今日も「今も語られる主・携挙は本当だった!」から転載させていただきます。
主から「聖餐」についてのメッセージです。
キリスト教会では聖餐式が定期的に行われます。教会によって毎週だったり月1回だったりするようです。プロテスタントでは聖餐式、カトリックでは聖体の秘跡とか聖体拝領と言うようです。
カトリックでは毎週「聖体拝領」がありました。これは確か洗礼や堅信礼を受けたクリスチャンだけが聖体拝領できたと思います。小さい子供や堅信礼を受けていない人は神父さまから頭に手をのせて祝福を受けていたと思います。誰かが間違って聖体拝領を受けようとした時、神父はその人を脇によけていました。この人はまだ受けられないということを見分けているのかな?と思いました。
聖餐を受けられるのは、イエスキリストの福音を信じて霊的に新しく生まれた人でないと受けられないようですね。注意が必要です。
「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、「主は私たちのために死んでくださった」という主の死の意味を、くり返し告白するわけです。主が再び来られる時まで続けなさい。
ですから、もしふさわしくないままでこのパンを食べ、主の杯を飲む人がいれば、彼は、主の体と血とに対して罪を犯すことになります。 したがって、聖餐に臨む前に、めいめいが注意深く、自分を省みなければなりません。 もしキリストの体を気にもかけず、その意味を考えもせずに、ふさわしくないままでパンを食べ、杯を飲むなら、神のさばきを招くことになります。キリストの死をもてあそんだわけですから。 あなたがたの中に弱い者や病人が多く、また死者も出たのはそのためです。 しかし、食べる前に注意深く自分を省みるなら、さばきや懲らしめを受けることはありません。」
コリント人への手紙Ⅰ 11:26-31 JCB
https://bible.com/bible/83/1co.11.26-31.JCB
聖餐式(聖体の秘跡)で出されるパンと葡萄酒(ぶどうジュース)は、祈りの言葉や信仰によって本当にイエスキリストの体と血に聖変化する❗️
カトリックや正教会、プロテスタントの一部(ルター派?)はそう信じていますが、パンと葡萄酒はイエスキリストの体と血に変わるわけではなく「象徴」だとする教派も多いようですね。
(ウィキペディアから)化体説と共在説
カトリックでは、パンと葡萄酒は聖別されると、実体的にキリストのからだと血に変化するという「化体説」を公認していたが、福音主義運動の担い手の多くはこれを批判したが、ルターはキリストのからだと血は、聖体拝領のパンと葡萄酒の中に、その下にそれとともに実在するという共在説(両体共存説)をとってカトリック的痕跡をとどめた[1]。これに対し、人文主義の強い影響を受けたフルドリッヒ・ツヴィングリは「象徴説」を採用し、パンと葡萄酒にはいかなる意味においてもキリストのからだと血は実在せず、キリストを象徴する記号にすぎないと主張した[1]。この対立はプロテスタント内部の分裂の一因となった[1]。
聖餐式は基本的に教会に行って受けるのが良いと思いますが、私のようにあまり教会に行かない人は家で聖餐式をしてもいいと思っています。実際に家で毎日聖餐式をするクリスチャンもいますね。
疫病や惑沈💉による体調不良、人工的な添加物や遺伝子操作された食べ物などで健康が脅かされているこの世においては、イエス様のパンと葡萄酒でイエス様と一つの体となり強めていただくのは必要なことと思います。
聖餐
2015年7月30日
主の祝福が本当に皆さんと共にありますようにお祈りしま す。
ユーチューブファミリーの皆さん。主が今日「聖餐」について教えてくださいました。
主が語られた御言葉を分かち合う前に、私は皆さんにお聞きしたいことがあります。誰が最も良い聖餐を行っているのか、そして どの聖餐が妥当であり、どの聖餐が妥当でないのかについて、人と喧嘩や議論や不一致を経験したことがあるかどうか、お聞きしたいのです。
それらのすべては、主にとって単に嫌なことです。
主はちょうど今日、主の司祭たちに一つの シンプルなメッセージを与えてくださいます。このメッセー ジは「聖餐」についてのメッセージです。 このメッセージは 主にとって非常に重要であり、特に私たちの環境がますます 暗くなっているため、私たちは聖餐にもっともっと強く集中 しなければならないからです。
私は私の生涯において、毎日聖餐を通して、主は私を力強く作ってくださいました。 そして、主への回心においても決定的な役割を果たしました。
偉大な伝道者であるSmith Wigglesworthも毎日聖餐を受けていました。 彼の証言は驚くべきものです。これは主が私たちに示されたい方法であり、 その過程を通して主の花嫁たちを力強くされることを望んで おられます。 そして主はこの方法を通して主の花嫁たちと一つになることを望んでおられます。聖餐を通して肉体的にも一つになることを望んでおられます。
主は言われました。「私は聖餐について話したい」。
あらあら、それはデリケートなテーマです。一種の「立ち入り禁止区域」のようなテーマです。だから、多くの人が真の聖餐が何であるかについて議論しています。
「私は聖餐について完全で明白に言わなかったか? 聖書で少なくとも7回は言った。もしあなたの心に信仰があるなら、 そしてあなたの唇で本当に告白するなら、私は聖餐を通して 奇跡的な方法であなたに近づくだろう。これが、あなたが生きているこの時代、この世で私が私を供給する方法だ。
これは私が考える理想的な方法ではないが、しかし、あなたが生きているこの時代はあまりにも悪質であるため、この方法を 通して私はあなたたちに供給するのだ」。
「私が本当にパンとぶどう酒の中に存在することに対する疑 念を払拭するために、納得できる聖書の言葉をすでにあなたたちに与えた。あなたにはただのパンとぶどう酒にしか見えないかもしれないが、私はその中に臨在している。あなたの人生の旅に必要な栄養を供給するために、私がそこに存在するのだ」。
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたし の内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」。 (ヨ ハネによる福音書6章56節)
「聖餐についての異なる信仰に関する議論するつもりは全くない。このYouTubeチャンネルは議論のような目的を持って いない。すべてのクリスチャンは『これは私の体と私の血 だ』と私が宣言した言葉を信じている。たとえ聖餐に対する考えや聖餐のテーブルに向かう方法は異なるかもしれないが。
しかし、私の花嫁たちよ、あなたたちは必ず私の体と私の血で栄養を与えられなければならない。これが私との肉体的な結びつきの要点だ。 そのパンは肉体的にあなたたちの一部となり、それによってあなたたちと私は一つになる。そうしてあなたたちは実を結ぶに値するようになり、霊的な子供たちを産み、あなたたちの人生の旅のために力強くなっていくのだろう」。
「もしあなたたちが形式が重視される教会の出身で、司祭あるいは神父から聖餐を受けるなら、この言葉をしっかりと心 に刻んでほしい。『真に、イエス様、これは主の体だ。真に これは主の血だ。』
こうして、崩壊した教会と信仰の中で、 欠けている真の心の中の意図を回復し、補償することができるだろう。ただあなたの心の中の真実な告白を通して再び建てられるだろう。そうだ。あなたの深い敬意とあなたの心の中の聖なる宣言が、不足している信仰を再び完全に回復するだろう。このような誠実な信仰の祈りを私は尊敬する」。
主がここで暗示されているのは次のようなことです。今日、 この世代にはあまりにも多くの働き者や司祭がいますが、彼らはこう言います。 『これは主の体であり、主の血だ」。し かし、彼らは本当にその意味を知らないことが多いのです。 彼らは本当に信じていない。 だから、あなたの忠実な信仰の 告白、すなわち「これは本当に主の体と血だ」という告白が 彼らの信仰の不足を補うことになると主は言われるのです。
「私はいつも信仰を持った忠実な祈りを尊敬している。たとえ私があなたの望むように答えられないとしても、そうだ。 聖餐の問題においても、私はそうしてあなたの信仰の告白を誉める。あなた方全員が私のこの意志に同意するとは限らな い。あなたがたは私に同意しない権利を持っているからだ。 しかし、この時代を生きるあなたたちが、外見上は真理であるように見えるが、内面的には真理が欠けている状態にあるものについて、もう一度考えてみてほしい。あなたたちが教会で受けている聖餐がこれに含まれる。聖餐は、贖いと救いの神秘であり、あなたたちを永遠に聖化する神秘だ」。
そして、主がこのみ言葉を引用されました。
(ヨハネによる福音書6章53節)「イエスは言われた。『はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなけれ ば、あなたたちの内に命はない』」。
「私は、あなた方がそれぞれの指示に従って、最後の晩餐のような聖餐を準備することを望む。あなたがたが信じる程度まで、その程度まで、私はあなたがたに私を現わす」。
そして、私はさらに言いたいのだが、もし皆さんが本当にそれがイエス様の体と血であると信じるなら、皆さんは聖餐の後に残ったものを非常に丁寧に廃棄しなければならないのです。残ったものをすすぎ、観葉植物に与えてください。水に溶かして植物や他の場所に注げば、残り物を侵すことはないでしょう。絶対にそれ(残り物)を鳥の餌に与えないでください! 残り物をとてもとても丁寧に処分してください。下水道に捨てないで、観葉植物や他の特別な場所に注いでくださ い。
「物事が日に日に暗くなっていくので、私はあらゆる可能な方法であなたたちを強くしたいのだ。
私の体と血を受けることは、多くの方法の一つだが、聖餐は私にとって言うまでも なく重要だ」。
(ヨハネによる福音書6章47〜51節) 「はっきり言っておく。 信じる者は永遠の命を得ている。 わたしは命のパンであ る。 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って來たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って來た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永 遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
「あなたがたのほとんどは、ある一つの伝統に属する人々だから、あなたがたの行っていた伝統に従って聖餐を受け続けているだろう。しかし、もし迫害のために聖餐ができなくなったら、尊敬の心と信仰をもって個人的な聖餐を行うようにしてほしい。そうすれば、私は特別な方法であなたたちに近づく。
私の花嫁たちが心で私を受け入れることを私は切望 している。私はあなたたちとこの聖餐を分かち合うことを切 望している。私たちが可能な限りの方法で一つになることを切望する。聖餐を通して私があなたの体に近づくことを否定してはならない。あなたがたが罪を犯したからといって、私を受け入れることを避けてはならない。
聖餐が最も必要なのは、病気の人だ。まず、あなたたちの犯したことを私に告白し、誠実に心から悔い改めれば、あなたたちは私を受け取ることができる。
私は、あなたたちに自分の心の確信に従うことを望む。もしあなたたちが司祭から聖餐を受けるならば、 信仰の中で私の臨在を告白しなければならないことを覚えて、受け続けてほしい。
もしあなたたちが他の形の教会で聖 餐を受けるなら、あなたたちの良心が証言する限り、受け続けてほしい。しかし、信仰の中で私の臨在を告白することを 確実にしなければならない」。
「多くの教団が教えることには誤りが多く、そして人間の傲慢と自我のために、この時代に、真の真理は天国でのみ完全に知られるようになった。宗教の霊が聖餐に対するあなたの考えを支配しないようにし、宗教的伝統について議論しないでほしい。私が言いたいことがある。私は人々の議論を憎む。論争は私の目にはとても汚い嘔吐物だ。むしろ静かに兄弟間の連合を維持する方が良いことを知らないのか。そして、お互いに不完全な知識を持って自慢して争うよりも、 謙って謙遜な心で愛する方が良いことを知らないのか。言い争いで達成することは何だろうか。恨みや敵意だけだ」。
「参考までに、私はあなたたちの心に私の真理を教えよう。 しかし、あなたたちは他の人にそれを強制してはならない。 私はパウロに属する者、その方法がよりよい、私はペトロに 属する者、彼の方法がよりよい、と言ってはならない。天使たちの目には、あなたたちがどれほど愚かに見えるか知って いるか? むしろ、お互いのために祈ってほしい。そうすれば、その真理はより強くなり、残りは私の時に私が満たしていく。その間、私があなたたちを愛したように、互いに愛し合いなさい」。
賛美
John Michael Talbot 「The Bread of Life」 (命のパン) https://www.youtube.com/watch?v=vrCN2sJpfvY
(転載ここまで)
John Michael Talbot 「The Bread of Life」 (命のパン)
コリントの信徒への手紙一 11:23-34
【主の晩餐の制定】
「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、 感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。
【主の晩餐にあずかるには】
従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。 だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。
主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。 そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。
わたしたちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません。 裁かれるとすれば、それは、わたしたちが世と共に罪に定められることがないようにするための、主の懲らしめなのです。
わたしの兄弟たち、こういうわけですから、食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい。 空腹の人は、家で食事を済ませなさい。裁かれるために集まる、というようなことにならないために。その他のことについては、わたしがそちらに行ったときに決めましょう。
コリントの信徒への手紙一 11:23-34 新共同訳