成幸への道程~続・タヤマ学校 代表理事に、そして校長になった自己効力感教育家の日々~

成幸への道程~続・タヤマ学校 代表理事に、そして校長になった自己効力感教育家の日々~

人財育成一筋に58年のタヤマ学校に入社して26年目を迎え、代表理事に就任してからはや13年。
研修以外でなかなか触れることのない修了生の皆さんに、
僕も一修了生であり、悩んだり、喜んだり、家族に翻弄されたり、
日々学び続ける仲間だと感じて頂ければと思います。

松葉寿司の暖簾は、夜風に揺れていた。

 

人間というのは不思議なもので、深い言葉ほど、時間をかけて体に沁み込んでいく。

頭ではなく、骨に入っていく。

暖簾をくぐると、校長は個室にいるようだった。

その個室の襖を開ける前に、人質に取られている長男と校長の楽しそうな笑い声が聞こえてきた。

 

部屋に入り、挨拶をすると

 

「寒かったか」と校長は言った。

 

「はい。今年は早いですね」

 

校長から好きなものを頼むように促され、

 

まずはビールといくつかのネタを刺身で頼んだ。

最初の皿が運ばれてきた。

 

会社や研修所とは違い、長男の言いなりになっている校長を見ながら、しばらく飲んで、食べていた。

 

「てつ、大阪はどうだった?」

と急に仕事の話を聴かれた。

 

なぜなら、長男が頼んだネタがきて、校長よりも食べることに気が向いたからだ。

「てつ、新幹線から富士山は見えたか?」

 

唐突だった。いつも、校長の問いは唐突だった。

しかし後になると、その唐突さに必然があったことがわかる。

 

「帰りは薄暗くなっていましたが、新幹線の中から見ました」と私は答えた。

 

「どうだった」

 

「やはりきれいでした。もう雪をかぶっていて」

 

「なぜ美しいと思った」

 

私の父方の祖父は山梨県甲府の出身で富士山が好きだった。

そして父も富士山が好きだった。矢崎家の集まりが年に何度かあったが、

いつも締めは富士山の詩を歌って終わっていた。

だから今でも富士山を見るとメロディーが頭に流れる。

そして、山梨側から見る富士山こそが美しいと思っている。

 

それを踏まえて

「高いから、でしょうか。他の山と比べて、群を抜いているから」

 

校長は静かに首を振った。否定ではなく、もう一歩先を促すように。

 

「高さだけなら、世界にはもっと高い山がある。エベレストはあの三倍近い。しかしエベレストを見て、富士山と同じように胸を打たれるか」

 

私は黙った。

 

「富士山が美しいのはな、てつ、裾野が広いからだ」

 

校長の声は低く、しかしその一言が、部屋の空気をわずかに変えた。

 

「富士山の裾野を見たことがあるか。

山梨側から、静岡側から。あの広大な裾野が、どれだけの面積を持っているか。富士山は、ただ高くそびえているのではない。広大な裾野の上に、静かに立っている。あの裾野があるから、あの頂上がある」

 

私は手帳を取り出した。

 

「裾野が広くない山は、高くなれない。仮になれたとしても、美しくない。鋭く尖っているだけで、見る者の心を打たない。人間も同じだ」

 

「人間も、同じですか」

 

「そうだ」と校長は言った。

 

大女将が次の皿を運んできた。校長はそれを一口食べてから、続けた。

 

「裾野というのは、何だと思う」

私はしばらく考えた。

 

「経験、でしょうか。あるいは、人間関係」

 

「それもある。しかし私が言う裾野は、もっと根本的なものだ」

 

校長は湯呑を静かに置いた。

 

「人間の裾野というのは、その人間が積み重ねてきた、見えないものの総量だ。誰にも見られていない場所での努力。報われなかった時間。失敗して、それでも立ち上がった回数。誰かのために費やして、返ってこなかった誠意。そういうものが、地面の下に、見えない根として広がっていく。それが裾野だ」

 

私は書き留めた。

 

「華やかに見える人間には、必ず広大な裾野がある。一夜にして輝いた人間など、いない。そう見えるだけだ。その輝きの下に、誰も見ていなかった長い時間が、必ず埋まっている」

 

「校長の裾野は、臨時工の時代だったんですか」

 

校長は少し笑った。

「そこだけじゃない。ブリタニカで断られ続けた日々もそうだ。夜中に一人でトークを練習した時間もそうだ。冤罪後、誰も信じてくれなかった頃に、それでもやり続けた日々もそうだ。タヤマ学校を作ってからも、うまくいかないことばかりだった。しかしその一つ一つが、地面の下に入っていった」

 

窓の外で、冬の風が吹いた。ガラスが微かに震えた。

 

「てつ、富士山のもう一つの秘密を教えよう」

 

「はい」

 

「富士山は、均整がとれている。左右が、ほぼ対称だ。どこから見ても、富士山だとわかる。崩れていない。偏っていない。その均整が、美しさを生んでいる」

 

私はペンを走らせた。

 

「人間も同じだ。能力だけが突出している人間は、美しくない。知識だけが突出している人間も、美しくない。仕事はできるが人間性が伴っていない、人間性はいいが仕事ができない。そういう人間は、どこか崩れて見える。見る者が、無意識に感じ取る」

 

「では、均整のとれた人間というのは」

 

「知恵と誠実さが、同じ高さにある人間だ」と校長は即座に言った。

 

「能力と人格が、同じ速度で育っている人間だ。仕事の成果と、人間としての深さが、乖離していない人間だ。そういう人間は、どこから見ても、同じ顔をしている。裏表がない、という言葉があるが、それはこういうことだ」

 

「難しいですね」と私は言った。正直に。

 

「難しい」と校長は言った。

 

同じくらい正直に

「だから富士山は一つしかない。スキルとウィルが共に高い均整のとれた美しさを持つ人間は、そう多くない。しかしだからこそ、目指す価値がある」

 

長男が食べ終わり校長のもとにやってきた。

 

「校長、もう一つ聞いていいですか」

 

「何だ」

 

「富士山は、噴火した山ですよね。火山です。その火が、美しさと関係していますか」

 

校長はしばらく黙った。今夜一番長い沈黙だった。私は急かさなかった。この沈黙の深さを、もう知っていた。

 

「なかなか鋭いこと聞くな」

 

校長は笑ってそう言ってから、ゆっくりと口を開いた。

 

「富士山の美しさは、静けさの中にある。しかしその静けさの下には、マグマがある。今もある。活火山だ。完全に眠っているわけではない。いつか噴くかもしれない。その眠れる火が、あの山を生きたものにしている」

 

私は書き留めながら、胸の奥が震えた。

 

「人間も同じだ。本当に強い人間は、穏やかに見える。怒鳴らない。騒がない。静かだ。しかしその静けさの下に、消えていない火がある。志という火が、信念という火が、燃え続けている。その火があるから、静けさが力を持つ。火のない静けさは、ただの空虚だ」

 

「校長の火は、何ですか」

 

私はそう聞きながら、踏み込みすぎたかもしれないと思った。しかし校長は、サングラスの奥の目を細めただけで、怒らなかった。

 

「どんな人間にも能力が備わっている。その能力を引き出すために生きる。それが私の火だ。冤罪で会社を無くした時も、二度の脳梗塞でも、心臓にメスを入れても、その火だけは消えなかった。消えなかったというより、消せなかった。それが火というものだ。自分で消そうと思っても、消えないものが、本物の火だ」

 

冬の夜が、深くなっていた。

 

「てつ、まとめて言おう」

 

校長は最後のひとくちを、ゆっくりと飲んだ。

 

「富士山が高く美しいのは、三つの理由からだ。一つ、広大な裾野がある。見えない裾野が、どこまでも広がっている。二つ、均整がとれている。どこから見ても、崩れていない。三つ、眠れる火を持っている。静けさの下に、消えない志がある。この三つが揃った時に、山は高くなり、美しくなる。人間も、同じだ」

 

私はペンを置いた。

今夜は書くよりも、この言葉を体に入れたかった。

松葉寿司を出ると、冬の空気が肌を刺した。

見上げると、星が出ていた。横浜の夜空に、いくつかの星が、鮮明に光っていた。

 

駐車場まで歩きながら、私は思った。

 

校長自身が、富士山だった。

 

臨時工として始まり、断られ続け、病を経て、それでも火を消さずに立ち続けてきた人間。

その裾野の広さを、私はまだ測ることができない。しかしその頂上の美しさは、そばにいるたびに確かに感じていた。

 

黒革の手帳を、カバンに入れた。

 

広大な裾野を持て。 均整のとれた人間であれ。 眠れる火を、消すな。

 

その三つが揃った時、人間は高くなり、美しくなる。

富士山は、今夜も静かに、日本の空の下に立っているはずだった。

 

これは営業会議や研修所で「富士山が美しく、高いのは裾野が広いからだ」と目標設定に関して校長が話をしていたことしか聞いていいないタヤマ学校の社員たち、研修生たちはきっと知らないだろう。

 

その手帳は、黒革もどきだった。

 

入社5カ月後から使い始めた。

校長と過ごす夜が増えるにつれて、手帳の減り方が速くなっていった。

書いても書いても、足りなかった。

 

校長の言葉は、一言一言が密度を持っていた。

薄く伸ばせるものが、一つもなかった。

 

既成概念の話を聞いた夜から、また季節が変わっていた。

 

その日も、校長の自宅に伺った。

 

玄関を開けけ、リビングへ歩くと、出汁の香りが漂ってきた。

昆布と鰹の、静かで深い香りだった。

 

「てつ、来たか」

校長は食卓についていた。だから、「来たか」ではない。長男が人質に取られているのだ(笑)

 

土鍋が、静かに火にかかっていた。湯気が、白く細く、天井へと向かっていた。

 

校長は今夜も、私の長男とじゃれ合っていても重厚感があった。

病を経てもなお、その姿勢だけは変わらなかった。

 

人間の芯というのは、外から折ろうとして折れるものではないと、そのたびに思った。

 

席に着くと、鍋の蓋を開けてくれた。

白菜、豆腐、鶏肉。湯気が一気に広がった。

 

しばらくは、静かに食べた。校長と二人でいる時の沈黙は、いつも不思議な質感を持っていた。

会話のない時間が、むしろ何かを醸成しているような感覚があった。

 

土鍋の火が、細く燃え続けていた。

 

「てつ、お前は今日、何件訪問した」

 

突然だった。

 

「2件です」と私は答えた。

 

「うまくいったか」

 

「一件は手応えがありました。二件は、まだ時間がかかりそうです」

 

校長は頷いた。しばらく鍋をつつきながら、何かを考えていた。

 

その間、私は次の言葉を待った。

校長との会話は、いつもそういうリズムだった。

急かすと、壊れる。待っていると、深いところから言葉が上がってくる。

 

「てつ、セールスとセールスマンシップの違いを、お前はどう考える」

 

私は箸を置いた。

私は「やばい!痛い所を疲れた!」

と思った。なぜなら、五誓の3番目にありながら、明確な意味を校長に直接聞けずに数年間いたからだ。

 

「セールスは行為で、セールスマンシップはその人間の在り方、でしょうか」

 

校長は少し目を細めた。完全に外れてはいない、しかしまだ核心ではない、という表情だった。

 

「もう少し深い」

 

私は手帳を取り出した。ペンを構えた。

 

「セールスというのは、商品を売ることだ」

と校長は言った。

「価格があって、機能があって、相手の需要があって、その需要に商品を当てはめて、対価をもらう。これがセールスだ。技術だ。訓練すれば、誰でもある程度できるようになる」

 

「では、セールスマンシップは」

 

「自分自身を売ることだ」

短く、しかし重かった。

 

「自分自身を、知って、売って、売り込む。商品ではなく、自分が売れるかどうか。これがセールスマンシップだ」

 

土鍋の中で、豆腐が揺れていた。校長がそっと火加減を調節してくださった。

 

「しかし校長、自分を売るというのは、どういうことでしょうか。物のように値札をつけるわけにはいかない」

 

「そうじゃない」と校長は言った。

「自分を売るというのは、自分という人間を、相手に届けることだ。この人間と一緒に仕事をしたい。この人間の言うことを信じたい。この人間のためなら動きたい。そう思わせることだ。商品の前に、人間が売れているかどうか。それがすべての土台だ」

 

私は書き留めた。

 

「ブリタニカで世界一を取った時も、私が売っていたのは百科事典ではなかった」

 

校長の言葉が、静かに落ちてきた。

「百科事典は、手段だった。私が売っていたのは、この子の未来をあなたより真剣に考えている人間が、ここにいるという事実だった。この人間は信頼できる。この人間は本物だ。そう感じてもらえた瞬間に、契約は終わっていた。百科事典の説明は、その後の話だ」

 

「順番が逆なんですね」と私は言った。

「商品を説明してから信頼を得るのではなく、自分という人間が先に信頼される」

 

「そうだ。しかし多くのセールスマンは、この順番を間違える。商品の説明を磨く。トークを練習する。クロージングの技術を学ぶ。それは大切だ。しかしその前に、自分という人間が売れているかどうかを、考えない」

 

校長は箸を置いた。

 

「てつ、自分を売るためには、まず自分を知らなければならない。自分という商品の、強みは何か。弱みは何か。他の人間にはない、自分だけが持っているものは何か。これを知らずに、自分を売ることはできない」

 

「自己分析、ということでしょうか」

 

「分析という言葉は、少し違う」と校長は言った。

「分析は、頭でやるものだ。私が言っているのは、もっと深いところだ。自分の魂が、何に動かされるのか。何のために生きているのか。何を大切にしているのか。それが滲み出てくる人間は、強い。理屈ではなく、存在が語る」

 

私は思い出した。校長がいつも話す、田山先生の言葉を。

「どんな人間にも能力が備わっている、ですね」

 

「そうだ。しかしその能力は、自分を知ることなしに引き出せない。自分を知らない人間は、自分の能力を使っていない。宝を持ちながら、宝に気づいていない人間と同じだ」

 

土鍋の湯気が、また細く上がっていた。

 

「校長、自分を売り込むというのは、自分を大きく見せることとは違いますか」

 

「まったく違う」

校長の答えは、即座だった。

 

「自分を大きく見せようとする人間は、すぐにバレる。人間というのは、嘘を見抜く能力を持っている。理屈では騙せても、感覚では騙せない。何かが違う、という感覚は、言語化できなくても、相手の中に生まれる。その瞬間に、信頼は終わる」

 

「では、自分を売り込むというのは」

 

「ありのままの自分を、全力で『したたかに、正直に』届けることだ。飾らない。しかし手を抜かない。自分の弱さも含めて、この人間はこういう人間だ、と正直に伝えられる時、人は動く。完璧を演じる人間より、誠実に自分をさらけ出せる人間の方が、はるかに強い」

 

私はペンを走らせながら、思った。

校長がずっと言い続けてきた「自分を受け入れる」という言葉が、ここに繋がっていた。

己を知り、己を認める。それがセールスマンシップの出発点だったのだ。

 

「校長、一つ確認させてください」

 

「何だ」

 

「自己受容と、セールスマンシップは、同じことの表と裏ですか」

 

校長はしばらく黙った。それから、静かに頷いた。

「そうだ。よく気づいた」

初めて、そう言ってもらえた気がした。

 

「自己受容は、内側に向かう行為だ。自分を知り、自分を認める。セールスマンシップは、外側に向かう行為だ。知った自分を、認めた自分を、相手に届ける。この二つは、表裏一体だ。内側が整っていない人間は、外側に届けるものを持っていない。外側に届けようとしない人間は、内側がいくら豊かでも、誰にも伝わらない」

 

校長は黙って鍋に具材を足してくださった。

「もうおなか一杯」と私は思った。

 

校長は

「てつ、もう一つ言っておこう」

校長は鍋をすすりながら、続けた。

 

「セールスは、一回で終わることがある。しかしセールスマンシップは、一生かかるものだ。自分という人間を磨き続けること。自分を知り続けること。自分を届け続けること。これは、現役を退いても、病床についても、終わらない。なぜなら人間は、死ぬまで誰かと関わり続けるからだ。だから、エンドユーザーではなく、エンドレレスユーザーを創るのだ。」

 

私は書き留めながら、胸の奥が静かに熱くなった。

 

脳梗塞を二度、心臓のバイパス手術を経た校長が、今夜もこうして私に向かい合っている。

言葉を選び、思索を届けている。

それ自体が、セールスマンシップの体現だった。

 

商品など、何一つない。

 

ただ田山敏雄という人間が、矢崎哲也という人間に、全力で向き合っていた。

 

「校長自身は、自分を売ることが得意でしたか」

 

私が問うと、校長は笑った。今夜一番、屈託のない笑い方だった。

「若い頃は、下手だった。自分を大きく見せようとしていた。臨時工という出自が恥ずかしかった。学歴がないことを隠したかった。しかしある時、気づいた」

 

「何に気づいたんですか」

 

「隠そうとしている自分を、相手は見ている。隠していることが、透けている。そしてその瞬間から、相手の目が曇り始める。それに気づいてから、全部話すようにした。臨時工だったこと、学歴がないこと、たくさん失敗したこと。全部話した」

 

「それで、どうなりましたか」

 

「お前『エスキモーに氷を売れ』を読んでないのか?」

といたずらっ子の様な笑顔をみせて

「信頼というのは、完璧な人間に向かうのではなく、正直な人間に向かうのだと、その時初めてわかった」

 

土鍋の火が、静かに燃えていた。

食事が終わり、お茶をいただきながら、私は手帳を閉じた。

今夜は珍しく、校長から「もう書かなくていい」と言われた気がした。

 

言われたわけではないが、そう感じた。

言葉を超えたところで、何かが伝わっていた。

 

帰り際、玄関で靴を履きながら、私は振り返った。

 

「校長、私はまだ、自分を知れていないかもしれません」

 

校長は微かに笑った。

「知れていないことに気づいた時が、出発点だ。知れていると思っている人間には、何も始まらない」

 

夜の空気が、肌に触れた。秋が、確かに深まっていた。

 

歩きながら、私は黒革の手帳を営業カバンに入れた。

今夜書いた言葉が、まだ温かかった。

 

セールスは、商品を届ける技術だ。 

セールスマンシップは、自分という人間を届ける生き方だ。

 

自分を知らなければ、届けるものがない。

 自分を認めなければ、届ける勇気がない。

 自分を磨き続けなければ、届けるものが育たない。

 

そして自分を、全力で、正直に、相手に向かわせる。

それが、田山敏雄という人間が、生涯をかけて体現し続けたことだった。

 

黒革の手帳の中に、また一ページが加わった。

 

※【黒皮の手帳の中身】の配信は6月から火曜日と木曜日となります。

 

松葉寿司の夜から、また少し時が経っていた。

 

田山校長の言葉は、私の中でゆっくりと発酵し続けている。

 

言葉というのは不思議なものだと、つくづく思う。聞いた瞬間にわかったつもりになる。しかし本当のわかり方は、日常の中で何かにぶつかるたびに、少しずつ、地層のように積み重なっていく。

 

あれは入社5年をすぎた、秋の初めだったと思う。

 

校長の自宅に呼ばれた。既に田山校長の家に着いた1歳を過ぎた私の長男が玄関に出迎えに出てきた。

抱き上げて、リビングに向かった

「てつ、来たか」

 

来たか!ではない、長男が人質に取られている(笑)

 

夕食を終えた後、観ているか観ていないかテレビを見ていた

 

そこで私は校長に分かったつもりになっていたが、分からなかったことをバドワイザーの力を借りて聞いてみた。

 

「校長、既成概念って正直なんですか?」

 

校長はしばらく黙って、茶碗を両手で包んでいた。

 

『いまさら、何っているんだ』と呆れらると思った。

 

私の予想とは裏腹に校長はつぶやいた。

「既成概念か・・・・・・」

 

その瞬間、私は手帳を取り出した。

それが今では習慣になっていた。

校長の話が始まる前から、ペンを構える。

言葉が流れ始めてから書こうとすると、必ず大事なものを取りこぼす。

そう気づいてから、私は最初から構えるようにしていた。

 

「てつ、既成概念というのは何だと思う」

 

私は心の中でこうつぶやいた。

『きたー!校長得意の質問返し!』

 

久しぶりに墓穴を掘ったと思った。バドワイザーを怨むよりほかにない。

 

「固定観念、でしょうか。すでにできあがっている考え方」と私は答えた。

 

「そうだ。ではその既成概念は、どこからやってくると思う?」

 

私は叱られなかった安心と、校長のからの質問に何度しながら少し考えた。

 

「経験・体験、でしょうか。それまでの経験・体験の積み重ね」

 

校長は静かに首を振った。否定ではなく、もう一歩先へ促すように。

 

「概念は、言葉で作られる」

 

短い一文だった。

 

しかしその短さの中に、長い思索が詰まっているのが伝わった。

 

「言葉がなければ、概念は生まれない。てつ、考えてみろ。赤ちゃんは言葉を持たない。だから赤ちゃんには、既成概念がない。世界をそのまま見ている。空が青いという概念も、老人は弱いという概念も、失敗は恥だという概念も、一切ない。ただ目の前にあるものを、丸ごと受け取っている。今の海拓(私の長男)はもう1歳を過ぎたか。概念が作り始められているな。」

 

私は書き留めた。

 

「しかし人間は成長するにつれて、言葉を覚える。言葉を覚えるというのは、世界を切り分けることだ。空という言葉を覚えた瞬間に、空と大地が分かれる。赤という言葉を覚えた瞬間に、赤と赤でないものが分かれる。『ボス』といったら自分を愛しているからいう事を聞いてくれる人と海拓は概念を持っているな((笑))、海拓にとってお前は『パパ』で愛してくれるけど、悪いことをすれば怒る人、『ボス』は自分を愛していて、何をしても怒らない人とな、言葉は、切り分ける道具だ」

 

私は「この人は何を言っているだ」と心の中で笑うしかなかった。校長は海拓へ目をやった。ウルトラマンのソフビで遊んでいる。

 

「そして切り分けられた世界に、意味がくっつく。『ボス』という言葉には、優しい、言う事を聞いてくれる、なんでも買ってくれる、という意味がくっつく(笑)

これからもしかしたら、失敗という言葉には、恥、損失、取り返しがつかないという意味がくっつけるかも知れない。お前も始めは、営業という言葉には、頭を下げる、断られる、つらい仕事という意味がくっついていただろ。こうして既成概念が出来上がる」

 

「言葉と意味がセットになるわけですね」と私は言った。

 

「そうだ。しかも厄介なことに、この意味の多くは、自分でつけたのではない。誰かからもらったものだ。親から、学校から、社会から、テレビから。気がついたら、もう自分の中にある。自分の考えのように感じているが、実は借り物だ」

 

私はそこで手を止めた。借り物。その言葉が、胸の奥に引っかかった。

 

「てつ、お前が今持っている言葉の中に、自分でゼロから考えてつけた意味が、いくつある?」

 

私は答えられなかった。答えようとして初めて、自分がどれだけ多くの意味を、誰かからそのまま受け取ってきたかに気づいた。

 

「ほとんどないと思います」と私は正直に言った。

 

「そうだ。人間は皆そうだ。それ自体は悪いことではない。言語というのは、社会で共有するために存在する。皆が同じ意味を使うから、会話ができる。しかしそれが既成概念になった瞬間に、人間の思考は止まる」

 

校長は茶を一口飲んだ。

 

「思考が止まるとはどういうことですか」と私は聞いた。

 

「言葉に意味がくっついた瞬間に、人間はそれ以上考えなくなる。営業はつらいものだ、と決まった瞬間に、営業が楽しくなる方法を考えなくなる。失敗は恥だと決まった瞬間に、失敗から何を学べるかを考えなくなる。老人は弱いと決まった瞬間に、老いの中にある強さを見なくなる」

 

「既成概念が、思考の蓋になるんですね」

 

「そうだ。蓋だ。言葉がすでに答えを持っているから、それ以上掘らない。それ以上問わない。しかし、てつ、現実というのはそんなに単純ではない。営業が楽しい人間はいる。失敗が財産になった人間はいる。老いてなお誰よりも輝いている人間はいる。現実には、既成概念に収まらないものが溢れている」

 

校長は再びソフビで無邪気に遊んでいる海拓を見た。私もつられて見た。幼い子がまるで本物のウルトラマンと怪獣が戦っているようにすることで、むしろ生きているかの様に感じる。

 

「てつ、私がブリタニカで世界一を取れたのは、なぜだと思う」

 

突然の問いだった。

 

「諦めなかったから、ですか」

 

「それもある。しかし根本は別のところにある。私はあの頃、フルコミッションの訪問販売は成功するのが難しいという既成概念を、信じなかった。いや、正確に言えば、疑った。なぜ売れないのか。本当に売れないのか。誰がそう決めたのか。そこから始めた」

 

「エスキモーに氷を売れ、ですね」と私は言った。

 

「そうだ。氷があり余っている場所に氷は売れない、というのが既成概念だ。しかしその概念を疑った瞬間に、新しい問いが生まれる。では氷を売るのではなく、何を売るのか。相手が本当に必要としているものは何か。そこに入った瞬間に、世界が変わる」

私は書き留めながら思った。校長がいつも言う「どんな人にも能力が備わっている」という言葉も、既成概念への抵抗だったのだ。学歴がない人間には無理だ、臨時工には限界がある、という概念を、校長は自らの人生で打ち破ってきた。

 

「既成概念を疑うというのは、言葉を疑うということだ」と校長は言った。

 

「てつ、言葉というのは地図だ。地図は便利だ。しかし地図は現実ではない。地図を見ながら歩くことと、現実の道を歩くことは、まったく違う。地図には載っていない道が、現実には無数にある」

 

「言葉に縛られると、地図の外に出られなくなるんですね」

 

「そうだ。しかしほとんどの人間が、地図の中でしか生きていない。地図に載っていない場所には、存在しないと思っている。地図に名前のついていないものは、見えない」

 

校長はそこで、短く笑った。温かみのある笑いだった。

 

「だから私はずっと、基本家研修でその事を伝え、研修生には体感させてきている。だから言葉を選んできた。タヤマ学校で『絆』という言葉を使わずに、『コミュニティー』という言葉を使ってきた。同じように見えて、言葉が変わると、概念が変わる。概念が変わると、見える世界が変わる。見える世界が変わると、取れる行動が変わる。行動が変わると、現実が変わる」

私はペンを持つ手が震えるような感覚があった。

言葉が変わると、現実が変わる。

 

「ではどうすれば、既成概念から自由になれますか」

 

私が問うと、校長はしばらく沈黙した。今夜一番長い沈黙だった。

 

「まず、自分の中にある言葉に気づくことだ。自分がどんな言葉で世界を切り分けているかを、一度立ち止まって見る。そして問う。この言葉の意味は、本当に自分がつけたものか。誰かから借りたものではないか。現実はそうなっているか、と」

 

「気づくだけで、変わりますか」

 

「気づいた瞬間から、その概念は既成概念ではなくなる。意識の外にある時だけ、既成概念は力を持つ。光を当てた瞬間に、その力は半分になる」

 

秋の夜が、深くなっていた。

 

「もう一つ言っておこう」と校長は言った。

 

「言葉は道具だと言った。しかし同時に、言葉は創造の道具でもある。既成概念を壊すだけでは不十分だ。壊した後に、新しい言葉で、新しい概念を作らなければならない。『価値ある目標』を持てと言いているのも、そのためだ。成功という既成概念には、自分だけが豊かになるという意味がくっついている。だから新しい言葉が必要だった」

 

「言葉を作ることが、世界を作ることだと」

 

「そうだ、てつ。言葉を持った者が、概念を持つ。概念を持った者が、現実を作る。これは比喩ではない。文字通り、そういうことだ」

 

と、その瞬間田山校長の背中の向こうから

「ピー!!」

と笛が鳴った。

 

田山校長がいつも首にかけている三井社長からも誕生日プレゼントにもらったサッカーワールドカップで使われている純金の笛の音。

 

って、『誰が鳴らしたんだ!』と思った瞬間に、

 

田山校長が、

「海拓、ボスに合格くれたか!」と満面の笑顔で振り向いた。

 

MIT研修で合格の際には笛が「ピー!」と鳴らされる。

そんな問題ではない!

 

田山校長の笛を鳴らすなんて、触る事さえもはばかれるのに!

しかし校長は満面の笑顔のまま振り向き、海拓を抱きながら自分の膝に乗せた。

 

「校長、最後に一つだけ聞いていいですか」

 

「何だ」

 

「校長の中で、まだ疑っていない言葉は残っていますか」

 

校長はしばらく考えた。それから、穏やかに言った。

「老いという言葉だ。私はまだ、老いを正しく定義できていない。病を経てから、老いの意味が変わってきた。衰えることだと思っていた。しかし今は、それだけではないと感じている。老いの中に、若さには絶対に見えないものがある。それが何かを、まだ言葉にできていない。まあいうなれば『心の在り方で一生青春』だな」

校長は少し笑った。

 

「言葉にできない間は、まだ自分の中で生きている。言葉になった瞬間に、既成概念になるかもしれない。だからもう少し、このまま抱えておく」

 

私は深々と頭を下げた。

すると「ピッピピピピ、ピッピー」と笛がなった。

MIT研修では不合格の際に吹かれる笛の音が。

 

顔を上げるといたずらっ子の様に、膝に海拓を乗せて笑っている校長がいた。

『まだまだ、タヤマ学校のトレーナーとして不合格か』と私は苦笑いを浮かべ、校長の顔を見た。

 

自宅に帰り改めて手帳を開いた。ページを埋めた文字が、今夜も滲んで見えた。

概念は言葉でできている。 言葉は、世界を切り分ける道具だ。 しかし同時に、世界を作り出す道具でもある。

 

言葉を疑え。 言葉を選べ。 そして時に、新しい言葉を生み出せ。

その先に、誰も見たことのない現実が、待っている。

 

田山敏雄は、生涯をかけてそれをやり続けた人だった。言葉と格闘し、概念を疑い、新しい世界を言葉で切り拓いてきた人だった。

 

そして私は思った。『長男を人質に取られている以上は校長と夕食を一緒にする時間が増えるな(苦笑)

 

VIP2で「共通認識」の本質を学ばせ、VIP5で理念と理念に基づいた事業計画を作成するという研修を提供するのはその数年後の事であった。

 

 

今年の6月1日で、タヤマ学校に入社して25年目が終わり、26年目に入る。

四半世紀である。

0歳からの25年間と同じか、それ以上に学び成長させてもらっている。

 

事実と真実と現実がイコールでなければならない、という校長の言葉は、その後も私の中で働き続けていた。

答えが出るというより、問いがより鮮明になっていくような感覚だった。人間というのは、本当のことを言われると、すぐにわかるのではなく、時間をかけてわかっていくものらしい。

 

その夜、校長から電話があった。

 

「てつ、松葉寿司で飯でも食おう」

 

校長の自宅の近く、横浜の静かな路地に佇む寿司屋だった。

暖簾をくぐると、カウンターに数席、小上がりに一卓だけという、こじんまりとした店だった。

年季の入った木のカウンターが、長い歳月を物語っていた。

大将は校長の顔を見ると、言葉少なく、しかし確かな笑顔で迎えた。二人が顔なじみであることは、すぐにわかった。

 

校長は定位置らしき席に落ち着いた。脳梗塞を二度、心臓のバイパス手術も経ていた。それでも背筋は伸びていた。人間の芯というのは、病がそう簡単に曲げられるものではないと、校長を見るたびに思った。

 

「何を飲む」と校長が聞いた。

「ビールをいただきます」

 

校長は大将に目で合図して、自分には「少しだけ」と言った。大将が静かに酌をした。ぐい呑みに、薄く満たされる程度の日本酒だった。

 

校長はそれをゆっくりと口に運んだ。香りを確かめるように、急かさずに。

しばらくは無言だった。ガリを一切れ食べ、大将の手元を眺め、白身の魚が運ばれてきた。

 

それから校長は、ふと私を見た。

「てつ、矛盾という字はどういう字か、知っているか」

 

「矛と盾です」と私は答えた。

 

「そうだ」

 

校長は箸を持ったまま、少し遠くを見た。

 

「お前なら知ってるだろうけど、昔の中国の話だ。武器売りの男がいた。

その男は、自分の矛を指して言った。『この矛はどんな盾も貫く』と。

次に自分の盾を指して言った。『この盾はどんな矛も弾く』と。そこに客がいて問うた。

『では、その矛でその盾を突いたらどうなるのか』と」

 

校長はそこで、ぐい呑みをそっと置いた。

「男は答えられなかった。それが矛盾の語源だ。てつ、ここまでは知ってるだろ」

 

「はい」と私は言った。

 

「では、ここからが本題だ」

 

大将が次の皿を置いた。

校長は一口食べてから、静かに続けた。

 

「人間というのは、矛盾を嫌う。矛盾は間違いだ、矛盾は論理の破綻だ、矛盾している人間は信用できない。

そう思っている。学校でもそう習う。矛盾のない論理こそが正しい、と」

 

私は頷いた。

 

「しかし、てつ。俺はずっと、人間を見てきた。

研修で多くの人間を。その長い歳月の中で気づいたことがある」

 

校長はまた少し間を置いた。

松葉寿司の店内には、静かな時間が流れていた。

大将の包丁の音だけが、かすかに聞こえた。

 

「本物の真理というのは、必ず矛盾を内包している。矛盾のないところに、深い真理はない」

 

私はペンを取り出した。

「どういうことか」と、私は聞いた。

 

校長は微かに笑った。問い返してくる私を、待っていたように。

 

「例えばだ。強いリーダーとは、どういう人間だと思う」

 

「決断力があって、ブレない人間です」と私は答えた。

 

「そうだ。それは正しい。しかし同時に、本物のリーダーは、誰よりも繊細に、人の痛みを感じ取る人間でもある。

鋼のような強さと、しなやかさ。

この二つは、表面上は矛盾している。

しかし、両方なければ、本物のリーダーにはなれない」

 

私は手帳に書き留めた。

 

「もう一つ言おう。人を信じることと、人を疑うこと。

これも矛盾しているように見える。

しかし本物のビジネスマンは、人を深く信じながら、同時に冷静に見極める目を持っている。

信じているから任せる。見極めているから導ける。この二つは、矛盾しながら共存している」

 

校長は大トロを一貫手に取った。

「自己受容という話を前にしたな」

 

「はい」

 

「己を認め、己の弱さを受け入れる。それと同時に、今の自分に満足してはいけない。

もっと高みへ向かわなければならない。今の自分を受け入れることと、今の自分を超えていくこと。

これも矛盾しているように見える。しかし、この矛盾の中に立ち続ける人間だけが、本当に成長できる」

 

「矛盾を解消しようとするから、苦しくなるんですか」と私は聞いた。

 

校長は目を細めた。

「そうだ、てつ。それだ」

 

ぐい呑みに、もう一度、薄く酒が満たされた。校長は香りだけ楽しむように鼻を近づけてから、少し口をつけた。

「人間はすぐに矛盾を解消しようとする。強いリーダーでいようとして、柔らかさを捨てる。信じることにして、疑うことをやめる。自己受容するために、向上心を手放す。

しかしそれは、矛盾を解消したのではない。どちらかを殺しただけだ。半分になっただけだ」

 

「では、どうすればいいんですか」

 

「矛盾の中に立つ、つまり矛盾を批判すのではなく、矛盾を受け入れることだ」

 

校長の声は低く、しかし揺るぎなかった。

「解消しなくていい。どちらかを選ばなくていい。

両方を抱えたまま、その緊張の中に立ち続ける。

それが難しい。人間は楽になりたいから、すぐにどちらかを手放す。しかし楽になった瞬間に、深みを失う」

 

おかみさんがが温かいお茶を置いていった。

 

「てつ、囲碁の布石の話をしたことがあったな」

 

「はい、焼肉屋でご一緒した夜に」

 

「あの時も同じことを言っていた。今この石が何のためにあるのか、置いた瞬間にはわからない。

しかし後になって意味が生まれる。

矛盾というのも同じだ。今は矛盾に見えるものが、時間をかけて、深い次元でひとつの真理になっていく」

 

私は書き続けた。手帳のページが、また足りなくなりそうだった。

 

「事実と真実と現実がイコールでなければならないという話をしたな」と校長は言った。

 

「はい」

 

「あの夜の続きを今夜話している。事実と真実と現実がイコールになった時、そこに何が見えるか。矛盾だ。

現実というのは、矛盾に満ちている。

強くなければならないと、優しくなければならない。利益を出さなければならないと、人を大切にしなければならない。速く動かなければならないと、深く考えなければならない。現実は矛盾だらけだ」

 

「だから現実から逃げるんですね」と私は言った。

 

「そうだ。矛盾が見えるから、目を背ける。しかし目を背けた瞬間に、事実と真実と現実がずれ始める。

矛盾を直視できる人間だけが、現実の中に両足で立てる」

 

店内は静かだった。

 

他の客も、いつの間にかいなくなっていた。大将は黙って仕事をしていた。その静けさが、この場にはちょうどよかった。

 

「校長は、矛盾が怖くなることはありますか」

 

私がそう聞くと、

 

校長はしばらく黙っていた。その沈黙は、逡巡ではなく、正確に答えようとしている沈黙だった。

 

「ある」

 

校長は短く、しかし正直に言った。

 

「病を経てから、余計に感じるようになった。生きていることと、死に向かっていること。これほど深い矛盾はない。

誰でも死に向かっている。しかしそれでも今日を生きなければならない。この矛盾の中に、人間の最後の真理がある」

 

私はペンを止めた。

 

「人間は矛盾の中から生まれて、矛盾の中を生きて、矛盾の中で終わる。その矛盾を解消しようとするのが愚かさで、矛盾を恐れて逃げるのが弱さで、矛盾の中に立ち続けるのが、人間の強さだ」

 

校長は最後のひとくちを、ゆっくりと飲んだ。

 

「矛盾を受け入れるようになった時、てつ、人間は本当の意味で大人になる」

 

帰り道、夜の能見台通りを歩きながら、私はずっとこの言葉を繰り返していた。

 

矛盾を解消しようとするな。

 矛盾から逃げるな。 

矛盾の中に立ち続けろ。

その緊張の中にこそ、深い真理がある。

 

田山敏雄という人間は、二度の脳梗塞と、心臓のメスを経てなお、その矛盾の中に立ち続けていた。

それが何よりの証明だった。

言葉ではなく、生きざまで。

 

まだまだ幼児性も高く、意識も低かった私はその後も矛盾にぶつかり、一人勝手に苦しむことも知らず、

何かまた一つ成長できたと勘違いしていた。

その夜のことは、今でも鮮明に覚えている。

 

入社5年目くらいの時に良く校長の自宅に招かれた。

 

湯気の立つ小鍋、白いご飯、箸を取れば自然と背筋が伸びるような、

静かで温かな空間だった。校長の家には、いつもそういう空気が流れていた。

飾り気がなく、しかし何か大切なものが満ちている空気が。

 

食事も半ばを過ぎた頃、校長はふと箸を置いた。

窓の外では、夜が深くなっていた。

「てつ、以前研修の時に話したことだが」

私は箸を持ったまま、顔を上げた。

「真実と、事実と、現実。この三つは、本来イコールでなくてはいけない。憶えているか?」

 

私は何となくはおぼえていが、三つの言葉が、頭の中でゆっくりと回り始めた。

 

校長は続けた。急がず、しかし一言も無駄にせず。

 

「事実というのはな、てつ、起きたことだ。

 数字で測れる、証明できる、誰が見ても同じものが見える。

 あの人は遅刻した。売上が落ちた。会議に三人来なかった。それが事実だ」

 

私は手帳を取り出した。校長はそれを見て、かすかに目を細めた。

それが、書き留めることへの無言の肯定だったと、後になってわかった。

 

「真実というのは、その事実の奥にあるものだ。

 なぜ遅刻したのか。なぜ売上が落ちたのか。なぜ三人来なかったのか。

 表に見えているものの、後ろに隠れているものが真実だ。

 事実は一つだが、真実は深い。掘っても掘っても、まだある」

 

小鍋の火が、静かに燃えていた。

 

「そして現実というのは、今この瞬間に自分が立っている場所だ。

 事実を受け取り、真実を理解した上で、自分がどこにいるのかを正確に把握すること。それが現実だ」

 

校長はそこで少し間を置いた。窓の外の夜が、一層深くなったような気がした。

 

「この三つは、本来一致していなければならない。

 事実を正直に見る。その奥にある真実を誠実に掘る。

 そして現実の中に、両足でしっかりと立つ。それが人間の基本だ」

 

「でも、なかなかイコールにならないんですよね。

 世の中の人は事実のみですべてを判断し、真実を知ろうとしません。」

 

私がそう言うと、校長は静かに頷いた。表情は穏やかだったが、

その奥に、長い年月をかけて積み上げてきた重さがあった。

 

「そうだ。なかなかならない。週刊誌なんかは真実は必要ないかのようだしな。

 人間というのは、見たいものを見て、信じたいことを信じて、

 都合のいい現実の中で生きようとする。だから三つが乖離する」

 

校長は湯呑みを両手で包んだ。

 

「事実から目を逸らす人間は、問題が見えない。

 真実を掘ろうとしない人間は、原因がわからない。

 現実から逃げる人間は、何も変えられない。

 この三つのどれか一つでも歪むと、残りの二つも狂ってくる」

 

私はペンを走らせながら聞いていた。

校長の言葉は、話しながら整えられていくのではなく、

すでに整っていた。長い時間をかけて、

自分の内側で熟成されたものが、静かに外へ流れ出てくるようだった。

 

「一番多いのはな、てつ、事実と真実が合っていて、

 現実だけがずれているケースだ。

 何が起きているかはわかっている。

 なぜ起きているかも、薄々わかっている。

 しかし、それを受け入れることができない。

 『自分はそんなはずじゃない』『うちの会社はそういう会社じゃない』と、現実から目を背ける」

 

校長は静かに笑った。しかしその笑いは、どこか哀しみに近いものを帯びていた。

 

「組織が腐るのは、そこからだ。

 事実は起きている。真実も、誰かは気づいている。

 しかし現実を直視できるリーダーがいない。だから何も変わらない。

 変わらないどころか、ゆっくりと、誰も気づかないうちに、沈んでいく」

 

「逆に、三つがイコールになっている人間は強い。

 何があっても揺れない。事実を直視し、真実を掘り、現実の中で自分の足場を確認する。

 これができる人間は、どんな困難が来ても、必ず次の一手を見つける。

 なぜなら、現実から逃げていないからだ」

 

私は手帳のページが足りなくなりそうだった。

「てつ、お前に一つ問いを置いておく」

校長は私の目を見た。

その視線には、試しているのではなく、本気で問うているものがあった。

 

「今のお前にとって、事実と真実と現実は、イコールになっているか」

 

私はすぐに答えられなかった。

答えられないこと自体が、すでに答えだったかもしれない。

 

校長は追い打ちをかけるでもなく、ただ静かにお茶を飲んだ。

その沈黙は、責めるためのものではなかった。

考えさせるための、深い余白だった。

しばらくして私は言った。

 

「全部ではないと思います」

 

校長は頷いた。

「正直に言えた。それが出発点だ」

 

食卓の上の小鍋は、もう火が落ちていた。しかし部屋の中には、まだ温もりが残っていた。

帰り際、玄関で靴を履きながら、私は振り返って聞いた。

 

「校長は、三つをイコールにし続けることができますか」

 

校長は少し考えてから、こう言った。

「できているとは言えない。

 ただ、毎日問い続けている。今日の自分の事実は何か。

 その奥にある真実は何か。自分が今立っている現実はどこか。

 この問いをやめた瞬間に、人間は老いる。肉体の話じゃない。魂の話だ」

 

夜の空気が、肌に触れた。

私は深々と頭を下げて、校長の家を後にした。

歩きながら、手帳を開いた。自分の書いた文字が、街灯の下でにじんで見えた。

事実を正直に見る。 真実を誠実に掘る。 現実の中に、両足で立つ。

 

「この三つをイコールにし続けることが、人間の仕事だ。 生涯をかけた、仕事だ。」

 

矢崎は一人つぶやいた。