後悔 | おうちさがしの『家.s』のブログ 野田本店

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株式会社YES(イエス)野田本店のスタッフブログです。

こんにちは。株式会社YES の志村です。

本日は、テンションを下げて暗い話をさせて

ください。



皆様は今まで‘後悔’したことはありますか?



ここで言う後悔とは、本当の意味での後悔です。



先日、31歳になった私ですが、今まで生きてきた

中で、一生忘れることのない、むしろどう償えば

良いか未だ答えが見つからない後悔があります。



2007年夏、56歳だった母が突然余命1年と宣告

されました。原因は肝炎でした。



私にとって母とは、全てを受け入れてくれる存在

でした。



昔、バカをやっても口うるさいことは言わず、失敗

は自分の体と心で覚えなさいと言われ育ちました。



余命宣告を受けてから、仕事の合間を縫って病院

に顔を出したり、時には車で外にドライブに行ったり、

少しばかりではありましたが母との時間を重んじた

つもりです。

※今思えば、もっともっとできることはありましたが



そんな母が意識障害(肝機能が低下している為、

アンモニアなどの有毒成分などが浄化されずに、

脳に回ってしまうため)で入退院を繰り返すように

なったのが2008年の春ごろです。



危険な状態を何度も繰り返し、8月一杯は何とか

元気さを気丈に振る舞ってくれていました。



9月1日、母が突然「お世話になっている看護婦

さん達の為にブドウを買いに行く」と言い出しました。

(出身が茨城なんですが、周囲はブドウ農家が

たくさんあります)



母親には余命のことは話をしてませんでしたが、

もう何となく分かっていたのでしょう。



その日は妻と二人でお見舞いに行ったのですが、

一緒に車に乗せて、いつもお世話になっていた

農家さんを訪ねました。



ただ体も限界だったのか、「私、車で待ってるから

ブドウ買ってきてくれない?」と、いつもの母では

ありません。



私に似て(ん?私が似たのか・・・)食べるのが

大好きな母なので、帰りの車中「何か食べたい

ものある?」って聞いたんですが、車の窓を開けて

「このまましばらくドライブしていたい」とだけ

言っていたのを今でも鮮明に覚えております。



そしてそれから1週間後の9月8日の夕方、

父から連絡をうけました。



「お母さんがもう限界らしいんだけど、すぐに

行けるか?」

(父は五反田まで通っていたのでとうてい

間に合いません)



今まで何度か危ない時がありましたが、

この日は‘危ない’ではなく、‘もう限界’

ということでした。



妻のお腹に子供がいたので、すごく神経を

遣いながら急いで行ったのを覚えてます。



住んでいる野田市から龍ヶ崎までおよそ

1時間、せめて母にもう一度顔を合わせて

あげたい、の一心は届かず、病院に着いた

時にはすでに息を引き取っていました。



私がそこで目の当たりにしたのは、まだ

顔が赤く、体も生暖かい母の頬にあった

涙が流れた痕でした。



私は母が泣いているのを見たことが

ありません。



そんな母が息を引き取る間際に流した

涙のわけは何だったのでしょうか。



私が思うに、息を引き取る前、自らの死を

悟ったのだと思います。



思うように体も動かせず、見上げれば

病院の天井です。



周りには家族一人としていません。



私は、母に「生きてきて良かった」と思って

息を引き取っていただきたかったですが、

寂しい思いをさせて息を引き取らせた

最低の息子であると今でも自責の念が

あります。



あの涙は寂しさの涙に違いありません。



実は亡くなったこの日の午前中、たまたま

病院にお見舞いに行っていました。



今思えばその時から様子がおかしかった

と感じます。



息も荒く、意識も朦朧としていました。



一応、看護婦さんに「母は大丈夫ですか?」

と聞いたのですが、「まだすぐにどうこうでは

ない」の言葉を信じて、病院を後にしたのが、

最後です。



その日一日をつぶすつもりで病院に居れれば、

母に寂しい思いをさせなかったというのが、

私の一生の後悔です。



私事のエピソードを記事にしてしまい恐縮では

ありますが、後悔先に立たずとは正にこの事

です。



皆さんも大切な人が必ずいるはずですが、

あの時こうしておけば~と何度唱えても

時間は取り戻せません。



人生は一度きり、後悔の無いように思い切り

人生を歩みたいと感じるこの頃です。



では。