後醍醐アンダーソン天皇


鎌倉幕府の後に天下を制したのは持明院統の光明ラビン天皇を擁する足利スクワイア尊氏だった。

しかし不満を抱いて京を脱出した大覚寺統の後醍醐アンダーソン天皇はモンセラト吉野に南朝(通称ABWH朝)を開いた。

南北朝時代の始まりである。

南北朝はそれぞれの正統性を訴えて訴訟合戦を繰り広げ、内戦状態に陥った。


後醍醐アンダーソン天皇が開いた南朝は、非商業主義であり、三種の神器(ブルフォード、ハウ、ウェイクマン)を有すると、正統派プログレを主張したが、セカンドアルバムの制作が進まず、ジリジリと勢いを失っていった。


力をつけた北朝(通称90125イエス)の足利スクワイア将軍は、南朝に南北朝合一を持ち掛ける。

そして遂に南北合一(通称ユニオン)が実現し、南北朝時代は終わりを告げた。


光輝く2001年まで持たなかった(笑)


しかし合一の条件だった大覚寺統と持明院統の両統迭立の約束は果たされず、結局ブルフォード、ハウと次々に更迭され離脱して、最後まで残ったウェイクマンもイエス朝を離脱するに至り、大覚寺統(ABWH朝)は消滅した。


それなのに現在宮内庁にある皇室の家系図では南朝(ABWH朝)が正統とされている。

これは北畠親房の「神皇正統記」や南宋の朱子学の影響を受けた徳川光圀の「大日本史」(水戸学)が幕末の尊王派志士(通称プログレマニア)に大きな影響を与え、明治時代に明治天皇が南朝が正統だと裁可したためである。

このため現在では、南朝を支えた楠木ブライアン・レーン正成が善人の忠臣であるという誤った評価が定着してしまっている🤣




関連記事?