2011/04/25(月)、子供が中学校になって初めての授業参観があった。

科目は歴史で、縄文時代を習い始めたところだった。
(クラス担任の教諭が、社会科担当だった為、科目が社会科になったんだろう)

歴史は、当方において、過去の勉強の中で一番苦手で、一番納得のいかなかった科目である。

その教諭は、「日本に旧石器時代はあったか?」
というクイズっぽい感じで授業を開始した。

→おいおい、時代ってのは忽然と現れるわけではないんじゃないの?
 →日本で、旧石器時代と定義づけられる文明社会を営む人類がいたかどうかという問いなら判るが
   時代そのものがあったか?という問いは、その問いそのものが誤りやないのか?
   ていうか、この設問文から、どういう観点での質問をしているのかを理解する事が出来ない。
   40年以上生きてきた人間でさえ、この問いに対して山盛りの疑問が発生するのに、
   12~3年しか生きてきていない、ついこの前までランドセル背負っていた子らに対しての
   問いなのか?と、ふつふつと疑問が湧き出てくる。

そこから、その教諭と、一部生徒の"どや顔"授業が始まった。

1949年を境にして、
それ以前は、旧石器時代は無いとされていて
それ以後は、旧石器時代はあるとされた
つまり、歴史は変わるんです。
過去の歴史は変わりますが、これからの歴史は変わりません。

と授業を進める。

→おいおい、あんたの言っているのは、歴史書の記載が変わる事を指しているんであって、
 史実が変わるわけじゃないだろうが!
 そんな言い方したら、「教科書の記載=史実である」という根本的な誤解が植えつけられて
 正しいものの理解というものが失われてしまうやろうが、
 何を根拠に、どう解釈され、教科書では、史実として○○という記述になっているんだよ、
 でも、新しい発見があると、"歴史の教科書の記載"が変わるからね
 っていう発言であるべきではないのか?
 確かに"教科書の記載が変わる"という言い回しも発言の中に出てはきているが、
 それは、"歴史が変わる"から"教科書の記載も変わる"という発言・表現で、
 ものすごい憤りに似た違和感を感じる。
 記録に残されているかどうかに関わらず、その時にあった事は、どんなに時代が過ぎようと
 唯一絶対的である。
 晩御飯にカレーを食べながら、日記にすき焼きを食べていると書いても、
 カレーが、すき焼きに変わるわけはなく、カレーはカレーである。
 本当の現実が、変わるわけではない。
 何かの発見があったからといって、本当の歴史が変わるわけではなく、
 本当の史実は、唯一絶対的に存在し普遍である。

その後も、なんだかなぁと感じる場面が山盛り。

その時、初めて論理的な気づきをした。
今までは、あまりに漠然とした矛盾感だけだったので、自分がバカだから理解出来ないのだと
学生の頃は思っていたが、そうではなかったようだ。

一、生徒の立場から考えると、心のどこかで「先生は正しい」という絶対定義がある。

二、同様に、生徒は、教科担当の教諭は、担当教科外のものでも、中学校レベルの勉強は、全員理解しているという思い込みも持っている。

三、国語の授業で、文章や漢字の厳密さを要求される勉強のお陰で、文法や表現方法に対して直感的に「ん?」と感じる能力を持つようになっている。

四、抱いた疑問に対して質問しても、教師自身の言葉の曖昧さや、言葉足らず、表現の不正確さ、ご都合主義は棚上げにされ、生徒が抱く疑問に対し、詭弁を弄して、疑問を丸め込む行為が行われる。

この事が矛盾感の原点になっていたんだと、30年以上経った、今、気づく。

つまり、教える側の落ち度や誤りに対して、訂正や納得のいく回答が無いまま、
丸めこまれる事で、納得させられる不条理に対する違和感だったのだ。

中学校に通うのは、親ではなく、子供だ。

大人社会でいうところの、パワハラやセクハラに該当するような行為があっても
子供が無理やりな納得をさせられていて報告してもらえない状況にあると、
学校で起こっている事に、親は気づかない。

意固地になるだけで、本当のプライドのない地方公務員と、議論した場合、
被害を被るのは、子供なので、疑問を、この地方公務員にぶつけるのは止めておこう。

「結論」
義務教育は、文部科学省、つまり役所の仕事である。
また、学校は職場であり、教師は、上からの指導という名の命令に従う労働者でしかない。
学校や教師に期待するのがいけない。

子供には、授業には、情報として覚えておくべき事と、騙されたり惑わされたりしてはいけない事が
あるという事を
理解し、それを見極め、自分の知識や能力を伸ばしていって欲しいと思う。
また、教師にも技術力があり、自身が関わる教師の技術力が、必ずしも十分であるとは限らない事、
その場合は、自分自身の努力がより一層必要である事も理解して頑張って欲しいとも思う。

当方が、小・中学校の頃、学校には"先生"と呼ぶに相応しい方が、一部ですが居られました。
今でもその先生たちが教えてくれた勉強や、教えは、大変、役に立っていると思います。

今の"教師"という肩書きだけの地方公務員とは、明らかに違う気がする。














前回の書き込みから約1年、随分久しぶりの書き込みとなってしまった。

生活に追われ、ここ1年近く作業しているプロジェクトでの不条理な仕打ちに
辟易していた為、ブログを書く気力も出ないまま日々を送っていたら
ずいぶんと経過していたようで...

今回のブログは、ちょっと専門的な内容なのだが、
当方的日常という事と、忘備録という事からブログに書いておく事にした。

当方も、日本在住の大多数の方々と同じく、この不景気に苦労しながら
耐える日々を送っている。

職業柄、コンピュータに関連する相談を受ける事も多く、
また、アルバイト的に色々なソフト開発を請け負ったりもする。

先日、とある知り合いから、Ecelで行っている顧客情報管理を、
Accessに移行したいという依頼を受けて納品をしたところ
不具合があるので診て欲しいと言われた。

その殆どは、不具合というよりは、実際に使ってみての修正依頼という
内容のものだったので、その場で対応したのだが、
1点だけ宿題にしてもらったものがある。

それは、

<現象>
Access2007のデータシートビューのフィルタ機能の選択で、
(空白)だけにしている場合と、(空白)+[データA]のように、
空白を含めた複数選択にしている場合とで、抽出件数が異なる。
(対象フィールドは、テキスト型)

という内容である。

実際に現場で確認した抽出結果は、
(空白)だけ:67件
[データA]だけ:1件
(空白)+[データA]:47件 ※[データA]1件+(空白)46件
となっている。
68件抽出されなければならない筈なのに、
明らかに、(空白)21件が抽出されていない不具合だ。

で、調査を行った結果、原因が判明した。

<原因>
Access2007のフィルタ機能の選択を行うと、where条件付きでの
データ抽出を行うようなのだが、このwhere条件が、
(空白)だけの時 = Is Null Or ""
(空白)+[データA]の時 = In( "データA" ) Or Is Null
となり、後者の場合、Or "" が含まれない為、抽出結果が異なってしまう。

どうやら、選択では、 Or は1つというようにソフトが組まれているようで
この現象になっているようである。

「アプリの不具合」という事で、対応しないという手もあるが、
それでは面白くないし、それ以前に納品先が困ってしまう。

で、あれこれ思案した結果、以下の対応を取った。

<対応策>
(1)該当フィールドに対して、""→Null 置換実行するクエリを作成。
(2)画面上に1つボタンを追加し、そのイベントを(1)のクエリ実行にする。
(3)データのインポートや、該当フィールドのデータ削除を行ったら、
このボタンをクリックしてもらう。

原因の説明をしてアプリの不具合である事を理解してもらい、
ボタンクリックで対処可能になっている事で納得して頂いた。

「結論」
どんなソフトにも不具合は付き物なので、不具合が出てしまう事自体は、
ある程度は、仕方のない事だと思う。また、対処の取れる不具合なら可愛いものです。

不具合が1件だけど、その対策が取れないソフトと、
不具合が100件あるけど、全て対策可能なソフトでは、後者の方がマシだと思う。

因みに、今時の若い衆は、このような内容も「バグ」と呼ぶようだが、
当方に言わせれば、こんなものは、「バグ」にもならない。






















初回書き込みから、何だかなぁ・・・と感じる事ばかり書いてて、
おぉこれは的なのものがないなぁと感じていたので
愚痴や文句ばかりでなく、「おぉ!これは!」的なものも
残したいなと思いつつ日々を過ごしていたら
いつの間にか、2か月程経過していた....

(この2か月間は、何だかなぁと感じる事も色々あったのだが、
やはり「おぉ!これは!」的なものも残したい気持が優先したので
書かなかった。)


本題に戻ろう。


当方、関西ローカルの時代から「探偵ナイトスクープ」という番組を

ほぼ欠かさず視聴している。

今は、全国放送になっているので、

関西ローカルの頃のアクの強さは無くなっているが
それなりに面白さは継続されているので、

相変わらず視聴を続けている。


今日(2010/05/28深夜)、いつものように「探偵ナイトスクープ」を視聴していたら
植村花菜さんの「トイレの神様」という曲で号泣する4歳児の依頼ネタが放送された。


いつものようにリラックスして観ていたのだが、

この子の号泣シーンにもらい泣きし、
植村花菜さんがもらい泣きする場面で更にもらい泣き
放送終了後に、フルコーラスと歌詞をネットチェックして更に泣き...

本当、曲を聴いて泣くのは久しぶりでした。

→この曲の曲調なのか、昔、さだまさしさんの「償い」で
 泣いた事を思い出しました。


で、最近、よく泣く事に気がついた。

TVのニュース、映画、
日々の中でのちょっとした人の優しさ

すぐに目頭が熱くなってしまう

年齢を重ねる毎に、涙腺が緩くなってきているのだろうか
→もし、涙税が施行されたら、

 多分、納税トップクラスだろうと思う


そして、泣いた後は、いつも
もっと人には優しくなろう
もっと努力していこう
もっと沢山のものに感謝しよう
という気持ちになる...


のだが、この年になってもあまり成長していないなぁ


「結論」
植村花菜さんの「トイレの神様」は、聴いた人が、

それぞれに色々な想いを重ねられる
なかなか良い曲なので、

是非、一度聴いて欲しいなと思いました。

ちなみに、Ameba に本人のブログあります