主人、来週の月曜から出張だというのに、未だに持っていくスーツすら選んでいません。
毎年この時期に、故郷のモロッコへの出張が入ります。 いつもなら、二週間くらい前からモロッコの家族や友達へのお土産をスーツケースに詰め始め、浮き浮きしている頃。
今回は気が乗らない様子。 スーツケースは、まだ空っぽです。
義父が亡くなって以来、初めての出張です。
母親を10年前に亡くし、そして父親も亡くした主人。 “孤児”になってしまった主人。
きっと、親のいない故郷に帰り、本当に両親二人ともいなくなっしまったことを、実感するのが怖いのでしょう。
故郷を遠く離れた者の定め。
たぶん、親の最後には居合わせることはできない。
末期の癌だった義母の最後に、主人は間に合いませんでした。
電話で、
「来月、会いに行くから...」
と言う主人に、義母は、
「待っているよ。」
と答え、その翌週、状態が悪化し、義母は逝ってしまいました。
主人のことをこよなく愛した義母。 主人にとって大切な、大切な人でした。
故郷から遠く離れていると、電話でどんな知らせてが届いても、受話器を置くと、そこにはまるで何もなかったような世界があります。
今の電話、空想だったのだろうか? 本当だったのだろうか?
義兄からの電話に、主人はただ茫然としていました。
イスラム教徒は、24時間以内に埋葬をしなければいけません。 モッロコへの航空券をすぐに手配したとしても、葬儀には間に合いませんでした。
主人はモロッコには帰らず、電話の知らせが空想なのか、本当なのか、実感のないまま、普段の生活を続けてました。
その後の十年間、主人は何があっても必ず年に一回は、モロッコに父親に会いに行っていました。 母親の時の間違いを、繰り返したくなかったのでしょう。
毎週土曜日の実家への電話も欠かしませんでした。
「元気でいて。 また来週、電話するから。」
去年の出張も、都市での仕事を終え次第、主人の故郷、父親の住む地中海岸の街へ向かいました。
義父は慣れぬ子供達の街では暮らしたくないと、20年近く住む、窓からスペインが見えるコンドーミニアムで、
メイド兼介護婦と二人で暮らしていた。
肺を病み、目もよく見えなくなり、杖でゆっくり歩く義父と、二人だけで街じゅうをドライブしたそうです。
車の中で、いろんな話をしながら、一緒に笑いながら、昔を懐かしみながら。
主人が子供の頃、義父とよくドライブに行ったという、大西洋側を見渡す灯台で
二人でそんな4日間を過ごし、部屋で別れを言い合ったそうです。
「元気でいて。 また来るから。」
足の悪い義父なのに、ビルの五階のコンドーのバルコニーに立ち、主人の車が地下の駐車場から出てくるのを待っていたそうです。
車の窓から見た、バルコニーで手を振る父親の姿。
主人にとって、それが最後の父親の姿となりました。 それから数日後、血栓を起こし意識を失い、そのまま数週間後、義父は義母の元へ逝ってしまいました。
義兄からの知らせの電話に、主人は涙を流していました。
二回目。 その知らせの電話が空想ならと願いながらも、本当のものとして受け入れたのでしょう。
やはり、父親のお葬式にも行けませんでした。
普段の生活を続けながらも、夜になると親のいなくなった故郷を想い、ベットで肩を震わせ静かに涙を流していました。 そんな夜が、何晩も続きました。
義父が逝った翌月、主人は四十日周忌のためにモロッコへ向かいました。 息子達の学校もあったし、義兄姉達との時間の邪魔にならないように、私は家に残りました。
式が終わり、皆それぞれの街に帰っていった後、薄暗くなった義父のコンドーで一人になった主人が電話をしてきました。
「ハロー、ハロー?」
と繰り返す私に、受話器から聞こえてくるのは泣き声だけでした。
初めて、主人が声を出して泣くのを聞きました。 それは、それは、悲しい泣き声でした。
母親も、父親もいないコンドーで一人きり。
そこの椅子で父親が新聞を読んいるようで...
台所で母親がコーヒーを入れているようで...
バルコニーに父親が立っているようで...
暗闇で一人、もう両親はいないこと、“孤児”になってしまったことを実感した主人でした。
今年も、主人は、仕事が終わり次第、地中海岸の故郷に向かいます。 お墓に眠る両親に会いに。
でも、両親のコンドーには泊まらないそうです。
「夜は悲しすぎるから...」
そう言って、少しの間、主人は目を伏せていました。
きっと、また、バルコニーに立つ父親の姿が、頭をよぎっていたのでしょう。
最後の写真