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 昨日、奥さんの実家一族の法事に行ってきた。40人以上が参列する大きなもので、奥さんは欠席したため、代役の僕は目立たないよう小さくなっていた。

 そんな中、ある方が、僕が教師だと知って、最近聞いた教育者の講演で感動したと、僕に話しかけてきた。

 講演者(校長経験者?)の実践は、

「小学校5年生で、給食を月に1回やめて、その日は子どもが全て自分一人で弁当を作ることにより、子どもは自主性、そして家族の絆も増し、一年たつと学年が学校が活性化した」というものだった。

 話してくださった親戚の方は、たいへん肯定的に感心しながら教えてくれたのだが、僕はその内容にもやもや感を感じ、つい、いろいろ質問してしまった。

「はたして、どれだけの家庭がその実践に肯定的だったのか」

「子どもは本当に全て自分でやれたのか」

「できない家庭への配慮や依頼はどうしたのか」

そしてこれが一番聞きたいところだが

「どうやってその成果を客観的に資料取りしたのか」等々。

 残念ながらその講演では、それらはどれも述べられなかったそうだ。

(親戚の方は、軽い気持ちで話しかけてくれたのに、変な食い付き方をされて面くらったでしょうね。ごめんなさい。)

 僕らは一つの実践にチャレンジするとき、「表向きの手だて」や「成果」はすぐに述べられる。しかし、そこには実は、

「本当に一人一人に手をさしのべているのか」「できる子だけで語っていないか」「できない子への手だてはどうしてるのか」等々、いろいろな隠れた要素があるのだが、表(おもて)だって語られることは少ない。まして文字にされることなどほとんどない。

 

 例えば、『挨拶をする』という手だて。

 その単純な行為の中には、実は

「明るい笑顔」「身体の向き」「暖かい視線」「声のトーン」「会釈」「手振り」

と、ぱっと思いつくだけでも、これだけの“隠れ手だて”(勝手にネーミング!)が同時に行われている。する人によってこの要素の組み合わせや濃さは違い、相手にとって「嬉しい挨拶」になったり、もしかしたら「冷たく心に残らない挨拶」になっていたりもする

 今回、法事の話から入って、この文をとりとめもなく書いていたら、いつのまにか、隠れ手だての話になってきたので、次回パート2では、一つの例として、「スピーチ」の隠れ手だてについて書きたいと思う。

 話せる子どもにするために「朝の会でスピーチをさせる」のは誰でもしてること。しかし、実際には全然話せる子にならないクラスだって少なからずある。そのクラスは、実は、「スピーチをする」という表手だてだけまねて、肝心な隠れ手だてを取っていないからに他ならない。
 乞うご期待!