本日は大分県豊後高田市大字御玉にある
若宮八幡神社を紹介します。
~若宮八幡神社~
祭神 大鷦鷯尊
配祀 天照大御神 玉祖命 隼總別皇子
大葉枝皇子 小葉枝皇子 雌鳥皇子
多紀理毘賣命 市寸嶋比賣命 天之忍穗耳命
天之菩卑能命 天津日子根命
活津日子根命 熊野久須比命 應神天皇
由緒
淳和天皇の天長元年(八二四)、豊前国宇佐郡大神朝臣蘊麿の母酒井門主女に「我と奉齊せよ」とのお告げがあり、文徳天皇の仁寿二年十二月(八五二)、宇佐宮造営使正六位上藤原朝臣勝主主典、正六位上香上宿祢永貞の両人に頼んで社殿を創営し、お祭しました。
ご祭神の内天照大神、玉祖神、品陀別命の三柱は元正天皇の養老二年(七一八)、市内字御玉にありました璞を御神体としてまつったものであります。
往古より郡市内随一の神社で構造の広大壮麗なことは、地方にその類がなく、信仰は大変厚いものでした。
元亀二年七月(一五七一)と天正七年(一五七九)の二度、大友義鎮や大友左兵衛督の兵火に合い、総ての財宝、牛馬を略奪されましたが文禄の頃(一五九二~五)竹中伊豆守重隆が高田城に居り、再び社殿を造営して復旧しました。
寛文九年八月(一六六九)、松平主殿頭によって封内の宗祠と定められてからは歴代領主の尊崇厚く現代の社殿は天保四年(一八三三)、松平忠侯のご造営によるものであります。
昭和三十年、桂川河川改修のため、鬱蒼たる境内林の伐採を惜しまれながら八十㍍東方に移転、今の社はその後植林されたものであります。
尚、旧暦十月半ばに執行される「川渡し神事」は、永保四年(一〇八四)に始められ日本三大裸祭の一つとして既に九百年余の伝統をもっています。
では鳥居から。
鳥居をくぐり参道を歩いて行くと
参道には石祠もあります。
こちらは粟嶋社です。
平成18年8月に建てた由緒もあります。
本殿まで歩いていく途中に今度は宮地獄神社があります。
額にはもちろん宮地獄神社とあります。
こちらが『天の邪鬼』です。
四つんばいになった人の上に石の重石を置いてます。
『邪心を持ち、物まねが上手で、
他人の欠点に乗ずることを得意とするが、負けて滅びる者の姿です。』
古代に半島から来た渡来人のことだったりして・・。
では境内に入ります。
拝殿横に巨石があります。
この巨石の横に石段があるので
登って見るとこんな感じです。
丸くくり抜かれていますが・・
その横に石祠が祀られています。
この山門から本殿へ行くようです。
多分この神社のお祭りの時しか開かないのではないかと思われます。
本殿はこの位置からしか写真を撮ることが出来ませんでした。
以上です。
まずこの豊後高田にはホーライエンヤと言うお祭りがあります。
http://uchio.sakura.ne.jp/nakatsu/kurose/2009-1/2009-1-11bungotakada.htm
そして11月の終りには裸祭りが行われている
↓は裸祭りの写真集です。
http://www.hadaka-maturi.com/
古代の生活の跡である盃状穴を見ても
分かるようにこの地は古代から人々が多く生活していたことが分かる。
ここで取り上げた祭りは
古代の神様が海から来たことを残しているのではないだろうか。
ホーライ(宝が来た)エンヤ(掛け声)とは
高天原から何かを持って帰った名残ではないかと思う。
裸祭りは古代の神様(指導者)を
海に迎えに行ったと言う伝承が残っているのでは?
そして豊後高田の神社では
神楽の奉納が無い。
宇佐は神楽が盛んだがこの様な祭りは残っていない。
豊後高田は古代の伝承を神楽ではなく祭りで残しているようだ。
では本日は長くなりましたがこの辺で。