木曜日は「黒皮の手帳の中身シリーズ」の日ですが、本日は休載させて頂きます!
是非、こちらもお楽しみください。
タヤマ学校「修己治人」三部作
第一弾「さらば闇夜の鴉たち」全48話
第二弾「燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや」連載中
人的資本経営コラム~人的資本経営の本質は感情資本経営にある~ 連頼中
黒革の手帳の中身シリーズは来週火曜日に掲載します!
木曜日は「黒皮の手帳の中身シリーズ」の日ですが、本日は休載させて頂きます!
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タヤマ学校「修己治人」三部作
第一弾「さらば闇夜の鴉たち」全48話
第二弾「燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや」連載中
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黒革の手帳の中身シリーズは来週火曜日に掲載します!
その日、私は担当企業先で、ある研修修了生の相談を受けていた。
四十代の管理職だった。
新しい部署への異動を打診されているが、その分野の知識も経験もなく、断ろうと思っていると言った。
「自信がないんです。やったこともないことを、引き受けるわけにはいきません」。
その言葉には、誠実さがあった。しかし同時に、何かが引っかかった。
その夜、校長の自宅に伺った時、私はその相談のことを話した。
「校長、研修でこんな相談を受けました」
私は経緯を話した。校長は箸を持ったまま、しばらく黙って聞いていた。土鍋の湯気が、静かに上がっていた。
「てつ、その人は、スキルの話をしているな」
「はい」
「ウィルの話は、していないな」
私は手帳を取り出した。
「ウィル、ですか」
「信じる気持ち、決断、覚悟。それがウィルだ」と校長は言った。
「その人はスキルがないと言っているが、ウィルがあるかどうかを、まだ問うていない」
「やったことがないのに、できると信じるのは、無責任ではないですか」
校長は静かに首を振った。
「やったことがないのに、できないと決めるのも、同じくらい無責任だ」
その一言が、静かに胸に刺さった。
研修で話を聞いていた時には気づかなかった角度から、自分自身も問われている気がした。
「てつ、私はスキルを否定しているのではない。知識も、技術も、大切なものだ。私自身、何十年も学び続けてきた。学ぶことをやめた人間は、教えることもできないと、前にも話した。スキルは要る。しかし、それより前にあるものがある」
「ウィルですか」
「そうだ。スキルというのは、後からついてくるものだ。最初から完璧なスキルを持っている人間など、どこにもいない。私がブリタニカで世界一を取った時、最初からトークの技術を持っていたわけではない。何度も断られながら、少しずつ覚えた。スキルは、やりながら身につくものだ」
私は書き留めた。
「量と質」の夜の話と、ここで繋がった。質の高い量をこなすために、学び続ける。
その学びが、スキルになっていく。しかし、その手前に何かがあるという。
「では、何が先に必要なんですか」
「やると決める覚悟だ。できる自分を、まず信じることだ。それがウィルだ」
校長は箸を置いた。
「てつ、その人が今、知識がないから断ろうとしているのは、順番が逆だ。まずやると決めて、それから知識を身につければいい。知識がないからやらない、というのは、知識を理由にして、覚悟から逃げているだけだ」
その言葉は、容赦がなかった。しかし、その容赦のなさの中に、確かな優しさがあった。
「私の臨時工時代を覚えているか」と校長は言った。
「はい。何度も伺いました」
「あの時、私には何のスキルもなかった。学歴もなかった。秘書としての知識も、技術も、何もなかった。土光敏夫に抜擢された時、私は怖かった。できないと思った。しかし、できないという理由で断る選択肢は、私の中になかった」
「なぜですか」
「やると決めたら、できないという思考が、無駄になるからだ。覚悟が決まれば、できないという言葉を考える時間そのものがなくなる。その時間を、どうすればできるかを考える時間に使う。これがウィルの力だ」
私はペンを走らせながら、思考鍛錬の夜の話を思い出した。
「どうすればできるか」と問う人間が、可能性を探す人間になる。
あの夜の言葉が、今ここで、別の角度から照らされていた。
「校長、ウィルがあれば、本当にスキルは後からついてくるんですか」
「ついてくる」と校長は即座に言った。
「人間というのは、本気で覚悟した時、自分でも驚くほどの力を出す。それまで見えていなかった努力の方法が、見えてくる。誰かに教えを求める勇気が出てくる。本を開く時間が惜しくなくなる。失敗しても、また立ち上がる力が湧いてくる。これが全部、ウィルから生まれる」
「逆に、ウィルがないと、どうなりますか」
「スキルがあっても、活きない」
短く、しかし重かった。
「知識を持っている人間は多い。技術を持っている人間も多い。しかし覚悟のない人間は、そのスキルを、いつまでも使わない。使う場面が来ても、踏み出さない。スキルは、武器だ。しかし覚悟のない人間が持つ武器は、ただの飾りだ」
私は書き留めた。
「てつ、もう一つ言っておこう。ウィルがスキルに負けてはいけない」
「どういうことですか」
校長は私の目を見た。
「スキルがないことを理由に、ウィルを諦めるな。知識が足りないという現実が、覚悟を消してしまったら、それはウィルがスキルに負けたということだ。逆に、覚悟があれば、知識が足りないという現実を、乗り越える理由に変えられる。ウィルが、スキルに勝つということだ」
私は手を止めた。
研修参加者の言葉、「知識がないから断る」という考えそのものが、ウィルがスキルに負けている状態だったのだと、初めて気づいた。
「校長、覚悟を決める時に、不安がなくなることはあるんですか」
校長は微かに笑った。
「ない」
その答えは、意外なほどあっさりしていた。
「不安は、消えない。覚悟をしても、不安は残る。むしろ覚悟をするからこそ、不安が生まれる。覚悟のない人間に、不安はない。なぜなら、何も賭けていないからだ」
「では、不安を抱えたまま、進むんですか」
「そうだ。不安と覚悟は、矛盾しているように見えるが、両方を抱えたまま立つしかない。矛盾の中に真理がある、と前に話したな」
「はい」
「不安があるのに進む。これも、矛盾の中の真理だ。不安が消えるのを待っていたら、一生進めない。不安を抱えながら、それでもやると決める。それが覚悟だ」
私は黙ってペンを走らせた。
「てつ、最後にこれだけ言っておこう」
校長は静かに、しかし力を込めて言った。
「スキルは大切だ。しかしスキルだけでは、何も始まらない。最初に必要なのは、できる自分を信じることだ。やると覚悟することだ。そのウィルがあれば、スキルは後からついてくる。逆に、ウィルがなければ、どれだけスキルを持っていても、宝の持ち腐れだ。だからウィルが、スキルに負けてはいけない」
私は手帳を閉じた。
「校長、その参加者には、明日こう伝えようと思います。知識がないことは、断る理由にはならないと」
校長は静かに頷いた。
「それでいい」
玄関で靴を履きながら、私は振り返った。
「校長は今も、ウィルがありますか」
校長は少し考えてから、こう言った。
「二度の脳梗塞を経て、それでも今夜こうしてお前と話している。これがウィルだ。スキルではない。医者に言われたことを、ただ守るだけの人生を選ばなかった。学び続け、語り続け、生き続けるという覚悟だ」
夜の空気が、肌に触れた。
歩きながら、私は黒革の手帳を開いた。街灯の下で、今夜書いた文字を読んだ。
スキルは大切だ。しかしウィルがなければ活きない。
できる自分を、まず信じること。 やると、覚悟すること。 それがウィルだ。
ウィルがあれば、スキルは後からついてくる。 ウィルがなければ、スキルは宝の持ち腐れだ。
不安は消えない。 不安を抱えたまま、それでも進むのが、覚悟だ。
ウィルが、スキルに負けてはいけない。
田山敏雄という人間は、知識よりも先に、覚悟を選び続けた人だった。臨時工として、セールスマンとして、教育者として、そして病と闘う一人の人間として。
黒革の手帳の中に、また一ページが加わった。
あの頃、私は部下を三人持っていた。
ある日、上司から呼ばれた。「お前のチームの数字が、先月から落ちている」と言われた。私は答えた。「指示は出しています。全員に伝えました」。上司はそれ以上何も言わなかったが、その表情に何かが残っていた。
その夜、校長の自宅に伺った。
そう、長男が既に保育園から連れ去られているからである(笑)
「てつ、浮かない顔だな」
校長が席に着くなり、そう言った。
「部下のことで、上司に注意を受けました」と私は言った。
「何を注意された」
「チームの数字が落ちていると。私は、指示はきちんと伝えていますと答えました」
校長は箸を持ったまま、しばらく黙っていた。湯気が、土鍋から細く上がっていた。
「てつ、伝えたと、動いたの違いを、お前は知っているか」
唐突な問いだった。しかしいつものように、その唐突さの中に、すでに答えへの道筋が見えているような気がした。
「伝えたというのは、自分が話したということです。動いたというのは、相手が実際に行動したということ、でしょうか」
校長は頷いた。
「そうだ。しかしてつ、お前が今言った『私は指示を伝えています』という言葉が、すでに問題だ」
「どこが問題ですか」
「その言葉は、自分を主語にしている。伝えた、という行為が完了した時点で、自分の仕事が終わったと思っている。しかし上司が見ているのは、結果だ。
結果を主語にすれば、こうなる。チームは、動いたか」
私は手帳を取り出した。
「人間というのはな、てつ、伝えたという事実に、すぐに満足する。会議で言った。FAXで送った。資料を配った。これで伝わったはずだ、と思う。しかし伝わったかどうかと、伝えたかどうかは、まったく別のことだ」
「別物ですか?」
「言葉は、発した瞬間から、相手の中で変質する。お前が思っている意味と、相手が受け取る意味は、最初から完全には一致しない。さらに時間が経てば、相手の記憶の中で、その言葉はさらに変わっていく。忘れられることもある。誤解されることもある。都合のいいように解釈されることもある」
私は書き留めた。
「既成概念」の夜に聞いた話と、ここで繋がった。
言葉は世界を切り分ける道具だが、同時に、人によって受け取り方が変わる道具でもある。
「だから上司というのはな、伝えただけでは、仕事をしたことにならない。動いたかどうかを、確認しなければならない」
「確認するというのは、チェックすることですか」
校長は、そこで初めて、表情を変えた。
「チェックだけでは、足りない」
私はペンを止めた。
「チェック&チェックだ」
「同じ事を、二回ですか」
「そうだ。一度のチェックでは、何が起きるか教えよう。お前が部下に確認する。『あの件、進んでいるか』。部下は『進んでいます』と答える。お前は安心する。しかしその『進んでいます』が、本当に正しいかどうかは、わからない。部下は怒られたくないから、進んでいると言っているだけかもしれない。一度のチェックは、相手の言葉を信じることに過ぎない」
私は手を止めた。耳が痛かった。私自身、何度もそうしていた。
「二度目のチェックが、必要になる理由がそこにある。一度目で『進んでいます』と聞いたら、二度目は別の角度から確認する。実際に成果物を見る。現場に行く。お客様に直接聞く。言葉ではなく、事実を確認する」
「事実と真実と現実の話と、繋がりますね」と私は言った。
校長は目を細めた。今夜一番、満足そうな目だった。
「そうだ。一度目のチェックで聞いた言葉は、まだ事実かどうかわからない。二度目のチェックで、事実を確認する。事実を確認した上で、その奥にある真実を見る。なぜ進んでいないのか、なぜ遅れているのか。そこまで見て、初めて現実が見える」
私はペンを走らせながら、上司に言われた言葉を思い出した。「伝えています」と答えた自分が、いかに浅い場所に立っていたかが、今初めてわかった。
「校長、なぜ多くの上司が、一度のチェックで終わってしまうんですか」
「二度目のチェックは、手間がかかるからだ」と校長は即座に言った。「一度目のチェックは、聞くだけでいい。二度目のチェックは、見に行かなければならない。時間を使わなければならない。場合によっては、部下から『信用されていない』と思われるかもしれない。その負担を避けたいから、一度で終わらせる人間が多い」
「部下に信用していないと思われるのが、怖いんですね」
「そうだ。しかしてつ、本当の信用というのは、何もしないことではない。チェック&チェックをすることだ。なぜか教えよう」
校長は箸を置いた。
「一度のチェックで終わる上司は、部下が失敗した時に、初めてそれに気づく。手遅れになってから気づく。これは、部下を見ていなかったということだ。本当の不信任は、見ないことだ。二度のチェックをする上司は、部下が間違った方向に進んでいたら、早い段階で気づける。間違いが小さいうちに、正せる。これは、部下を見ているということだ。本当の信頼は、見ることだ」
私は書き留めながら、思った。チェック&チェックは、疑うことではなく、見守ることだったのだ。
「てつ、もう一つ言っておこう。チェック&チェックには、もう一つの意味がある」
「何ですか」
「一度目のチェックは、相手のためだ。相手が困っていないか、迷っていないか、間違っていないかを見るためのものだ。二度目のチェックは、自分自身のためだ。自分が、伝えたつもりになっていないかを、確認するためのものだ」
その言葉に、私は手を止めた。
「自分自身を、チェックするんですか」
「そうだ。てつ、お前は今日、上司に何と言った」
「指示は伝えていますと言いました」
「その言葉は、誰のためだった」
私は答えられなかった。
「自分を守るための言葉だったんじゃないか」
と校長は静かに言った。「伝えたという事実だけを盾にして、自分は仕事をしたと、自分自身に言い聞かせていたんじゃないか」
その通りだった。何も言えなかった。
「てつ、伝えたという言葉は、時に、責任から逃げるための言葉になる。動いたかどうかを確認しないまま、伝えたという事実だけを握って、自分の仕事は終わったとする。これが一番危険だ」
私はビールを口にした。
「校長は、現役の頃、どのようにチェック&チェックをしていましたか」
「私は毎週、現場に足を運んでいた。報告書だけでは、現場の温度はわからない。報告書には書かれていない表情、声の張り、机の上の様子。そういうものを見て、初めて、伝えたことが本当に動いているかが、わかる」
「足を運ぶことが、二度目のチェックなんですね」
「そうだ。言葉で確認するだけでなく、目で確認する。耳で確認する。場合によっては、自分の足で歩いて確認する。この手間を惜しんだ瞬間に、組織は緩んでいく」
私はペンを止めて、校長を見た。
「校長、これは部下を持つ人間だけの話ですか」
「いや」と校長は言った。
「自分自身に対しても、同じことが言える。お前は今日、何かを学ぶと決めた時、それを一度言葉にしただけで終わっていないか。決めたことが、本当に行動になっているかを、自分自身に二度、確認しているか」
私は黒革の手帳を見た。書いていることと、やっていることの間に、どれだけの隙間があったかを、初めて正面から見た気がした。
「てつ、最後にこれだけ言っておこう」
校長は静かに、しかし力を込めて言った。
「伝えたで満足するな。動いたかを見ろ。一度のチェックで満足するな。チェック&チェックをしろ。そして最後に、自分自身にも問え。伝えたつもりになっていないか。動いたという事実を、自分の目で確かめたか」
食事が終わりかけていた。
玄関で靴を履きながら、私は振り返った。
「校長、明日、上司にもう一度、報告に行こうと思います」
「何を報告する」
「チームの数字が落ちた本当の理由を、もう一度、自分の目で確かめてから報告します」
校長は微かに笑った。
「それでいい」
夜の空気が、肌に触れた。
歩きながら、私は黒革の手帳を開いた。街灯の下で、今夜書いた文字を読んだ。
「人の可能性は信じても、人間のやること安易に信じてはいけない。自分の事でさえも」
伝えたは、自分が話したという事実だ。 動いたは、相手が実際に行動したという事実だ。 この二つの間には、いつも隙間がある。
チェックだけでは、足りない。 チェック&チェックをしろ。
一度目は、相手のために。 二度目は、自分自身のために。
伝えたという言葉に、逃げ込むな。 動いたかを、自分の目で見に行け。
田山敏雄という人間は、生涯、報告書の裏側にある現場を、自分の足で確かめ続けた人だった。
黒革の手帳の中に、また一ページが加わった。
これは、議論の多いテーマだ。
いや、最近でも読売巨人軍の監督と辞任したコーチの間での論争もあった。
ビジネスの世界では、量か質かという問いが、いつも誰かの口から出ていた。
営業は数を打て、という人間がいた。
質の低い訪問を百回するより、質の高い訪問を一回した方がいい、という人間もいた。
どちらも自信を持って言っていた。どちらにも、それなりの根拠があった。
若い時代、まだまだ視座の低かった私もその問いに、ずっと答えを出せずにいた。
量を追えば質が下がる気がした。質を求めれば量が減る気がした。
どちらかを選ぶたびに、もう一方を捨てているような、落ち着かない感覚があった。
その夜、校長の自宅に伺った。
田山校長は既に食事を始めていた。
校長の対面に座り、バドワイザーを頂いている時、
「てつ、何を考えている」
校長は突然言った。
私の顔を見れば、何かを考えているとわかるらしかった。
田山校長の洞察力にはいつも驚かされる。
「量と質の話を、ずっと考えています」と私は答えた。
「どちらが大切だと思う」と校長は聞いた。
「わかりません。だから考えています」
校長は箸を持ったまま、少し笑った。
「正直でいい」
それだけ言って、しばらく食べ続けた。
私も食べた。
土鍋の火が、細く燃えていた。
「てつ、量か質かという問いを立てた瞬間に、すでに間違っている」
校長は静かに言った。
私は手帳を取り出した。
「量か質か、ではない。質の高い量をこなす、だ」
短い一文だった。しかしその短さの中に、何十年もの体験が圧縮されていた。
「量か質か、という問いは、二択を前提にしている。しかし本物の仕事に、二択はない。量をこなしながら、その一つ一つの質を高め続ける。これが唯一の答えだ」
「しかし現実には、量を追えば質が下がりませんか」と私は聞いた。
「下がる」と校長は即座に言った。
「最初は、必ず下がる。しかしそれは一時的なことだ」
「どういうことですか」
「量をこなすということは、経験を積むということだ。経験を積んだ人間は、同じことをするのに、かかる時間と労力が減っていく。最初は一件の訪問に二時間かかっていたものが、やがて一時間になり、三十分になっていく。その浮いた時間と余力が、質を高めることに使える。つまり量が増えるほど、質も上がる条件が整っていく」
私は書き留めながら、ブリタニカの話を思い出した。百回断られた後に、恐れが消えたという話。
あの量の蓄積が、質を変えていたのだ。
「しかし校長、量をこなすだけでは、質は上がらないですよね。ただこなしているだけでは」
「そうだ」と校長は言った。
サングラス越しに目が、わずかに光った。
核心に近づいていると感じた時の、あの目だった。
「ただこなすだけでは、量は量のままだ。質が上がるためには、もう一つの条件がいる」
「何ですか」
「自己成長し続けることだ」
校長は箸を置いた。
「量をこなしながら、自分という器を大きくし続ける。器が大きくなれば、同じ量でも、中に入るものの質が変わる。小さな器に百杯注いでも、溢れるだけだ。しかし大きな器には、百杯がそのまま入る。器を大きくすることが、自己成長だ」
「器を大きくするためには、どうすればいいですか」と私は問うた。
「学び続けることだ」と校長は静かに、しかし揺るぎなく言った。
「学ぶとは、本を読むことだけではない。人に会うことも学びだ。失敗することも学びだ。自分と違う考えを持つ人間の話を、腹を立てずに聴くことも学びだ。昨日の自分が正しいと思っていたことを、今日疑えることも学びだ。この学びが止まった瞬間に、器は固まる。固まった器は、もう大きくなれない」
長男の海拓はいつもの様にテレビを見ながら話を聴いている。。
「てつ、私がブリタニカで世界一を取れた理由は、量だけではない。私は毎日、昨日の自分を超えようとしていた。同じトークを繰り返すのではなく、昨日断られた理由を考えて、今日は変える。今日断られた理由を考えて、明日は変える。その繰り返しだった。量をこなしながら、そのたびに学んでいた。その学びが質を上げ、上がった質がまた量を支えた」
「量と質が、互いを高め合っていたんですね」
「そうだ。量が質を生み、質が量を活かす。この循環が回り始めた時、人間は本物の力を持つ。」
私はペンを走らせながら、頭の中で何かが繋がっていく感覚があった。
既成概念の話で校長が言っていた言葉が蘇ってきた。概念は言葉で作られる。
量か質かという二択の言葉が、すでに思考を縛っていた。校長はその縛りを、最初に外していたのだ。
「しかし校長、学び続けることは、簡単ではありません。仕事に追われていると、学ぶ時間が取れない」
「逆だ」と校長は言った。
「学ぶから、仕事に追われなくなる。仕事に追われている人間は、昨日と同じやり方で今日も動いている。昨日と同じやり方では、昨日と同じ結果しか出ない。学ばない人間は、同じ場所を走り続けて、なぜ前に進まないのかと嘆く。走る方向を変えるのが、学びだ。お前なら知っているだろ、『忙中閑あり』という言葉を。」
私は手を止めた。
走る方向を変えるのが、学びだ。
「てつ、もう一つ言っておこう」
校長は再び箸を取った。
「量より質、という言葉を使う人間に気をつけろ」
「なぜですか」
「質を求めるという名目で、量を避けている人間がいる。一件の訪問を完璧に準備してから行く、と言いながら、準備に時間をかけて、結局動かない。完璧な質を求めることが、行動しない理由になっている。これは質を高めているのではない。挑戦から逃げているだけだ」
失敗の話が、ここでも繋がった。失敗しないために挑戦しなかった人間。量を避けるために質を盾にする人間。根は同じだと、私は思った。
「逆に、質より量という言葉を使う人間も気をつけろ」
「それも問題ですか」
まさにタルムード的な思考だと私は思った。
「そうだ。量をこなすことに満足して、学ぶことをやめた人間がいる。百件訪問したが、百件とも同じ失敗をした。量は積み上がっているが、質は変わっていない。これは量をこなしているのではない。同じ場所を百回回っているだけだ」
「量をこなしながら、学び続けることが、条件なんですね」
「そうだ」と校長は言った。
「量をこなすことと、学び続けることは、車の両輪だ。どちらかが止まれば、車は曲がる。両方が同じ速度で回り続けた時、真っ直ぐ、遠くまで進める」
食事が終わりかけていた。
「校長は今も、学んでいますよね。」
私がそう聞くと、校長は少し間を置いた。
「学ぶことをやめた人間は、教えることもできなくなる。私がお前に話せることがあるとしたら、今も学んでいるからだ。病を経てから、むしろ学ぶことへの渇きが増した。一冊の本の重みが変わる。一人の人間との会話の重みが変わる。すべてが学びに見えてくる」
私は黙って聞いていた。
「てつ、最後にこれだけ言っておこう」
校長は静かに、しかし力を込めて言った。
「量より質か、質より量か。この問いに、答えはない。正確に言えば、この問い自体が間違っている。正しい問いはこうだ。どうすれば、質の高い量をこなせるようになるか。その答えは一つだ。自己成長し続けること。そのために、学び続けること。学びを止めない人間は、量をこなすたびに質が上がる。質が上がるから、また量をこなせる。この循環が、人間を本物にする」
校長は立ち上がった。
玄関で靴を履きながら、私は振り返った。
「校長、私は今日から何を学べばいいですか」
校長は微かに笑った。
「まず、昨日の自分に問え。昨日の自分は、何を間違えたか。何を見落としていたか。何をもっとうまくできたか。その問いへの答えが、今日の学びだ。遠くに学びを探すな。昨日の失敗の中に、今日の学びがある」
夜の空気が、肌に触れた。
歩きながら、私は黒革の手帳を開いた。街灯の下で、今夜書いた文字を読んだ。
量か質か、ではない。 質の高い量をこなす、だ。
質を上げるのは、自己成長し続けることだ。 自己成長し続けるためには、学び続けることだ。 学びを止めない人間は、量をこなすたびに質が上がる。 質が上がるから、また量をこなせる。
量が質を生み、質が量を活かす。 この循環が回り始めた時、人間は本物の力を持つ。
そして学びとは、遠くにあるものではない。 昨日の失敗の中に、今日の学びがある。
投獄、闘病、倒産のすべてに打ち勝ってきた田山敏雄という人間が、生涯学び続けた。その学びが、質を生み、その質が、三千社、七万人という量を動かしてきた。
黒革の手帳の中に、また一ページが加わった。
若い頃の私は、失敗を恥だと思っていた。
正確に言えば、失敗していない人間を、優秀な人間だと信じていた。
傷のない経歴、乱れのない実績、一度も躓いたことのないような滑らかな歩み。
そういうものを持っている人間が、本物だと思っていた。
若さというのは時に、見えていないものを見えていると錯覚させる。
特に、高校受験も大学受験も留学後もことごとく失敗していた私はその典型だったと、今ならわかる。
松葉寿司の暖簾をくぐると、大将が目で迎えた。
馴染みなっている矢崎を若女将が奥の部屋に案内してくた。
校長はすでにわが長男と土瓶蒸しを食していた。
2歳児が「土瓶蒸し」と驚きはしたが、
いつもの光景ではあった。
コートを脱いで隣に座ると、
店の中の温もりが、
外の冷気で冷えた体に沁み込んできた。
「てつ、顔色が悪いな」
校長は私を見て、開口一番そう言った。
「少し、落ち込んでいます」
私は正直に言った。
校長の前では、取り繕うことが、いつの間にかできなくなっていた。
「何があった」
「4社連続で新規企業のプレゼンに失敗しています。今日で5社目です。
」
校長は何も言わなかった。
大女将が皿を運んできた。
白身の魚だった。
校長はそれを一口食べてから、
静かに口を開いた。
「てつ、お前は失敗していない人間を、どんな人間だと思っている」
唐突な問いだった。
しかしその唐突さの中に、
すでに答えへの道筋が見えているような気がした。
「優秀な人間だと思っていました。少なくとも、今日までは」
「今日までは、か」
と校長は繰り返した。
「はい。今日の失敗で、少し、わからなくなりました」
校長は頷いた。
それから、テーブルの木目を、
一度だけ指でなぞった。
「失敗していない人間というのはな、てつ、新たな挑戦をしていない人間だ」
静かな一文だった。
しかしその静けさの中に、
長い年月をかけて積み上げられた確信があった。
「失敗は、挑戦の証明だ。失敗した人間は、少なくともそこへ向かったということだ。
手を伸ばしたということだ。届かなかったかもしれない。
しかし伸ばした。その事実は、消えない」
私は手帳を取り出した。
「失敗していない人間には、二種類いる。
一つは、挑戦して失敗しなかった人間。
これは本物の優秀さだ。
しかしそういう人間は、実際にはほとんどいない。
もう一つは、失敗しないために、挑戦しなかった人間。
これが、世の中に溢れている」
「見分けがつきにくいですね」と私は言った。
「そうだ。表面上は同じに見える。
失敗の記録がない、という点では同じだ。
しかし中身は、まったく違う。
一方は、戦って無傷だった人間だ。
もう一方は、戦場に出なかった人間だ。
若いうちは、この違いが見えない。
傷がないことを、強さだと思う」
私は書き留めながら、胸の奥が熱くなった。
若い頃の自分が、まさにそうだった。
傷のない人間を、傷つかないほど優秀な人間だと思っていた。
戦場に出なかっただけかもしれないのに。
「しかし時間が経つと、わかってくる。
挑戦しなかった人間は、老いていく。
体ではなく、魂が老いる。
新しいものに触れなくなる。
未知のものを前にすると、体が固まる。失敗を恐れて動けなくなる。
その恐れが、どんどん大きくなっていく」
大女将が次の皿を運んできてくれた。
「なぜ恐れが大きくなるんですか」と私は聞いた。
「失敗した経験がないからだ」と校長は言った。
「失敗というのはな、てつ、一度経験すると、怖くなくなる。
正確に言えば、怖いけれど、越えられるとわかる。
転んでも、立てるとわかる。
痛くても、死なないとわかる。
その体験が、次の挑戦への胆力を生む。
しかし一度も転んだことがない人間は、転ぶことへの想像だけが膨らんでいく。
見たことのない怪物は、実物より大きく見える」
「失敗を経験することが、免疫になるんですね」
「そうだ。私がブリタニカで世界一を取れたのは、それまでに数えきれないほど断られてきたからだ。
最初の頃は断られるたびに傷ついた。しかし百回断られた後は、断られることが当たり前になった。
当たり前になった瞬間に、断られることへの恐れが消えた。
恐れが消えた人間は、強い。失うものが、もうないからだ」
私は手帳にペンを走らせながら、あの頃の校長を想像した。
誰にも信じてもらえなかった時代。
それでも玄関を叩き続けた時間。
その積み重ねが、世界一という頂上に繋がっていた。
裾野の話が、ここでも繋がった。
「てつ、もう一つ言っておこう」
校長は白身の魚を一口食べてから、続けた。
「失敗には、二種類ある。学ぶ失敗と、ただの失敗だ」
「どう違うんですか」
「失敗した後に、何をするかで決まる。
失敗して、傷ついて、そのまま終わる。これがただの失敗だ。
失敗して、なぜ失敗したかを正直に見て、次に何をすべきかを考えて、また動く。
これが学ぶ失敗だ。同じ失敗でも、その後で意味がまったく変わる」
「今日の私の失敗は、どちらになりますか」
校長はしばらく黙った。私の目を、まっすぐに見た。
「それは私が決めることではない。
お前が決めることだ。学ぶかどうかは、お前次第だ」
私は頷いた。
「しかし一つだけ言える。お前は今夜、落ち込んでここに来た。
それはいい。落ち込むということは、失敗を本気で受け止めているということだ。
本気でやったから、傷ついている。傷ついているということは、本気だったということだ。
本気でなかった人間は、落ち込まない」
その言葉が、静かに胸に入ってきた。
本気だったから、傷ついた。
「校長は、一番大きな失敗は何でしたか」
私がそう聞くと、校長はしばらく考えた。
その時はに長男も静かにお寿司を食べ、静かな時間が流れた。
部屋の外の大将の包丁の音だけが、かすかに聞こえた。
「一つではない。数えきれないほどある」と校長は言った。
「しかし一番苦しかったのは、自分を信じられなくなりそうになった時だ。
自分には無理かもしれないと思った時がある。
その瞬間が、一番危なかった」
「どうやって乗り越えたんですか」
「土光敏夫の言葉を思い出した。
『志の問題だ』という言葉だ。能力の問題ではない。
時間の問題でもない。
志があるかどうかだ、と。
その言葉を思い出した瞬間に、もう一度立てた」
私は書き留めた。
「てつ、最後にこれだけ言っておこう」
校長は箸を置いた。
「失敗していない人間を、羨ましいと思うな。哀れだと思え。
これは意地悪で言っているのではない。
挑戦していない人間は、自分の可能性を試していない人間だ。
どこまで行けるかを、自分で封じている人間だ。
それは、もったいない。本当にもったいない」
「失敗は、可能性の証明なんですね」
「そうだ」と校長は即座に言った。
「失敗できる人間は、挑戦できる人間だ。
挑戦できる人間は、成長できる人間だ。
失敗を恐れて動けない人間は、自分の可能性を自分で閉じている。
その扉を開けるのに必要なのは、才能ではない。一歩踏み出す勇気だけだ」
若女将が、温かいお茶を運んできた。
「お前の今日の失敗は、お前が挑戦した証明だ。紹介を頂けたという事でもある。
誇れ、とは言わない。
しかし恥じるな。恥じることと、反省することは、違う。
反省は次に繋がる。恥じることは、次を閉じる」
私は静かに頷いた。
「反省して、立て。それだけだ」
松葉寿司を出ると、夜の空気が冷たかった。
しかし来た時よりも、体が軽かった。
田山校長はというそ、先程の深い話をしていた時とはうって変わり
長男の海拓にライダーキックを食らって喜んでいる。
その姿を見ながら歩きながら、
私は黒革の手帳を開いた。
街灯の下で、今夜書いた文字を読んだ。
失敗していない人は、挑戦していない人だ。
傷のない経歴は、戦わなかった証明かもしれない。
失敗は、挑戦の証明だ。
本気だったから、傷ついた。 反省は次に繋がる。
恥じることは、次を閉じる。
そして失敗した後に何をするか。
それだけが、失敗の意味を決める。
あの頃の私は、失敗していない人間を優秀だと思っていた。
今の私は、知っている。
失敗を恐れずに立ち向かい、倒れても立ち上がり続けた人間こそが、本物だと。
投獄・闘病。倒産のすべてに打ち勝ってきた田山敏雄という人間が、
その何よりの証明だった。