■ウィキペディアとは少し違うモラーツの話
本名はPatrick Philippe Moraz 。
1948年6月24日スイスのモルジュ(Morges)というレマン湖のほとりにある町で生まれた。現在74歳。ブルフォードやウェイクマンと同い歳である。
■音楽との出会い
パトリックの両親は、第二次世界大戦前にパリの音楽エージェントに勤めていた。
父は20代前半の頃、当時ポーランドで最も有名なピアニストだったパデレフスキーのもとで数年間働いていた。
パデレフスキーは、ショパンの演奏と自作曲で世界的に有名なピアニストだった。
当時、彼はグランドピアノを4台積める特別な列車でヨーロッパを回っていた。
また、30年代にはニューヨークのカーネギーホールやマディソン・スクエア・ガーデンで演奏し、世界で最も高い報酬を得ていたピアニストでもある。彼はパトリックが生まれたスイスのモルジュに亡命していた。
父は若い頃コンサートピアニストになる夢を持っていたという。
パトリックが生まれた後、両親はパリで世界的に有名なバイオリニスト、ユーディ・メニューイン(Yehudi Menuhin)のエージェントと仕事をしていた。
そのためパトリックはまずバイオリンから始めた。最初のバイオリンはメニューインから譲り受けたもので、今でも持っている。
ヴァイオリンは3歳くらいのときから弾き始めた。
父は、映画館やスイングバンドが出演する劇場、宴会場のあるレストランなどがあるコミュニティビルを管理していた。
モルジュという町にはカジノがあり、パトリックはそこで音楽を始めた。
スイスの北部は寒く、あまりの寒さに、演奏している部屋ではバイオリンの弦が凍ることがあったという。
その後ビッグバンドや50年代の音楽を聴きながら、4、5歳で自分でピアノを弾くようになり、本当はピアノの方が自分の楽器だと気づいたそうだ。
ビッグバンドが演奏しているときは、グランドピアノの下に隠れていた。
ある日、ビッグバンドのディレクターがパトリックに気づき、彼のもとに連れて行かれた。最初にブギウギとブルースの演奏法を教わった。12小節のブルースのルールを全部教えてくれた。
パトリックは当時の音楽はもちろん、それ以前のニューオリンズやディキシーランドなど、あらゆる音楽にのめり込んでいった。
やがて、さまざまなアマチュアグループやバンドに所属するようになり、スキルを高めていった。
クラシックの練習をしたわけではないが、パトリックはローザンヌにあるコンセルヴァトリー音楽院に入学した。
和声と対位法の権威であるナディア・ブーランジェにこっそり会いに行ったりもした。
彼女は音楽院で毎月マスタークラスを開催していた。 ある日、彼女はパトリックに気づき、上級生の前で対位法やその他の音楽理論について質問してきたのだが、彼はそれを説明することができた。
言葉ではなくピアノで弾くことができた。
ちょっとした曲を即興で弾けるかと聞かれて、その場で思いついたらとても感動してくれて、彼女はそれ以降、マスタークラスにすべて参加させてくれたと言う。
彼女は有名な生徒をたくさん教えていた。その後、その何人かと知り合う機会があった。
ジュネーブとパリで、かつてピエール・ブーレーズの下で働いていた音楽家のアシスタントをしていたときに、クセナキスやシュトックハウゼンとも一緒だったという。
9歳か10歳のとき、父が祭りのために雇っていたルイ・アームストロング、デューク・エリントン、カウント・ベイシー、モダン・ジャズ・カルテットのジョン・ルイスといった人たちに会うことができた。
ジョン・ルイスには2回レッスンを受ける機会に恵まれた。
パトリックはピアニストにとって非常に大事な手を怪我している。
13歳のとき、1月にスキーで腕を骨折した。
骨折が癒えた6週間後のイースターの頃、友人や家族がローラースケートをプレゼントしてくれた。友人たちはスケート靴と自転車2台を持ってやってきて、自転車で引っ張ると言う。道はとても平坦だったが、あちこちに木があった。ある時、木にぶつかって、右手の指を4本折ってしまった。
指の快復には6カ月かかった。
先生からは、もうクラシックを演奏することはできないと言われた。
しかし彼は落胆することなく練習を続けていたら、自分で作曲できるようになった。
左手はクラシックを弾くために鍛えたので、ラヴェルの「左手のための協奏曲ニ長調」を弾けるようになった。それで左手でも右手と同じように演奏できるようになった。
16歳のときに若手演奏家のためのジャズフェスティバルに出場し始めたが、その最初の副賞がステファン・グラッペリとの2回のレッスンだった。
彼は偉大なヴァイオリニストであるだけでなく、素晴らしいピアニストでもあった。
彼は2回のレッスンで、パトリックに多くのことを教えてくれた。
20代前半の頃、ソロアーティストとして、あるいはトリオやカルテットでチューリッヒ・ジャズフェスティバルに5回連続で優勝したことがあった。
最後に優勝したときは、ご褒美としてジョン・コルトレーンのカルテットの前座として、ヨーロッパ中で何度かコンサートに出ることになった。
パトリックはアメリカのジャズ界の重鎮とも交友を結んでいる。
ピアニストのマッコイ・タイナー、ベース奏者であるジミー・ギャリソン、そしてドラマーであるエルビン・ジョーンズらと友情を育んだ。
エルビンとは90年代にロサンゼルスで再会したが、当時のパトリックの最大のアイドルの一人はオスカー・ピーターソンだった。
1981年、ムーディー・ブルースのメンバーとして、ウェンブリーでコンサートをやった時、ひとりの男性が彼のところにやってきて「ハロー、パトリック。私はオスカー・ピーターソンです」と言った。
パトリックは冗談だと思って「私はローマ法王だ」と返したら、彼はピーターソンの息子、オスカー・ピーターソン・ジュニアだった。そして父ピーターソンからの伝言を伝えられた。
「ダブルマニュアル8ボイス/16オシレーターのオーバーハイムスペシャルキーボードの製作を依頼してくれたことに、とても感謝している」というものだった。パトリックはトム・オーバーハイム本人に製作を依頼していた。(注. 『究極』の制作用にオーダーした例のシンセサイザー)
パトリックが1号機、オスカー・ピーターソンは2号機を持っていたという。
あまり知られていないが、ピーターソンは電子音楽を録音していて、シンセサイザーに夢中になっていたらしい。
20歳のとき、パトリックは北スペインのカダケスで夏を過ごし、時にはポート・リガットにあるサルバドール・ダリの敷地で過ごした。そしてサルバドール・ダリや彼の奥さんであるガラと知り合うことができた。
(リック・ウェイクマンが演奏を邪魔する変な男をサーカスで追っ払ったら、その男はダリ本人だった話はコチラ)
パトリックは、フランスのクストー・スクールのスキューバダイビングのコースを受講していたので、スキューバダイバーのインストラクターをしていた。また、この地域で音楽を演奏し、ダリやゲストのためにコンサートを企画することもあった。
パトリックはサルバトーレ・ダリが絵を描いているときにアトリエに入ることを許された数少ない一人だった。
■イギリス
4ヶ月間過ごした後、彼はスイスに戻った。
父は、パトリックにまだ仕事がないことに気づいた。
大学に行って学位は取ったものの、英語は習ったことがなかった。ギリシャ語やラテン語は学んでいたが、それは彼がもともと人類学者になりたかったからだ。
父は当時、ジュネーブでレストランを経営していて、彼が1、2週間、彼の厨房で料理の勉強をしないかと言った。
そして、「イギリスに行って、オーペアのコックとして働きながら英語を学べばいい」と言った。
それで、オラトリオ予備校で毎日167人のために1日3食を作る仕事に就いたが、彼の人生の中で最もハードな仕事のひとつだったと言う。毎朝5時に起きて、子供たちとその教授たちのためにトーストと朝食を用意しなければならなかった。
ロンドンに着いたのは11月初旬で、とても寒く、ロンドンからボーンマスまで電車で5時間かかった。
新年を迎えてからは、いくつかのパブにピアノがあることを知った。また、教会のオルガンが弾けることも知った。彼は毎週日曜日にオルガンを弾けば、もっと儲かると神父を説得した。土曜日の夜は、パブで少しずつ演奏するようになった。
そのうち、ある会場から、午後にお茶を飲みに来る女性たちのために、女性がブリッジをするティーサロンの演奏を頼まれるようになった。そこで週に3回ほど演奏した。
パトリックはコックとは別の仕事をすることが、イギリスの法律で許されていないことを知らなかった。
数週間後、突然、ボーンマスの地元の音楽家組合の書記がやってきて、「あなたは演奏することを許されていない。あなたは労働許可証を持っていないので、国を出なければならない」と言われた。
それでフランスに行き、その2日後にはイギリスに戻った。
そこで素晴らしいミュージシャンたちに出会い、彼らのバンドThe Night Peopleでキーボードを弾かないかと誘われた。
何度かライブをするようになったが、またイギリスから追い出された。それで彼は9ヶ月間イギリスを離れることにした。
その間、ジュネーブで辞典を売る仕事に就いた。また、ドイツやフランスでは、自分で結成したトリオでギグをやっていた。
65年のチューリッヒ・ジャズフェスティバルではカルテットで優勝し、ジョン・コルトレーンとそのカルテットのオープニングを務めることになった。(前述)
また、メキシコとマイアミを経由して、初めてニューヨークへ行った。65年11月9日に、アイドルワイルド空港(後のJFK空港)に到着した。
荷解きをして、すぐに着替えて、友人たちに会いに行くために39階からエレベーターに乗り込んだ。下の階に着いたのは午後5時27分で、突然全ての電気が消えた。「ニューヨーク大停電」だった。
ハドソン川には満月があって、ホテルでは暗闇の中でバイオリンやアコーディオンなどのオーケストラがアコースティックで演奏していた。
パトリックは1994年の終わりから95年の初めにかけて「Coming Home America Tour」と呼ばれるツアーをやった。95年の11月まで92回のコンサートを行ったが、主にアメリカで、ヨーロッパでも何回か行った。
ニューヨークで演奏したときは、友人たちを呼んでジャムった。最初の2枚のソロアルバムに参加してくれた、ギタリスト、レイ・ゴメスもいた。
アコースティック・セクションの間、照明を消してくれるように頼んでおいた。
彼にとっては1965年のニューヨークのブラックアウトの時の経験を思い出させるような素晴らしい体験になったと語っている。
②に続く