うちの小鳥達。 カゴに入れられることもなく自由に暮らしています。
ヒナの時にやってきた小鳥達は、今まで、意地悪、暴力、裏切りなど、一切経験することなく、何も恐れることもなく、何も疑うこともなく、何にも怯えることなく、のほほんと育ち、のほほんと生きています。
うちの裏庭の木のフェンスと木々の向こう側に古い家があり、裏庭にちゃんとエサも与えられず、繋がれっぱなしの犬がいます。
「クーン、クーン。」と悲しそうな声が聞こえます。 何のために犬を飼っているのでしょう。
逃げ出して、フェンスの下をくぐって、うちの庭にやってきます。
がりがりに痩せ細り、体を震わせて、逃げる時にケガをしたのか、鼻の近くの皮が剥け赤身が出ています。
あわてて冷蔵庫の食べ物をかき集め、
「こんな物しかないのよ、ごめんねぇ。」
と、水と一緒に出してやります。
びくびくしていて、食べ物に近寄ろうとせず、薬を塗ってあげたいけど、遠くでじっとしています。
「私は、絶対痛めつけたりしないから、信用してね。」
そう言って家の中に入り、窓から食べているのを確認します。
昼間はどこに行っているのかわからないけど、朝と夕方には裏口に姿を現せます。 遠くに座って待っています。
私も時間になると、その犬が来てはいないかと何度も裏口のドアを開けてみます。
うっかり時間を忘れエサを上げ損ねるのが続くと、フェンスの向こう側から「クーン、クーン。」と声が聞こえ始めるのです。 お腹が空いてたまらなくなり、エサなんてもらえもしないのに、またあの家に帰って行き、捕まってしまうのでしょう。
「クーン、クーン。」という声を聞きながら、私は罪悪感いっぱいで涙が出そうになるのです。
だから、エサの時間になるとその犬を探します。
時々、私が庭仕事をしていると、遠くから私を見ていることがあります。
「私のことが好きなの? ずっと、ここにいればいいのよ。 あの家に帰っちゃダメよ。」
「私、時々時間を忘れることがあるけど、待ってってね。 大きな袋のドックフード買ってきたんだから。」
遠くに座ったまま、じっと聞いています。 あんまり話し好きではないようです。
そんな感じで何週間経ったけど、やっぱり人間は誰も信用したくないみたい。
どんなふうに育てられたんだろう? 子犬の時、どんな仕打ちを受けたのだろう?
可哀そうに。
“精神学の父”、フロイトによると、
人の心の中に「無意識」という自分では知覚しない領域がある。 (日常使われる「無意識」とは異なる。)
辛い経験の記憶を知覚して生きるのは苦しい。 だから、いつの間にかそんな記憶は「無意識」に押し込まれる。
極端な場合、過激な経験はその当時の全ての記憶が「無意識」に追いやられ、当時のことを思い出せなくなる。
でも、自我のスキをみて、そんな記憶が形を変えて自我の領域に現れ、自分では原因がわからないまま、
気持ちが不安定になったり、おかしな反応や言動をしたりする。 周りには“変わった人”と写るかもしれない。
辛い経験が幼い心に起こった場合、人格に影響を与えることがある。
覚えていない一、二歳の時の経験の記憶すら、実は「無意識」にはあり、人格に影響をしていることもあり得る。
思うに、“変わった人”にも、本人には自覚がない理由があるのかも。 そのことを理解してあげないといけないのかも。
それに、辛い経験の記憶が「無意識」に入って、後に問題が起きるくらいなら、「無意識」に入ってしまう前に信頼できる誰かに話したり、どこかに書いたりして、少しずつ自己消化していったほうがいい。
言うほど簡単なことじゃないけれど...
すでに「無意識」に入ってしまったものでも、よく自分の心と向き合えば引っ張り出せるものもある。 辛いけど引っ張り出して、認識して、消化したほうがいい。
これは、もっと大変なことだけど...
消化するとっても、過去の辛い経験の記憶を消してしまうことはできない。
悲しいことだけど...
でも、話せたり、書けたりすることができ始めたら、かなりの精神的向上で、きっといつか大丈夫になれるはず。
だから、がんばって!
その犬も、「無意識」の中にある子犬の時にされた仕打ちの記憶が、“変わった犬”にさせているのでしょう。 あんまり話好きじゃないみたいだけど、いつでも話を聞いてあげるんだけど。
裏口にエサを置いて家の中に入ると、小鳥達が飛びついてきて、じゃれてきます。
なんて幸せな小鳥達。 この小鳥達の「無意識」には、ぽかぽかした幸せな記憶しか入っていないのでしょう。