鎌倉もののふ隊鎌倉智士が、来年2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を前に、1979年大河ドラマ「草燃える」を徹底解説。

 

解説後編

 

草燃える」は永井路子の『北條政子』『炎環』『つわものの賊』『相模のもののふたち』『絵巻』などの小説や随筆を原作としたNHK大河ドラマ第17作。一応表向きには北條政子(岩下志麻)と源頼朝(石坂浩二)のダブル主人公のドラマとしつつも、全体的には北條政子とその弟江間義時(松平健)視点に描かれていることが多く、また裏の主人公として架空の人物伊東祐之(滝田栄)が最後まで一貫して登場しつづける。最高視聴率34.7%、平均視聴率26.3%

 

解説前編はこちら▼

 

 

 

 

8月23日、石橋山合戦がはじまる。

『平家物語』によると合戦に先立って、北條時政(金田龍之介)と大庭景親(加藤武)が名乗りあい「言葉戦い」が行われた。

大庭景親(加藤武)は自らが「後三年の役で奮戦した鎌倉景政の子孫である」と名乗り、これに北條時政(金田龍之介)が「かつて源義家に従った鎌倉景政の子孫ならば、なぜ源頼朝公に弓を引く」と言い返し、これに対して大庭景親(加藤武)は「今は敵である。平家の御恩は山よりも高く、海よりも深い」と応じた(『平家物語』)。
『保元物語』では「御先祖は、八幡殿(源義家)の後三年の合戦で金沢柵が落とされたとき、生年16歳で右の眼を射られ、その矢を抜かないまま返しの矢を射って敵を討ち、名を後代にあげ、今は神として祀られている鎌倉の権五郎景正の四代の子孫、大庭庄司景房(大庭景宗)の子」と名のったと記されている。

 

ここで、当時の勢力図を確認しておきたい。

 

平安時代、900年ごろの日本の総人口は550万人ほど、1150年ごろは多くて700万人ほどと言われている。弘安2年(1279年)の日本の総人口は500万人(男性200万人・女性300万人)と『高祖遺文録』に記されており、日本全国の大名の軍勢が集まった東西で戦った関ケ原合戦(1600年)の総勢が15万人とされている。

治承4年(1180年)のころなら全国の武士が集まってせいぜい5万人で、関東だけなら総勢5,000人がやっとと推測される。

『吾妻鏡』には上総広常が2万騎で源頼朝を出迎えたと記されていたり、武田信義が2万騎で駿河国へ進攻したと記されているが、当時の人口を考えると、上総国は3,000騎、甲斐国は1,700騎、伊豆国530騎がやっとの人数と考えられる。ましてや、まだこの当時上総広常は上総国を統一できておらず(兄と領地や家督を争っていた)、武田にしても甲斐国を完全に掌握していたわけではない。上総は多くて2,000人、武田は多くて1,000人ぐらいは動員できたのではないかと考えられる。

北條氏が挙兵時に30騎ほどだったとされているので、北條は1,000石ほどの豪族であったと推測される。

 

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ここで、重要な人物を紹介しておきたい。

 

大庭景親

相模国高座郡大庭荘を本拠とする平氏の一族。鎌倉党の当時の棟梁。兄に懐島景義、弟に豊田景俊俣野景久らがおり、従兄弟には梶原景時長尾為景長尾定景香川家政酒匂朝景和田義盛らがいる。梶原景時和田義盛大庭景親の従弟であることは意外と知られていない。梶原景時と同じ1140年生まれで、石橋山合戦の当時40歳。

大庭景宗の時代、天養の乱(1144年)で源義朝・三浦党・中村党に大庭御厨を攻められるなど長年の三浦党・中村党との相模国における領地争いや源義朝への恨みがあったなか、平治の乱(1160年)で鎌倉党は平清盛に与したことにより相模国で最大の勢力となる。一方、平治の乱に敗れた源義朝に与していた三浦党・中村党は力を失う。この戦で大庭景親は命を救われ、大恩を感じて平清盛に「東国八箇国一の馬望月」を献上している(『平家物語』)。

『源平盛衰記』では大庭景親を「平家重恩の者で、その勢いは相模国にはびこれり」と記し、治承4年(1180年)ころには大庭景親平清盛にとって「東国の御後見」つまり東国の実質支配を任されるにまで信頼を得て、鎮西の原田種直、四国の粟田成良らと並び各地方で平家政権を支えた1人となる。なお、御後見という表現は、表向きに任されていたのは東国別当伊藤忠清であり、現地で直接実質的支配をしていたのが大庭景親ということになる。

治承4年(1180年)5月には京都大番役として在京中に源頼政以仁王のクーデター鎮圧に参戦し、伊豆国に滞在していた源頼政の孫源有綱追捕と上総広常の京都召喚を命じられ相模国へ帰国。ところが源有綱源頼朝に匿われており、平家政権下で圧迫されていた工藤氏・三浦氏・中村氏らが源頼朝を担ぎ上げて挙兵すると、同じように平家政権下で苦渋をなめてきた上総氏や千葉氏らまでが加勢し、ついに大庭景親は敗れ斬首されることとなる。

なお、兄懐島景義(花沢徳衛)は総集編には出ていないが本編には出ている。

 

伊東祐親

伊豆国久須美荘を本拠とする工藤(藤原)氏の一族。工藤氏は伊東氏や狩野氏を輩出。伊勢の藤原を称する伊藤氏とは同族ではあるが、伊東は「伊豆東浦をいう」とあるように伊豆の東という地名であり、伊藤は名字ではないが伊東は名字である点が異なる。

伊東祐家が早世したとき祖父工藤家継から伊東祐親は河津荘を与えられ、叔父工藤祐継に伊東荘が与えられた。父伊東祐家が継承するはずだった総領の地位や伊東荘が叔父に奪われたことに不満を持ち、叔父工藤祐継死後その子工藤祐経(加藤和夫)に家督が継承されると、工藤祐経が上京している不在の間に伊東荘を奪い、工藤祐経に嫁がせていた娘万却(まえ)を離縁させ、土肥実平の子早川遠平に嫁がせてしまった。このことが原因で長男河津祐泰工藤祐経に射殺され、後に曽我兄弟の仇討(1193年)の原因となる。曽我兄弟とは、河津祐泰の遺児たち曽我祐成(三ツ木清隆)と曽我時致(原康義)である。

伊東氏は北條時政三浦義澄早川遠平ら周辺豪族を娘婿に取り入れることで伊豆国での一大勢力を誇り平清盛からの信頼を得て平治の乱に敗れ伊豆国に配流された源頼朝の監視を任されるのである。

 

上総広常

上総広常(小松方正)は上総国の豪族で、上総権介であることから一般的に上総広常と呼称されている。平常澄の八男で、保安元年(1120年)ころの生まれとされる。

天養2年(1145年)に父平常澄が千葉氏(千葉常重)の領地である相馬御厨に源義朝とともに攻め込む事件があった。上総氏は源義朝との親交が深く、保元の乱(1156年)には源義朝に、平治の乱(1159年)には源義平に従い戦い、上総広常源義平17騎の1人に数えられている。しかし平治の乱で源義朝が敗れると上総氏は平家政権下で次第に力を失っていく。長寛元年(1163年)には平清盛の後ろ盾を得た佐竹義宗が相馬御厨に攻め込む事件が起こり、上総広常はかつて相馬御厨を争った千葉常胤と今度は協力して佐竹氏と戦っているが結局は奪われてしまう。

また、上総国を統一していたわけではなく、伊西常景印東常茂ら兄たちと家督や領地をめぐる内紛が起こっており、源頼朝挙兵後までお家騒動はつづいている

平清盛との関係が決定的に悪化したのは治承3年(1179年)11月、伊藤忠清が上総介に任ぜられたことであり、国務をめぐって伊藤忠清と対立。平清盛から勘当されている伊藤忠清の任官は後白河法皇に対するクーデターでの功績によるものであった。また、平家派の藤原親政が下総国に勢力を伸ばすなど平家政権下で圧迫を受けつづけていた。

源頼朝に与した理由は、家督争いと平家の圧力の排除という思惑があった。

 

伊藤忠清

伊藤忠清(伊藤豪)は、保元の乱(1156年)で平清盛軍の先陣を務め源為朝と戦った豪傑。平重盛に近仕しており、平重盛の嫡男平維盛の乳父となるほどの重臣である。

安元3年(1177年)4月の延暦寺大衆の強訴で防備にあたっていたが、威嚇射撃の矢が神輿に命中したことがきっかけで延暦寺との抗争は激化し、後白河法皇による延暦寺攻撃命令や鹿ケ谷の陰謀などへ発展していく。伊藤忠清は流罪となり上総国に配流されるが、上総広常から歓待を受けている。流罪といっても左遷のような扱いだったように思われる。

治承3年(1179年)11月に後白河法皇に対するクーデターで功績をあげ、解任された藤原為保に代わり上総介となり従五位下に叙せらた。また坂東八箇国の侍別当として東国武士団を統率する権限も与えられ、東国現地の後見(直接的支配)に大庭景親を選任している。すると上総国の国衙を掌握した伊藤忠清上総広常の恩を仇で返すかのうように強圧的な態度に転じ、陳弁のために上洛した上総広常の子上総能常を拘禁している。伊藤忠清の圧迫に上総広常は我慢の限界を迎えていた。

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8月20日、大庭景親(加藤武)軍はすでに小田原辺りを西軍しており、土肥郷に進出していた源頼朝軍と石橋山で対峙することになる。大庭軍の主な顔ぶれは、俣野景久河村義秀糟屋盛久渋谷重国熊谷直実海老名季貞曽我助信滝口経俊毛利景行長尾為景長尾定景柳下五郎香川家政香川経高ら3,000騎である。

戦国時代の数万騎の行軍ともなると1日に5kmの進軍ともいわれているが、少数であればおそらく1日に20~30kmは行軍できたであろう。

 

大庭景親(加藤武)が大庭を発したのは遅くとも8月18日。熊谷直実(長沢大)の領地である武蔵国熊谷郷からはおよそ直線距離140kmほどであり、最短で5日は進軍に要していることを考えると熊谷直実が熊谷郷を発したのは遅くとも8月15日辺りとなる。

武蔵国男衾郡畠山郷の畠山重忠は8月23日には金江河(神奈川県平塚市花水川)に布陣しており、また武蔵国入間郡の河越重頼江戸重長らの名も8月26日の衣笠攻めで見られることから、畠山重忠(森次晃嗣)は遅くとも8月19日には出陣しており、川越重頼江戸重長らも同じころに出陣したものと推測できる。

相模国の平家方の軍が武蔵国の軍勢と合流しながら西に進軍していたとすればもう少し早く準備もしていたであろう。つまり、挙兵した源頼朝軍を大庭軍が迎え撃ったというのは嘘である。

 

源頼朝の挙兵より先に、大庭軍は出兵していた

 

源頼朝(33)が挙兵した8月17日時点では、大庭軍とりわけ武蔵勢はすでに西に進軍しており、おそらく数日前には源有綱追討軍が編成されて出陣していたことになる。源有綱追討の命令を受けて8月2日に大庭景親が京都から帰国しているので、大庭軍の出兵も遅いぐらいである。相模国だけでなく武蔵国にも号令をかけて集合するのに半月かかったと考えてよいだろう。

山木館襲撃事件の顔ぶれは工藤氏ばかりで実は中村党や三浦党の名が見られない。8月20日に相模国土肥郷に進出した源頼朝(33)はこの時点で土肥実平(70)と合流したのであろう。三浦義澄(53)が三浦を発し、途中で平家方の館に火を放って西へ進軍したのが8月22日と遅いことも合点がいく。

つまり、源頼朝軍は後手であったのだ。

源頼朝軍に比企氏の名はまだない。源頼朝(33)が出兵したときは北條30騎と工藤50騎、源頼朝の配下数名合わせて90名ほどであり、綿密に練られた作戦なら本来比企氏も何名かはいてもおかしくないし、中村・三浦・千葉・上総らもこの時点で数名でも加わっていておかしくないはずだ。はっきり言って少なすぎる。

 

大庭方にしても、8月17日に源頼朝が挙兵してから、武蔵国へ早馬を走らせて、武蔵国の豪族たちが知らせを受けてから戦の準備をして出陣したのでは、武蔵国の軍勢が8月20日にすでに小田原辺りにいるはずがない。辻褄が合わない。

 

疑問はもう1つある。

鎌倉郡、高座郡、大住郡と餘綾郡の南部は鎌倉党、つまり大庭景親(40)の領土である。

その領土を三浦軍が突破できるだろうか。大雨で酒匂川(小田原)が増水し渡れなかったというが、そもそも大庭軍の領地を突破できる勢力があったとは思えない。そもそも8月22日に発していたら三浦軍が酒匂川に辿り着くのは8月24日ころのはずだ。しかしながら8月23日にはすでに畠山重忠(16)は金江河(神奈川県平塚市花水川)におり、三浦軍が畠山軍を素通りして酒匂川(小田原)まで到達できるとは思えない。

また、8月24日には三浦義澄(53)らは畠山重忠(16)の軍勢と由比ガ浜で対峙していることから、そもそも酒匂川になど行っていないのではないか。8月22日に発した三浦軍は鎌倉郡に入って民家に火を放ったりしていたものの大庭領を突破することはできず、8月24日に畠山軍に押されて三浦に退いたとも考えられる。

 

北條政子(松下志麻)のところへ石橋山合戦の戦況を知らせに左源太(神山卓三)が現れる。

「行方が知れません」と源頼朝(33)らの敗走を知らせている。

土肥に集結した源頼朝軍は土肥実平(福田豊土)ら200騎を加えてもわずか300騎ほど。北東から大庭景親(加藤武)の3,000の軍勢、南(石橋山の後山)から伊東祐親(久米明)の300の軍勢に挟まれ、あっけなく敗戦。

 

「頼朝を探せ!!」有名なしとどの窟の場面。「頼朝の沢潟縅だ…」と都合よく大鎧の大袖が落ちている。

しとどの窟がどこなのかは諸説あるが、通説では土肥の椙山というところだ。このときしとどの窟に隠れていた7人を椙山六騎(頼朝七騎)という。土肥実平(70)、早川遠平(50)、土屋宗遠(62)、岡崎義実(68)、小野田盛長(45)、新開実重(45)、田代信綱(40)だ。源頼朝以外に6人であって元々は早川遠平は含まれていなかったとされるが、田代信綱が後に源義経と行動をともにするようになって以降に入れ替えられたとされる。

土肥実平(福田豊土)は、相模国足下郡土肥郷を本拠とする中村氏の一族。天養の乱(1144年)には三浦党と結託して源義朝を担ぎ上げて大庭御厨(鎌倉党の領地)に攻め込むなど長年相模国において鎌倉党と領地争いを繰り広げてきた。保元の乱(1156年)や平治の乱(1159年)でも一貫して源義朝に与しており、平治の乱以降勢力を失い平家政権下で圧迫を受けていた豪族の代表格である。天養の乱(1144年)と同じように、今度は源義朝の子源頼朝を担ぎ上げて再度肥沃な相模平野へ侵攻したい思惑があったのである。

早川遠平土肥実平(福田豊土)の長男であり、相模国早川荘を領す伊東祐親(久米明)の娘婿である。義父伊東祐親を裏切ったことになる。新開実重土肥実平(福田豊土)の次男であり、相模国大住郡新開を領している。大住郡新開のすぐ隣に位置している相模国大住郡岡崎を領す岡崎義実(小栗一也)は中村宗平の娘婿、つまり土肥実平の義兄弟になる。土屋宗遠中村宗平の次男、つまり土肥実平(福田豊土)の弟である。田代信綱は狩野荘田代郷の領主で、父藤原為綱狩野茂光の娘婿であり、工藤派の武士である。つまり、椙山しとどの窟に隠れていたのは田代信綱小野田盛長以外はほぼ中村党の一族である。

 

 

 

 

しとどの窟梶原景時(江原真二郎)が源頼朝たちを見逃す。

土肥実平(福田豊土)が「梶原の平三(へいぞう)景時」と言っているが、平三郎の略称なので厳密には「へいぞう」ではなく「へいざ」である。

梶原景時(江原真二郎)は相模国鎌倉郡梶原郷を本拠とする桓武平氏の流れ鎌倉氏の一族。鎌倉権五郎景政の一族であり、大庭景親の従兄弟にあたる。大庭景親とは同じ歳である。文武両道に長けた武士であり、治承4年(1180年)8月17日からはじまった源頼朝との戦いにおいては最後まで大庭方として戦い奮戦しており(鎌倉防衛戦では鎌倉路(武蔵路)にある梶原六本松が戦地(六本松合戦)となり、梶原は最終防衛ラインであった)、主君大庭景親(加藤武)が投降した後もしばらくは身を晦ましていたが、10月26日に大庭景親(加藤武)が斬首されると、土肥実平(福田豊土)を頼って治承5年(1181年)1月11日に源頼朝に帰順して御家人に列せられた。この経緯から梶原景時(江原真二郎)は大庭景親(加藤武)を裏切っていたとは考えにくい。むしろ忠臣である。

『源平盛衰記』の有名な話ではあるが、しとどの窟の件は後世の創作であろう。

 

 

逃亡中の北條宗時(中山仁)が伊東祐親の軍勢に囲まれて討死。

実際に討ったのは伊豆国小平井領主の小平井久重であるが、ドラマ上では架空の人物伊東祐之(滝田栄)が討ち果たしている。

 

 

源頼朝(石坂浩二)は箱根権現に逃れ、北條時政(金田龍之介)も合流する。

北條時政は戦地で源頼朝と逸れていたわけだが、加藤景員(加藤五)、加藤光員(加藤次)、加藤景廉(加藤次)、宇佐美祐茂堀親家大見廣政らは北條時政とともにいた様子が『吾妻鏡』に記されている。北條時政は「箱根湯坂をへて甲斐へ行く」と記されているが、辻津が合わないことが多く、安房国で合流した説の方が通説になっている。

源頼朝を支えた工藤派の大物狩野茂光や同じく工藤一族の仁田忠常の兄仁田忠俊は討死している。

 

源頼朝らはバラバラになって安房国を目指すことに決める。

8月28日、真鶴岬から安房国へ脱出。

 

 

8月29日、源頼朝は安房国平北郡猟島に到着。北條時政(金田龍之介)と江間義時(松平健)も再度合流。

 

後述するが安房国平北郡は三浦氏の所領である。

 

ここでいったんドラマ総集編の流れから離れて3つの話をしておきたい。

まずは三浦での戦い、そして京都の平家軍の動き、さらに甲斐武田氏の動きについてだ。

 

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三浦氏の動き

8月22日に出陣した三浦軍は、三浦義澄(53)を総大将に、三浦義連(49)、大多和義久(51)、大多和義成(31)、和田義盛(33)、和田義茂(29)、和田義実多々良重春多々良明宗筑井義行、そして鎌倉一族の長江義景(50)である。

前述したように酒匂川まで早くても到着は8月24日だと考えられるが、すでに8月23日には畠山重忠(16)軍が金江河(神奈川県平塚市花水川)に布陣しており、素通りして酒匂川へ行けるとはとても思えない。また逆に畠山重忠(16)軍より先に酒匂川に到着していたとしても、挟み撃ちにされて退路を断たれてしまうわけであり全く辻褄が合わない。8月24日には由比ガ浜で対峙し、その後小坪坂合戦をへて衣笠へ退去していくことを考えると、酒匂川までは行っていないと推測できる。

8月24日、由比ガ浜で対峙した畠山重忠(森次晃嗣)と三浦義澄(早川雄三)の軍勢。親戚も多く和平が成りかかっていたが、遅れてきて事情を知らない和田義盛(伊吹五郎)の弟和田義茂が畠山勢に討ちかかってしまい、畠山重忠(森次晃嗣)軍が応戦して双方少なからず討死した者が出て、停戦となって双方兵を退いた。これが由比ガ浜合戦小坪坂合戦である。

8月26日、由比ガ浜・小坪坂合戦での汚名をそそぐため畠山重忠(森次晃嗣)は河越重頼江戸重長と合流し数千騎で衣笠を攻める。

8月27日、ついに衣笠は陥落し、三浦義明(88)が討死した。三浦義明(大森義夫)は外孫の畠山重忠に攻め殺されたことになる。『吾妻鏡』には「我は源氏累代の家人として老齢にしてその貴種再興にめぐりあうことができた。今は老いた命を武衛(源頼朝)に捧げ、子孫の手柄としたい」と壮絶な最期を遂げたとするが、『延慶本平家物語』では老齢の三浦義明が足手まといとなって置き去りにしたと記されている。

 

追討軍(平家軍)の動き

9月1日に大庭景親からの使者が福原に到着し、9月5日には源頼朝追討軍派遣が決定するが、結局京都を発したのは9月29日であり、追討軍は10月13日に駿河国へ入った。およそ330kmの道のりを15日で進軍したことになる。

次将(参謀役)の伊藤忠清が吉日を選ぶ選ばぬで悶着があったり、「相模国には大庭兄弟、武蔵国には畠山がおり、伊豆国・駿河国の両国合わせて四か国の武士たちは皆平家方になろう」と悠長にしていたと『平家物語』には記されている。西国の大飢饉で兵糧の調達に苦しみ士気は非常に低かったというが、平家方の最大の敗因は、東国別当伊藤忠清の読みの甘さだ。平家方が時間を空費している間に、源頼朝の再挙、甲斐源氏の挙兵、木曽義仲の挙兵などが起こっている。

追討軍は諸国で「駆武者」をかき集めたことで70,000騎の大軍になったと『平家物語』には記されているが、兵糧も不足しているのにそんな人数寄せ集められるはずがない(そもそもそんな集められるほどの人口ではない)。

 

武田氏の動き

甲斐源氏の平井義直は石橋山合戦で大庭景親軍の旗下に従軍しており、討死している。甲斐国平井から石橋山まで4~5日はかかることを考えると8月15日ころには出兵していると考えられる。加賀美遠光の一族である秋山氏や小笠原氏、武田有義など在京して平家方に仕えている者たちも多く、源頼朝挙兵当初は旗幟を鮮明にしていない。

8月21日、藤原忠親の『山槐記』』によれば武田信義安田義定一條忠頼ら甲斐源氏が挙兵し、平家派の氏族と戦い、安田義定を筆頭に工藤景光工藤行光市川行房らが源頼朝救援に向かっている(『吾妻鏡』)。甲斐源氏は伊豆国の工藤氏と姻戚関係をもつ氏族が多かった。その1人が工藤景光であり、伊豆国工藤氏の狩野茂光とは同族である。要するに工藤氏の甲斐源氏とのパイプを源頼朝は頼みにしていたと見ることもできる。

8月24日、大庭景親軍の侍大将俣野景久が駿河国目代橘遠茂とともに甲斐国へ出兵。

8月25日には駿河国波志田山で安田義定俣野景久の軍勢と激突。波志田山合戦は安田義定軍が勝利している(『吾妻鏡』)。駿河国波志田山とあるが正確な位置は不明で、富士河口湖町周辺と考えられている。この戦勝が諸国の反乱意識の契機になったといわれている。

『吾妻鏡』には甲斐源氏は源頼朝の指示のもと行動していたように記されているが、この時期源頼朝の指揮下に入る理由がない。あくまで工藤氏との関係から援軍に向かったとされている。甲斐源氏は源頼朝とは別に以仁王の令旨を受けて挙兵しており(平家に対するクーデターとみなされており)、平維盛の追討軍の目的は源頼朝ではなく甲斐源氏であったという見方もある。

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話はドラマに戻る。

 

8月29日に源頼朝は安房国平北郡に到着。安房国へ逃れた源頼朝安西景益丸信俊が迎え入れた。

丸信俊はあまり知られていないが、安房国朝夷郡丸御厨を本拠とする在地領主であり、かつて源頼朝の官位昇進を祈願して平治元年(1159年)に父源義朝が伊勢神宮に寄進した縁の深い荘園である。昔は昔、今は今であり、丸信俊が20年も前のことを理由に迎え入れる義理はないのだが、平家討伐の宿望を果たしたときには、新御厨を立て重ねて伊勢神宮に寄進すると源頼朝が約束したと『吾妻鏡』には記されている。

 

ここで踏まえておきたいことが1つある。安房国には三浦氏の所領があることだ。

安房国には古くから三浦氏の所領がある。平治の乱で敗れて後に衰退した三浦氏が長寛元年(1163年)に平家派の安房国長狭郡の長狭常伴と平北郡(鴨川市)の領有をめぐって金山城・長狭城で戦っており、三浦義明の長男杉本義宗(三浦義澄の兄であり、和田義盛の父)は負傷し、翌年に亡くなっている。

安西景益は安房郡西部領主であることから安西を称しているが三浦氏の一族(「千葉大系図」「安西氏系図」では千葉氏一族)であり、安西常遠の娘婿安西常房の子であり三浦義澄の娘婿である。安西景益にとって三浦義澄は義父にあたり、敗走する三浦氏(と源頼朝)を支援することは当然の流れといってもいい。

 

また、上総国長柄郡金田郷には三浦義明の娘婿金田頼次がおり、早くから金田頼次も支援している。金田頼次三浦義澄の義兄弟にあたり、さらに上総広常の弟である。金田頼次の子金田康常、孫金田成常らも源頼朝の麾下に加わっている。

実は三浦義明が討死した8月26日の衣笠合戦で金田重長の名が見られ、おそらく一族であろうと推定されており(金田頼次も戦っていたともされ)、この時点で三浦氏の親族として加勢していた。

 

彼らが源頼朝を迎え入れた真の理由は、長年盤踞してきた長狭常伴ら平家方の氏族を排除することにあった。

9月3日、長狭常伴はすぐさま源頼朝を襲撃したが失敗し、三浦義澄によって討たれている。

 

 

9月4日、千葉常胤が下総国千田荘の藤原親政を攻める(結城浜合戦)。藤原親政平忠盛の娘婿であり、平資盛の伯父にあたる平家方の有力者であり、千葉氏の下総国における立場は危機的な状況に追い込まれていた。源頼朝に加担した最大の要因は、こうした状況を打破するための起死回生の賭けであった。

 

これまで抑えつけられてきた反平家派の豪族たちが一気に反旗を翻し、

 

安房国では安西景益三浦義澄らによって平家方の長狭常伴が討たれ、

下総国では千葉常胤によって平家方の藤原親政が攻め落とされ、

上総国では上総広常によって制圧が進められた。

 

上総国伊甚郡(夷隅郡)には上総広常の兄伊西常景の長男伊北常仲、次男伊南常明らが領しており、上総氏内部の抗争がつづいていた。上総広常の兄伊西常景は安房国長狭氏を妻にしており、長寛元年(1163年)に弟印東常茂によって攻められ討死している。上総国・安房国で三浦氏・印東氏と長狭氏・伊西氏が合戦していたころ、下総国では千葉氏・上総氏と佐竹氏が争っており、平家の勢力が拡大していったことがうかがえる。

上総広常のもう1人の兄印東常茂(下総国印旛郡)も平家の親族藤原親政を後ろ盾にしており、上総広常にとっては平家打倒こそが一族の掌握につながるのであった。上総広常千葉常胤安西景益らは利害が一致し、一気に平家方を攻めたのだ。

 

『吾妻鏡』『平家物語』とは矛盾があるが、『源平闘諍録』には千葉常胤上総広常はともに源頼朝を迎えて、それぞれ300騎ずつの軍勢で上総国から下総国へ進軍したとある。なお、上総広常は『吾妻鏡』では20,000騎、『延慶本平家物語』では10,000騎、『源平闘諍録』では1,000騎とある。国力から考えると1,000騎が妥当だ。

なお、ドラマ上では千葉常胤は9月13日、上総広常は9月16日にそれぞれ合流したと語られている。

 

上総広常源頼朝に与した理由は、前述したように平家との対立が最大の要因であり、一族間の領地争いや家督争いの打破という思惑もあった。

しかしながら、源家累代の家人だった遠い過去のことで麾下に入るような義理はなく、あくまで自分たちの都合で挙兵しているため、甲斐源氏のようにやや独立性の高い立場にいたと思われる。

 

下河辺氏、小山氏らも帰服の意を表明。とナレーションが入る。

下河辺氏は、5月7日の時点で下河辺行平以仁王源頼政のクーデター計画を源頼朝に知らせている。これは源頼政軍への加勢要請である。

下河辺氏は下野国小山氏(藤原氏)の一族でありながら、源頼政の支援で独立していたこともあり、源頼政亡き後はその孫源有綱とともに源頼朝の麾下に加わっていたのである。

また、小山氏は意外と知られていないが源頼朝とは親戚といってもいい。源頼朝を経済的・人的支援しつづけた大功労者である乳母比企尼を解説前編でも紹介したが、やはり同じように小山氏にも源頼朝の乳母寒河尼がいる。厳密には小山氏というよりは八田宗綱の娘寒河尼であるが、陣営に馳せ参じた小山政光寒河尼の子であり、源頼朝にとっては乳兄弟である。そして源頼朝の乳母寒河尼の弟八田知家が早くから源頼朝の支援に向かっていることの背景には、やはり比企氏と同じように乳母の家との深い関係性がうかがえる。乳母寒河尼の弟八田知家は、後に鎌倉殿の13人に選出されている。

 

要するに、小山氏と下河辺氏が帰服したことは何ら不思議なことではなく、当然の流れだ。

 

 

 

10月4日、畠山重忠河越重頼江戸重長豊島清元葛西清重足立遠元らが源頼朝に帰参。源頼朝軍勢は数万に膨れ上がった。

 

何と、源頼朝が安房国に渡ってから数万の軍勢に膨れ上がるまでの時間はわずか1分、ナレーションで語られるのみだ。

房総半島で何があったのか、スパーンと思いっきり省略して、突然数万の軍勢で再挙してしまっている。

 

平家の大軍と対決する日が近づきつつあった…というところで総集編第一回が終了

 

次回は総集編第二回「平家滅亡」を解説