まだ何かに挑戦してみたいという気持ちがあったので、求人誌で目についたことに挑戦してみることにしました。
結果的には条件や環境などの面ですぐに諦めてしまうことになったので、病気のことがどれほど影響していたかは実際のところはわかりませんが、治療を始めて半年も経たないうちに新しいことを始めるというのは、今考えると本当に無理のあることだったと思います。
病気のせいだとすると、その判断をしてしまったことだと思います。
それからは、一旦働きだしてしまったために、立ち止まってこれまでのことをしっかり振り返ることもなく、ただただ、前に進まなければ、という一心で派遣などで働きました。
ただこの時点でしっかりした意志がなく、まだふらふらした気持ちを持っていました。
夢に向かうのか、お金を貯めるのか、新たな可能性を見つけるのかetc.…自分でもどうしたいのか、何を優先すべきなのかわかっていませんでした。
今その時、目の前にある仕事、ちょっと気になる仕事をしました。
結果長く続かなかったり、派遣切りにあったり。
そもそもなぜ今自分がそういう状況なのか、それをすぐに忘れてしまっていました。
やりたい方向に向かおうとして病気になった、そして最初は社会復帰が目標、その後また夢に向かおうと思ってたのに、社会復帰で変に焦ってつまずき、そのまま何度も迷子になってしまっていました。
その間に一人暮らしを始めていました。
病院の先生には、新しい環境になることは危険だと言われましたが、私の気持ちの面では一人暮らしを始めたことにより、だいぶ軽くなりました。
でも今思えばそれによって経済的負担が必ずついてまわるので、つまずいたときの焦りも大きかったと思います。
でもまぁ実家にいればそのぶん精神的負担も大きかったと思いますが…
病院の先生の体調不良によって病院がかわったこともあり、通院も薬も2年程でやめることとなりました。
初めは不安でしたが、安定剤を頓服用に手元に置き、徐々になくしていくという方法で離れることができました。
でも薬から離れたこと、何かにつまずいてしんどくなった時に病気のせいということで片付けたくない、と思うことで、益々病気のことを考えなくなりました。
そもそも最初から、なぜ病気になったのか、それときちんと向き合っていませんでした。
心療内科での診断は、「うつ病」ではなく「うつ状態」でした。
比較的軽い段階。
それでも抗うつ剤や精神安定剤、睡眠導入剤などを処方され、完治までは最低でも5年と言われました。
うつと診断された人の中には、自分がそんなことになるはずはない、と思う人もいるということを聞きますが、私はそう診断してもらったことで、「今は普通の状態ではないし、しんどくてもいいんだ。」と思え、楽になりました。
今思えば、守るべき家族がいる訳でもなかったし、両親は年金暮しとは言えそれなりに余裕のある生活をしていた実家で療養できる、という環境があったから気楽だったのだろうと思います。
しかし、両親には一応説明をしましたが、「きちんと理解」してくれるには程遠い状態でした。
だから、うつの治療に欠かせないと言われている家族の理解と協力は、ほとんど得られませんでした。
何も言わずに見守ってくれてはいましたが。
そのかわり、結婚して離れて暮らす姉と、親しい友人たちには本当にお世話になりました。
カフェの仕事は辞め、掛け持ちで始めたばかりのバイトも辞めるつもりでしたが、店長の好意で籍だけ置いておくからいつでも戻っておいで、と言っていただき、掛け持ちのために始めたという気楽さがかえっていいかも知れないと思い、好意に甘えることにしました。
それからしばらくは引きこもりのような生活でした。
薬を飲み始めるといくらでも寝られ、寝続けました。
でもしばらくそんな生活を続けていると、薬の効果もあり、すぐに元気を取り戻してきました。
当時、完治まで5年もの年月がかかる、と言うことは果てしなく長い道程に思われ、それまで前へ進めないと言うことはとんでもなロスをしてると感じたし、少しずつ回復する中で、もっと早く回復してみせるぞ、というような気持ちも生まれていました。
2ヵ月程で、少しずつバイトを再開しました。
ゆるい雰囲気のところだったのもあってか、案外、無理なく復帰できました。
3、4ヵ月経った頃にはまた何かを始めたいと思い始めていました。
比較的軽い段階。
それでも抗うつ剤や精神安定剤、睡眠導入剤などを処方され、完治までは最低でも5年と言われました。
うつと診断された人の中には、自分がそんなことになるはずはない、と思う人もいるということを聞きますが、私はそう診断してもらったことで、「今は普通の状態ではないし、しんどくてもいいんだ。」と思え、楽になりました。
今思えば、守るべき家族がいる訳でもなかったし、両親は年金暮しとは言えそれなりに余裕のある生活をしていた実家で療養できる、という環境があったから気楽だったのだろうと思います。
しかし、両親には一応説明をしましたが、「きちんと理解」してくれるには程遠い状態でした。
だから、うつの治療に欠かせないと言われている家族の理解と協力は、ほとんど得られませんでした。
何も言わずに見守ってくれてはいましたが。
そのかわり、結婚して離れて暮らす姉と、親しい友人たちには本当にお世話になりました。
カフェの仕事は辞め、掛け持ちで始めたばかりのバイトも辞めるつもりでしたが、店長の好意で籍だけ置いておくからいつでも戻っておいで、と言っていただき、掛け持ちのために始めたという気楽さがかえっていいかも知れないと思い、好意に甘えることにしました。
それからしばらくは引きこもりのような生活でした。
薬を飲み始めるといくらでも寝られ、寝続けました。
でもしばらくそんな生活を続けていると、薬の効果もあり、すぐに元気を取り戻してきました。
当時、完治まで5年もの年月がかかる、と言うことは果てしなく長い道程に思われ、それまで前へ進めないと言うことはとんでもなロスをしてると感じたし、少しずつ回復する中で、もっと早く回復してみせるぞ、というような気持ちも生まれていました。
2ヵ月程で、少しずつバイトを再開しました。
ゆるい雰囲気のところだったのもあってか、案外、無理なく復帰できました。
3、4ヵ月経った頃にはまた何かを始めたいと思い始めていました。
そしてついにある日仕事が終わった後、爆発が起こりました。
悲しいとか、つらいとか、そういう感情でもなかったと思います。
ただただ何かに耐えられなくなって中にあるものも出したくて、とりあえず仕事場から少し離れたところまで行って、姉に電話し、公共の場だったにも関わらず大声を出して泣きました。
咄嗟にトイレに駆け込みましたが、個室の外に声が漏れてたのはもちろん、トイレの外まで声が聞こえていたのではないかと思います。
その時に頭の中にあったことは「死にたい。」でした。
それまでも私は厭世的でした。
でも、Everything happens for the best.を知ってからは前を向くようになったし、高校の部活の仲間を二度も突然失うという経験を18歳と26歳の時にしてからは彼らの分も精一杯生きないといけないと思っていたし、親孝行なことを何一つできていない私はせめて親より先に死ぬという親不孝は避けられる限り避けようと思ってきたのに、その時の私は本気で死にたいと思ってしまっていました。
ただ、そう考えるだけで実行する勇気なんてなかったし、具体的なことも何一つ考えてはいませんでした。
それに、「この状態はやばい」と思える理性もまだ働いていました。
そのことを姉に伝え、とにかく、知り合いの臨床心理士の先生に相談することにしました。
知り合いに臨床心理士の先生がいたことも、本当に幸運でした。
それまでも色んなつながりや縁を大事にしてきてよかった。
それからその先生のところに何度か通い、並行して心療内科の先生も紹介してもらって治療を受け始めました。
悲しいとか、つらいとか、そういう感情でもなかったと思います。
ただただ何かに耐えられなくなって中にあるものも出したくて、とりあえず仕事場から少し離れたところまで行って、姉に電話し、公共の場だったにも関わらず大声を出して泣きました。
咄嗟にトイレに駆け込みましたが、個室の外に声が漏れてたのはもちろん、トイレの外まで声が聞こえていたのではないかと思います。
その時に頭の中にあったことは「死にたい。」でした。
それまでも私は厭世的でした。
でも、Everything happens for the best.を知ってからは前を向くようになったし、高校の部活の仲間を二度も突然失うという経験を18歳と26歳の時にしてからは彼らの分も精一杯生きないといけないと思っていたし、親孝行なことを何一つできていない私はせめて親より先に死ぬという親不孝は避けられる限り避けようと思ってきたのに、その時の私は本気で死にたいと思ってしまっていました。
ただ、そう考えるだけで実行する勇気なんてなかったし、具体的なことも何一つ考えてはいませんでした。
それに、「この状態はやばい」と思える理性もまだ働いていました。
そのことを姉に伝え、とにかく、知り合いの臨床心理士の先生に相談することにしました。
知り合いに臨床心理士の先生がいたことも、本当に幸運でした。
それまでも色んなつながりや縁を大事にしてきてよかった。
それからその先生のところに何度か通い、並行して心療内科の先生も紹介してもらって治療を受け始めました。