に抗議する絵も描いているから。それに比べるとマチスはただ綺麗なだけの絵で、そこには思想や社会に対するコミットメントがないと言います。

 

要するに赤瀬川さんに言わせると感覚よりも頭の方が偉くて、これは若い頭の特徴であると同時に、自分が生きた時代の特徴でもあり、共産主義信仰に生きていた時代なのだと言います。

 

人間はいつでも趣味や遊びを持っているのに、それにフタをして押さえつけていることがあるという赤瀬川さんの指摘にはっとさせられました。つまり趣味よりも思想や社会性の方が上であるという認識を指すのでしょう。

 

それに対して歳をとると趣味が出てくる、趣味に向かうようになるのだそうです。現役引退がきっかけかもしれないが、その人の内部的問題も大きいと言います。つまり、若い時はなんでもできると思っているけれど、挫折を経験すると自分の力の限界も見えてくることが大きいそうです。「人間は有機生命体であってどんな小さなことでも何か楽しみがないとやっていけない」とか「自分の力の限界が見えた後になって、そういう小さな楽しみが切実に感じられてくる」とか「歳をとると自分というものが濃厚になる。自分の人生という有限時間が確実なものとして、一本の棒のように認識されてくるのだ」などという指摘は、全くもってその通りとしか言いようがありません。

 

最近私が感じていることをそのまま表現してくれています。

 

私は政治学を研究してきた者なので、退職後も同じように研究を続けて論文や本を書く生活をなんとなく想定していましたが、その同じようなことをやりたくないという気持ちが年々強まっているのです。その理由は、アメリカがとんでもないことになってニュースを見るのも嫌になったことや、日本で石破氏を総裁に選んだ時点で自民党は終わったと思ったことにあります。

 

以前は戦争は良くない、核兵器を無くそう、というような意見に接するたびに、そうじゃなくてなぜ戦争が起こるのか、なぜ核兵器がなくならないのかを考えることこそ大事だと思っていました。もちろんそうなのですが、最近は、やっぱり政治を見ていくと人間が本当に愚かだということの方が目についてきて、人間の愚かさはなくならないんだから、戦争も起こるし核兵器はなくならないでしょ、と考えてしまいます。

 

そして赤瀬川さんが指摘する通り、歳をとった私は自分の限界をはっきり認識し、現役の頃には抑圧してきた本当の自分の願望や趣味をもっと追求したいと思うようになったわけです。ですから、こんなのんびりした生活はいけない、とか、もっと研究に真面目に取り組まなければならないとか、そのような縛りを自分に課すのはもうやめようと思います。

 

研究は政治のことだけではないですから、好きなことを追求して新な知識を獲得し、もっと豊かな気持ちになることのどこが悪いのかと開き直ってします。退職するときに「所属や身分がなくなってからが自分の人生の本番なのだ」というようなことを言いました。今、それを実践する段階に差し掛かっていると言えます。

 

最後に、ピカソについて一言。私の大好きなデ・キリコ(De Chirico)の自伝を読んでいると、どうもChiricoはピカソが好きでないのではないかというような箇所に遭遇します。ピカソと名指しはしていませんが、Chiricoは画家が芸術以外の何かにコミットし始めることを極度に嫌うようなのです。だからゲルニカなどもってのほかかもしれません。