この世界は矛盾の中にあるのではないか。
何が真実なのだろうか。
人は自分の経験を通して手に入れた価値観という名のレンズを通して世界を見ている。
世界そのものではなく、カメラに映るような客観性を持ったものでもなく、完全に主体のもの。
自分以外もレンズを通して世界を見ているため、主体である。
ここで問題が起きる。
世界は一つしかないものの中で、真実という観点から言えば、答えもひとつしかないのだろうか。
だとすれば、人同士が問題提起をして、二つ、三つ以上の答えが生まれ、議論しあうのはおかしいのではないのだろうか。
この世界には、真実というものがないのか、完全に正しいと言えることは、人間には不可能なのだろうか。
相手の言葉が真実をついているとは限らない、自分の言葉でさえも正しいか間違っているかを判断することはできない。
なぜなら世界の真実ではないのだから。
万有引力が起こり、重力が引っ張っているのだから飛ぶことができない。
慣性が働くのだから滑り続けることはない。
科学というものが事象に対して理由をつけ解明していくが、100%正しいわけではなく、人のつけた理論に今現在矛盾が生じないため、仮の証明としてあるもの。
本当の世界では、違う意味なのかもしれないが、それもわからない。
ないものをあると証明することはできないし、それをないものと証明することもできない。
矛盾しているような理論だが、不確実だからこそ成立している理論でもあるのかもしれない。
真実が一つの中でどうしてここまでの解釈が生まれるのか。
人はすでに自分の中に世界を持っている。
世界観という言葉からして、自分で世界を持って見ているようなものなのではないか。
人それぞれ世界を持っていて、自分の世界では真実を見つけ出している。
しかし、人それぞれ真実が同じなわけではない。
皆が真実と思っているものの信念のぶつかり合いがあるものに、争いは生まれ、矛盾が生じてしまう。
何が正義で何が悪か。
そんなものは、世界によって異なるもの。
敵国を打ち滅ぼし、革命を起こそうとしているものを正義とみているテロ。
テロによって何人もの犠牲が出る中、一人の患者を助けるために戦場を駆け抜ける医者にとっては、テロ行為は悪になるのだろうか。
ただ一人の己の信ずる神を絶対とし、他宗教の神を悪魔として争い続ける宗教。
八百万の神が宿ると信じる国から見れば、他宗教の争いはどう映るだろうか。
己が信ずるもののために生きているから、相手ともぶつかり合う。
時に怪我をし、挫折し、涙を流しながらも信念を貫く。
生きるということは、この世界で生きることは、とても辛く、困難で、獣道を歩くように、曖昧で、険しい道なのかもしれない。
でも、自分で道を切り開くこともできるかもしれない。
この世界は、無数の小さな世界がある。
それは、人。
混沌とした世界の中、人と人とがつながれる方法がある。
それが相手を理解する、相手を知ること。
それが、相手との意思疎通。
自己主張だけではぶつかってしまう。
だから相手の気持ちも汲み取り、相手の真実を見極める。
自分のよき理解者となってもらえるよう協力してもらう。
ただし自分の信念は曲げない。
コミュニケーションはとても大切なものだと思います。
この世界の中に存在する数多の世界。
人と繋がることのできる一つの手段だと感じています。
自分の世界を広くする、世界をもっとたくさん知ってみる、驚きを噛みしめる。
世界同士で交流する、自分の世界をアピールする、相手の世界を広げる。
相手の世界、そして己の世界を知り、この広大な世界を生き抜くことができる。
そんな可能性も秘めているもの。
そう感じています。