松葉寿司の暖簾は、夜風に揺れていた。
人間というのは不思議なもので、深い言葉ほど、時間をかけて体に沁み込んでいく。
頭ではなく、骨に入っていく。
暖簾をくぐると、校長は個室にいるようだった。
その個室の襖を開ける前に、人質に取られている長男と校長の楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
部屋に入り、挨拶をすると
「寒かったか」と校長は言った。
「はい。今年は早いですね」
校長から好きなものを頼むように促され、
まずはビールといくつかのネタを刺身で頼んだ。
最初の皿が運ばれてきた。
会社や研修所とは違い、長男の言いなりになっている校長を見ながら、しばらく飲んで、食べていた。
「てつ、大阪はどうだった?」
と急に仕事の話を聴かれた。
なぜなら、長男が頼んだネタがきて、校長よりも食べることに気が向いたからだ。
「てつ、新幹線から富士山は見えたか?」
唐突だった。いつも、校長の問いは唐突だった。
しかし後になると、その唐突さに必然があったことがわかる。
「帰りは薄暗くなっていましたが、新幹線の中から見ました」と私は答えた。
「どうだった」
「やはりきれいでした。もう雪をかぶっていて」
「なぜ美しいと思った」
私の父方の祖父は山梨県甲府の出身で富士山が好きだった。
そして父も富士山が好きだった。矢崎家の集まりが年に何度かあったが、
いつも締めは富士山の詩を歌って終わっていた。
だから今でも富士山を見るとメロディーが頭に流れる。
そして、山梨側から見る富士山こそが美しいと思っている。
それを踏まえて
「高いから、でしょうか。他の山と比べて、群を抜いているから」
校長は静かに首を振った。否定ではなく、もう一歩先を促すように。
「高さだけなら、世界にはもっと高い山がある。エベレストはあの三倍近い。しかしエベレストを見て、富士山と同じように胸を打たれるか」
私は黙った。
「富士山が美しいのはな、てつ、裾野が広いからだ」
校長の声は低く、しかしその一言が、部屋の空気をわずかに変えた。
「富士山の裾野を見たことがあるか。
山梨側から、静岡側から。あの広大な裾野が、どれだけの面積を持っているか。富士山は、ただ高くそびえているのではない。広大な裾野の上に、静かに立っている。あの裾野があるから、あの頂上がある」
私は手帳を取り出した。
「裾野が広くない山は、高くなれない。仮になれたとしても、美しくない。鋭く尖っているだけで、見る者の心を打たない。人間も同じだ」
「人間も、同じですか」
「そうだ」と校長は言った。
大女将が次の皿を運んできた。校長はそれを一口食べてから、続けた。
「裾野というのは、何だと思う」
私はしばらく考えた。
「経験、でしょうか。あるいは、人間関係」
「それもある。しかし私が言う裾野は、もっと根本的なものだ」
校長は湯呑を静かに置いた。
「人間の裾野というのは、その人間が積み重ねてきた、見えないものの総量だ。誰にも見られていない場所での努力。報われなかった時間。失敗して、それでも立ち上がった回数。誰かのために費やして、返ってこなかった誠意。そういうものが、地面の下に、見えない根として広がっていく。それが裾野だ」
私は書き留めた。
「華やかに見える人間には、必ず広大な裾野がある。一夜にして輝いた人間など、いない。そう見えるだけだ。その輝きの下に、誰も見ていなかった長い時間が、必ず埋まっている」
「校長の裾野は、臨時工の時代だったんですか」
校長は少し笑った。
「そこだけじゃない。ブリタニカで断られ続けた日々もそうだ。夜中に一人でトークを練習した時間もそうだ。冤罪後、誰も信じてくれなかった頃に、それでもやり続けた日々もそうだ。タヤマ学校を作ってからも、うまくいかないことばかりだった。しかしその一つ一つが、地面の下に入っていった」
窓の外で、冬の風が吹いた。ガラスが微かに震えた。
「てつ、富士山のもう一つの秘密を教えよう」
「はい」
「富士山は、均整がとれている。左右が、ほぼ対称だ。どこから見ても、富士山だとわかる。崩れていない。偏っていない。その均整が、美しさを生んでいる」
私はペンを走らせた。
「人間も同じだ。能力だけが突出している人間は、美しくない。知識だけが突出している人間も、美しくない。仕事はできるが人間性が伴っていない、人間性はいいが仕事ができない。そういう人間は、どこか崩れて見える。見る者が、無意識に感じ取る」
「では、均整のとれた人間というのは」
「知恵と誠実さが、同じ高さにある人間だ」と校長は即座に言った。
「能力と人格が、同じ速度で育っている人間だ。仕事の成果と、人間としての深さが、乖離していない人間だ。そういう人間は、どこから見ても、同じ顔をしている。裏表がない、という言葉があるが、それはこういうことだ」
「難しいですね」と私は言った。正直に。
「難しい」と校長は言った。
同じくらい正直に
「だから富士山は一つしかない。スキルとウィルが共に高い均整のとれた美しさを持つ人間は、そう多くない。しかしだからこそ、目指す価値がある」
長男が食べ終わり校長のもとにやってきた。
「校長、もう一つ聞いていいですか」
「何だ」
「富士山は、噴火した山ですよね。火山です。その火が、美しさと関係していますか」
校長はしばらく黙った。今夜一番長い沈黙だった。私は急かさなかった。この沈黙の深さを、もう知っていた。
「なかなか鋭いこと聞くな」
校長は笑ってそう言ってから、ゆっくりと口を開いた。
「富士山の美しさは、静けさの中にある。しかしその静けさの下には、マグマがある。今もある。活火山だ。完全に眠っているわけではない。いつか噴くかもしれない。その眠れる火が、あの山を生きたものにしている」
私は書き留めながら、胸の奥が震えた。
「人間も同じだ。本当に強い人間は、穏やかに見える。怒鳴らない。騒がない。静かだ。しかしその静けさの下に、消えていない火がある。志という火が、信念という火が、燃え続けている。その火があるから、静けさが力を持つ。火のない静けさは、ただの空虚だ」
「校長の火は、何ですか」
私はそう聞きながら、踏み込みすぎたかもしれないと思った。しかし校長は、サングラスの奥の目を細めただけで、怒らなかった。
「どんな人間にも能力が備わっている。その能力を引き出すために生きる。それが私の火だ。冤罪で会社を無くした時も、二度の脳梗塞でも、心臓にメスを入れても、その火だけは消えなかった。消えなかったというより、消せなかった。それが火というものだ。自分で消そうと思っても、消えないものが、本物の火だ」
冬の夜が、深くなっていた。
「てつ、まとめて言おう」
校長は最後のひとくちを、ゆっくりと飲んだ。
「富士山が高く美しいのは、三つの理由からだ。一つ、広大な裾野がある。見えない裾野が、どこまでも広がっている。二つ、均整がとれている。どこから見ても、崩れていない。三つ、眠れる火を持っている。静けさの下に、消えない志がある。この三つが揃った時に、山は高くなり、美しくなる。人間も、同じだ」
私はペンを置いた。
今夜は書くよりも、この言葉を体に入れたかった。
松葉寿司を出ると、冬の空気が肌を刺した。
見上げると、星が出ていた。横浜の夜空に、いくつかの星が、鮮明に光っていた。
駐車場まで歩きながら、私は思った。
校長自身が、富士山だった。
臨時工として始まり、断られ続け、病を経て、それでも火を消さずに立ち続けてきた人間。
その裾野の広さを、私はまだ測ることができない。しかしその頂上の美しさは、そばにいるたびに確かに感じていた。
黒革の手帳を、カバンに入れた。
広大な裾野を持て。 均整のとれた人間であれ。 眠れる火を、消すな。
その三つが揃った時、人間は高くなり、美しくなる。
富士山は、今夜も静かに、日本の空の下に立っているはずだった。
これは営業会議や研修所で「富士山が美しく、高いのは裾野が広いからだ」と目標設定に関して校長が話をしていたことしか聞いていいないタヤマ学校の社員たち、研修生たちはきっと知らないだろう。