■エマーソンとの最後のアルバムの物語

ロバート・ベリー インタビュー)


2023212

By Nick ShiltonProg


米プログレッシヴ・ロックのロバート・ベリー、EL&Pの伝説的存在キース・エマーソンとの友情と、「3(スリー)」と再起動した「3.2(スリー・ポイント・トゥー)」での作業を振り返る


晴れた月曜日の午前10時、ロバート・ベリーはロンドン中心部のホテルの会議室に入り、3.2名義でリリースされた『The Rules Have Changed』のプロモーションのため、プレスツアーの最初のインタビューに応じた。

北カリフォルニアの自宅から飛行機を降りてわずか24時間しか経っていないにもかかわらず、ベリーは愛想のいいエネルギーの塊のような男だ。


ミュージシャンとして、またプロデューサーとして、さまざまなスタイルで長いキャリアを持つ彼だが、『The Rules Have Changed』が自分のキャリアの中で最も重要なアルバムであると同時に、否定的な批判を浴びるアルバムであることを痛感しているようだ。

「人がどう思うかが心配なんだ」と彼は認める。

「これは、キース・エマーソンと話し合ったことに従った、彼と僕のビジョンなんだ」


しかしその前に『The Rules Have Changed』の背景を説明しよう。

クラシック音楽の教育を受けたピアニストであるベリーの音楽キャリアは、1970年代半ばに始まった。

彼の最初のバンドHushは、プログレのカバーを演奏した後、オリジナルに転向した。

「プログレッシヴ・ロックは僕の血の中にある」と彼は宣言する。


1980年代半ば、ベリーはプログレの名声に触れる機会が何度かあった。

「カール・パーマーが1986年にジョン・ウェットンの代わりにエイジアで演奏してくれと連絡してきたんだ。

それが水門を開けて、最も成功した男が僕のキャリアをセットアップしてくれたんだ」


スティーヴ・ハケットがGTRを脱退した後、ベリーはイエス / エイジアのギタリスト、スティーヴ・ハウと共にGTRがセカンドアルバムのレコーディングを検討しているときに演奏した。

そのアルバムは実現しなかったが、ベリーは今やプログレの重鎮たちのレーダーに捕らえられていた。

1987年、エマーソン・レイク&パウエルの解散に伴い、エマーソン、パーマーと3(スリー)を結成。


プログレとポップロックを融合させたアルバム『...To The Power Of Three』は19883月にリリースされ、様々な反響を呼んだ。


このアルバムはキュレーターの卵のようなものだが、爽快な「Desde La Vida」や、エマーソンが元ナイスマネージャーのトニー・ストラットン-スミスを追悼して感情的に書いた「On My Way Home」など、良いものは非常に良い。


それ以外のところでは、エマーソンの装飾にもかかわらず、いくつかのポップロックは耳障りだった。

”Runaway”は僕の好きな曲の一つだが、3には合わなかった」とベリーは同意する。

「口当たりは良いが、美しさがないんだ」

「ゲフィンのジョン・カロドナーはこの曲で僕を見つけ、ブライアン・アダムスとスティングの出会いとして見てくれた。

でも、それがEL&Pのどこに入るんだ? それはない」



同様に、ベリーは、元々ティナ・ターナーのためにスー・シフリンが共作した、あからさまに商業的な「Chains」についても複雑な思いがあるようだ。

ベリーは「”Chains”を歌うのは好きだった」と認めるが、「あのアルバムの曲の中で、3がどうあるべきだったかという点では、一番嫌いな曲だ」とも言う。


「キースは、カールがエイジアで楽しんでいたような、プログレッシヴ・ファンのための音楽性と、ジャーニー・ファンが好むような曲もあるような成功を求めていたんだ。『3』のセカンド・アルバムでそれを見つけることができたはずだ」


しかし、3のセカンド・アルバムは存在しなかった。

ツアーの後、バンドはロンドンで再集結した。

ベリーは続けることに熱心だったが、自分が水を押して坂を上っていることに気がついた。


「ロンドンでの最後のバンド・ミーティングに”Last Ride Into The Sun”を持って行ったんだ。バンドは弁護士と会計士と一緒に座っていた。

彼らは、キースがもうやりたくないからバンドを解散させるつもりだったんだ。

僕は”Last Ride”を演奏して...カールはそれがかなりいいと思った。

キースは『俺の演奏みたいだ』って言った。でもトラックをやっていたのは僕だった」


ベリーは、エマーソンが自分のベーシックなトラックをより良くしてくれると感じたことを説明した。

「でも、キースは3への批判に耐えかねて、ただ辞めたかったんだ」

バンドは終了し、この曲はベリーの1993年のアルバム 『Pilgrimage To A Point』に収録されることになった。


エマーソンとベリーは連絡を取り合い、エマーソンも長年南カリフォルニアに住み、ベリーがプロデュースする様々なプロジェクトにゲストとして参加した。

ベリーはエマーソンに3への再挑戦を勧めたが、その期待は限られたものだった。

このバンドはEL&Pの歴史の中で脚光を浴びる運命にあるように思えた。

「キースは3のことを完全に頭から追い出していた。彼はそれを軽視しようとはせず、ただ無視したんだ」


しかし、数年前、その年のバンドのツアーで録音された『Live In Boston '88』がリリースされ、エマーソンの3への興味が再燃した。


「キースはこのアルバムの発売後、僕に電話してきて、俺たちがこんなにいいなんて信じられないと言った」とベリーは振り返る。

「彼は、自分が自由になれるすべてのジャミングを聞いていた。

そして、彼は”Desde La Vida””On My Way Home”が素晴らしい曲であることを忘れていたんだ」


ベリーはエマーソンに、ベリーがソロ作品をリリースしていたイタリアのレーベルフロンティアーズ・レコードが、彼にもう13のアルバムを作るように説得してきたことを明かした。

エマーソンの興味を引くと、ベリーはフロンティアーズと契約を結び、多額の前金が支払われたが、その額はエマーソンを驚かせた。

「彼は、そんな金は普通手に入らない、もう誰も気にしない、と言っていた。

キースは、ジミ・ヘンドリックスのような存在だからだ。彼と同じことをする人は誰もいないんだ」



フロンティアーズ・レコードはエマーソンとベリーにこのアルバムのプロモーションのためにライブをさせることを望んでいた。

エマーソンは3のツアーにはあまり乗り気でなかった。

「でも、そんなことはどうでもよくて、アルバムを作ることが一番重要だったんだ。

予算も芸術的なコントロールもできた。キースも喜んでいたよ」


エマーソンとベリーは、提案されたアルバムのスタイルについて話し合った。

「僕たちはファイルを送り合ったりしていた。

それはやりがいのあることで、キースはとても乗り気だった。

僕のアルバムのアイデアは、僕が彼に曲を提供し、彼が自分のパートを曲に入れるのではなく、熱烈で素晴らしいエマーソンのパートを僕が書いている曲に入れることだった。

僕は、彼が作った曲の中から、さらに曲を作っていきたかったんだ。本当に楽しかった」


これをベースに3カ月間、ベリーはロサンゼルスにいるエマーソンを訪ねた。

「キースの最後の写真はNAAM(楽器展示会)で撮ったんだ。

彼は少し無口で、いつもの悪い冗談は言わなかったが、それ以外は元気そうだった」


その後、ベリーがエマーソンに電話したところ、キーボーディストがかなり落ち込んでいることがわかった。

エマーソンは、日本でのソロ・ライヴを控え、緊張していた。

「キースは、日本と日本人が大好きだ。そして、日本人もキースを愛している。

他のどのファンよりも、彼らは彼の一番のファンなんだ。彼は本当に動揺していたよ」

ベリーは、エマーソンに日本公演をキャンセルするよう提案した。



ベリーによると、エマーソンはライブの約束を守ってから孫に会いにイギリスを訪れ、その後カリフォルニアに戻り3のアルバムの制作を続けるつもりで断念したという。


ところが、2016311日、エマーソンはサンタモニカの自宅で自殺した。

ベリーは茫然自失となった。

「キースが亡くなった日、天才でありながらとても温かく無防備で、今まで見た中で最高のプレイヤーだったスイートな男との友情を失ったんだ。

そして、夢を失った。彼なしでは、絶対にアルバムはできないと思った」

彼の死を受けて、ベリーは「Our Bond」を書き、翌月にYouTubeに投稿した。


「僕たちの絆は、僕個人の反応というよりも、むしろ世界的な反応だと思いながら、僕の中から滴り落ちてきた。

キースは僕の友人であり、音楽のパートナーだったが、全世界がある種の感情を抱いていたんだ」


9ヵ月後、ベリーはエマーソンのキーボード奏者の息子アーロンと連絡を取っていた。

「アーロンと一緒にアルバムを作ったら、相当なトリビュートになって楽しいんじゃないかと思ったんだよ」

アーロンは、最初は乗り気だったが、提案された曲を聴くと、父親とは違うタイプのプレイヤーだという理由で、参加を見合わせた。


それでもベリーは、カール・パーマーがEL&Pレガシーの活動に専念することを希望していることを確認し、純粋にソロとして活動を進めた。

「『3』のサウンドと曲の多くは僕だと決めたんだ。そして3』のセカンド・アルバムを作ろうと思っていたのは僕だけだった。

ポップ・ソングではなく、自分たちが何をすべきかという考えを持っていた。

キースと僕は、サウンドやスタイルをどうするか、徹底的に話し合ったんだ」


ベリーは、『The Rules Have Changed』に収録されている曲の20%は、彼とエマーソンが一緒に仕事をした3ヶ月間に生まれたものだとしている。

実際、アルバム8曲のうち5曲(日本ではインストゥルメンタル曲が1曲追加)はエマーソンとベリーの共作である。

しかし『The Rules Have Changed』の音楽は、すべてベリーが演奏したものである。


「キーボードに向かって、『キースならどうする?』といつも自分に問いかけていた。

あるコード構成では、キースならどうするかわかっていた。

しかしソロに関しては、僕には彼のような演奏はまったくできない。

彼は無謀なまでに奔放なんだ。

でも、ソロをやるときは、ワンテイクで出てきた」


その結果、『...To The Power Of Three』よりもはるかに満足のいくアルバムに仕上がった。

「キースと僕が同じ部屋で曲を完成させたとしたら、こんな風にしただろうと思えるような、まとまりのある曲に仕上げるのに1年かかったよ。

キースとは”Desde La Vida”以降にやったどの作品よりも冒険的なアルバムを作ろうと思ったんだ」


ベリーは、このアルバムでは自分一人が演奏していることを意図的に明言しているが、『3.2』には賛否両論があることを自覚している。

「キースの名前を利用して商売をしていると思われたくないんだ。

商業的な成功のためにキースを利用するより、キースは僕にとってもっと重要な存在だ。だから、これは僕だけの作品だと言っているんだ。

ネガティブなこともあるだろうし、その覚悟はできている。

でも、これまで音楽が受けてきた愛には涙が出るほどだよ」


(この記事はプログ・マガジン90号からの再掲です)



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