鎌倉もののふ隊鎌倉智士が、来年2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を前に、1979年大河ドラマ「草燃える」を徹底解説。

草燃える」は永井路子の『北條政子』『炎環』『つわものの賊』『相模のもののふたち』『絵巻』などの小説や随筆を原作としたNHK大河ドラマ第17作。一応表向きには北條政子(岩下志麻)と源頼朝(石坂浩二)のダブル主人公のドラマとしつつも、全体的には北條政子とその弟江間義時(松平健)視点に描かれていることが多く、また裏の主人公として架空の人物伊東祐之(滝田栄)が最後まで一貫して登場しつづける。最高視聴率34.7%、平均視聴率26.3%

 

解説前編

 

 

物語は治承元年(1177年)4月の京都からはじまる。4月の安元の大火、6月の鹿ケ谷の陰謀がナレーションされる一方で、平家の衰えが語られる。

 

 

京都から普通に馬を走らせて10日ほどの距離にあるという伊豆国、北條館に場面が移る。

北條氏のことを一小豪族と表現している。

当主の北條時政(金田龍之介)は京都大番役で留守であり、北條は長男北條宗時(中山仁)が留守を守っていたとしている。

 

 

北條政子の弟江間義時(松平健)、妹北條保子(真野響子)が紹介され、北條政子(松下志麻)は婚期の遅れた娘にすぎないと語られる。

江間義時長寛元年(1163年)に北條時政伊東祐親の娘との間に生まれているので、このとき14歳。14歳を演じる松平健さんこの当時26歳。うーむ、さすがに老けすぎて14歳には見えない!!ちなみにドラマ上では「北條の小四郎」と呼ばれているが『吾妻鏡』などの文献には北條ではなく江間の名字で記されている。ドラマでは分かりやすく北條としたのだろうが、時代考証にこだわるなら江間と描いてほしいところだ。

北條保子は、後に源頼朝の弟阿野全成(伊藤孝雄)と結婚するいわゆる阿波局(実は本名は不明)のことである。このドラマでは保子と言われているが、おそらく政子の名に合わせたものと思われる。『吾妻鏡』では阿野全成の妾と記される。

 

伊豆大社の御輿担ぎで江間義時と仲良くなったという裏の主人公伊東祐之(滝田栄)が登場する。この当時、伊豆大社で御輿担ぎというのが存在したというのが驚きである。伊東祐之北條政子を紹介してくれと江間義時に依頼する。と、そこへ源頼朝を馬に乗せて引き馬をする小野田盛長(武田鉄矢)が現れる。

 

 

源頼朝(石坂浩二)は久安3年(1147年)生まれなので、この当時ちょうど30歳。

小野田盛長(武田鉄矢)は保延元年(1135年)生まれなので、この当時42歳。小野田盛長源頼朝の世話をしたり警護をしたりするいわゆる侍(武士ではない)である。

小野田盛長は三河国八名郡小野田を本拠とする藤原氏の一族。源頼朝の乳母比企尼の長女(丹後内侍)を妻としており、比企尼の指示により流人源頼朝に仕えて何かと世話を行っていた。文治5年(1189年)奥州合戦での恩賞として陸奥国安達郡を拝領してから「安達盛長」を称したため、この当時はまだ安達を名乗っていない

なお、源頼朝の乳母比企尼源頼朝にとって最大のスポンサーであり、経済的にも人的にも支援をしつづけた鎌倉幕府創設における最大の功労者でもある。

 

架空の人物伊東祐之が「世に無し源氏」と語る。平家が全盛を極めていた時代に源氏は存在しないという源氏を蔑む言葉であるが、こういったワードを架空の人物に言わせる辺りは定番(使い勝手がいい)手法である。

 

 

 

 

平家の世に不満を持ち、源頼朝を担ぎ上げようと企む者たちがいたと語る。この辺りの表現は永井路子さんらしくてとても素晴らしい。

企てには三浦義村(藤岡弘)、加藤景廉(樋浦勉)、仁田忠常(中田譲治)、佐々木定綱(佐藤仁哉)らが顔を揃えているが…。

 

三浦義村(藤岡弘)が伊豆国にいるのはとても現実的ではない。相模国三浦から伊豆国までいったいどれだけの距離があるというのだろうか。

三浦義村(藤岡弘)は仁安3年(1168年)に三浦義澄(早川雄三)の次男として生まれる。このときわずか9歳である。9歳の三浦義村を演じるこの当時33歳の藤岡弘…年齢差がひどすぎるが、これも大河ドラマあるあるだ。

 

さらには相模国渋谷荘にいる佐々木定綱(佐藤仁哉)が伊豆国までホイホイと簡単に出てこれるわけがない。佐々木定綱は康治元年(1142年)生まれなのでこの当時35歳。

 

加藤景廉(樋浦勉)は、保元元年(1156年)生まれとされており、正しければこの当時21歳。伊勢国を本拠とする藤原氏の一族であり「加賀介の藤原」から加藤と称される。伊勢国目代であった父加藤景員が平家の侍を殺害する事件を起こし伊豆国へ配流される(『源平盛衰記』)。加藤景廉加藤景員の次男。次男であることから加藤次と称される(兄は加藤太)。父加藤景員、兄加藤光員、弟加藤景正とともに伊豆国牧之郷へ流され、狩野茂光の監視下にあった(逃亡して工藤氏に匿われらとする説もある)。嘉応2年(1170年)には工藤氏に従い伊豆大島に配流されていた源為朝を討伐(とすればもう少し年上のはずだが…)。配流にせよ逃亡にせよ、工藤氏との関係のなかで伊豆国に土着したことは間違いないようで、後に山木兼隆(長塚京三)の首をとり手柄を立てている。

 

なお、工藤氏の狩野茂光は伊豆国最大勢力で伊豆大島も所領としており、保元の乱(1156年)で流罪となった源為朝の監視役を担っていた。田代為綱狩野茂光の娘婿であり、後に源頼朝挙兵に加わった田代信綱狩野茂光の孫にあたる。同じく源頼朝挙兵に加わった天野遠景仁田忠常らも工藤氏の一族である。

仁田忠常(中田譲治)は仁安2年(1167年)生まれなのでこの当時10歳。伊豆国田方郡仁田郷を本拠とする工藤氏の一族。弟に仁田忠正仁田忠時らがいる。

鎌倉殿の13人」での仁田忠常(高岸宏行)は「北條を支える武士」と記されているが、元来は北條ではなく「工藤を支える武士」だ。

 

察しがつく方もいるだろうが、伊豆国において平家方の伊東氏の台頭を最もよく思っていないのが工藤氏であり、源頼朝挙兵の際の顔ぶれの多くが実は反伊東派の工藤氏の一族たちであることは意外と知られていない。

 

結局、北條氏、三浦氏、佐々木氏、加藤氏、仁田氏らに小野田盛長(武田鉄矢)も加わり、源頼朝北條政子を結婚させよう作戦がはじまる。小野田盛長が「娘はいくらでもおるでしょうが、それでは何の役にも立ちません!殿には後ろ盾が必要です。北條は頼りになりますぞ」と言うと、源頼朝は「しかし北條の娘はどちらが姉でどちらが妹かの区別もつかぬ…」といった会話があり、まさに担ぎ上げられたという見事な描かれっぷりである。

 

北條宗時(中山仁)の「一か八か賭けてみる値打ちがある」という台詞があるが、この時点ではそこまで深く考えていたとはとても思えない。

 

 

治承元年(1177年)10月、京都大番役の務めが終わり北條時政が3年振りに伊豆国へ帰ってきた。牧の方(大谷直子)を連れて。しかも北條政子の縁談話も持ち帰ってきたのだが、それが伊豆国目代山木兼隆(長塚京三)との縁談話であった。

ここで描かれているのは、北條時政(金田龍之介)が京都大番役に出仕したのは承安4年(1174年)でその後3年間留守にしており、留守中に北條政子は兄たちの策略によって源頼朝と契りを交わしてしまっていたというもの。

事実、源頼朝北條政子との間に生まれた長女大姫(池上季実子)は、治承2年(1178年)もしくは安元2年(1176年)に生まれたとされており(『曽我物語』)、北條時政(金田龍之介)の留守が本当ならば留守中に勝手にできてしまっていたことになる。

 

しかし山木兼隆との縁談話は真っ赤な嘘である

 

山木兼隆(長塚京三)は、一般的には山木兼隆と称されるが実際に山木を名乗ったことはない。関信兼の長男として伊勢国鈴鹿郡関に生まれ、関兼隆もしくは大掾兼隆と記される。祖父平盛兼が1110年代にはすでに検非違使となって活躍しており、父関信兼保元の乱(1156年)で平清盛とともに戦い検非違使委などを歴任し、後に「三日平氏の乱」を起こしている。

関兼隆も検非違使少尉(判官)として平時忠に仕えていたため「山木判官」とも称されるわけだが、治承3年(1179年)に不祥事を父に告発され右衛門尉を解任されて伊豆国山木郷に流罪となる。伊豆国に配流されたときにはすでに源頼朝北條政子の間には大姫は生まれており、北條政子をめぐって源頼朝と恋敵となる話は創作である。このとき関兼隆は流人でありすでに判官でもなかった。

北條時政(金田龍之介)が京都大番役から帰ってきたときには、関兼隆はまだ京都で平時忠に仕えており、伊豆国にはいないし、ましてや伊豆目代ではないのである。

 

ではなぜ流人関兼隆が伊豆国目代になったのか。

 

そもそも伊豆国主は源頼政(74)、伊豆守は源仲綱(54)であった。しかし、治承4年(1180年)5月、源頼朝(74)と以仁王(30)のクーデターが失敗し、源頼政源仲綱が討死。

治承4年(1180年)6月29日に平時忠が伊豆の知行国主となり、養子平時兼が伊豆守に任命されたことにより、元々平時忠と懇意があってたまたま伊豆国に配流されていた関兼隆が流人の身でありながら伊豆国目代に任命されたのである。それは治承4年(1180年)6月29日以降であり、伊豆目代だったのは攻め殺される8月17日までのわずか1ケ月半である。

 

ちなみに、伊豆国に流刑となった者は割と多く、伊豆国が配流先としてよく用いられたことが分かる。

保元の乱(1156年)で伊豆大島へ配流された源為朝、平治の乱(1160年)で伊東に配流された源頼朝、また源為朝を1170年に討伐した加藤景員も元々は伊豆国へ配流されていた身であった。遠藤盛遠(文覚)も伊豆国へ配流されている。1179年には関兼隆(山木兼隆)が山木に配流されている。といったように伊豆国は流刑の地とも言える。

 

そして不可解なことはもう1つある。

 

牧の方(大谷直子)がこのとき後妻に迎えられたとは考えられない。

なぜなら、北條時政(金田龍之介)と牧の方(大谷直子)の子と考えられている北條時房北條時連(森田順平)は、安元元年(1175年)生まれであり、すでに生まれているからである。

では、牧の方はもっと早くに後妻になっていたということなのだろうか(北條時房は京都大番役時代に京都で生まれたのか)。少なくとも安元元年(1175年)以前に…とは考えにくい。

 

この当時、北條時政(金田龍之介)の妻は伊東祐親の娘である。

通説を崩すまでの確証はないが、北條時房の母は伊東祐親の娘ではなかろうか。

伊豆国における伊東祐親の勢力は非常に大きく、一小豪族にすぎない北條時政伊東祐親の娘婿になることによってその傘下に組み込まれていた状況下において、果たして伊東祐親の娘と手を切って別の妻を迎えるような政局にあっただろうか。

北條宗時(中山仁)、江間義時(松平健)、北條政子(松下志麻)、北條保子(真野響子)らは伊東祐親の孫であることを忘れてはならない。

 

そしてここで北條時政が、伊東祐親(久米明)が源頼朝の子どもを殺したことを語る。

 

承安2年(1172年)、伊東祐親の娘(八重)と源頼朝との間に千鶴丸が生まれる。

伊東祐親は京都大番役で不在であった。

ところが安元元年(1175年)9月、京都大番役から帰った伊東祐親は平家の怒りを恐れて3歳になった千鶴丸を殺害し、源頼朝の暗殺をも謀った。

伊東祐親(久米明)の次男伊東祐清(橋爪功)が源頼朝を伊豆山神社へ逃し、源頼朝北條時政(38)に匿われて以降北條(蛭ケ島)で暮らすことになる。

 

つまり、源頼朝が元々配流されたのは伊東であり蛭ケ島ではない、ということだ。

 

つまり安元元年(1175年)9月にはすでに源頼朝北條時政によって庇護されており、なぜそれを伊東祐親が最終的に許したのか、あるいはすでに京都大番役に出仕して伊豆国にいるはずのない北條時政がなぜ源頼朝を庇護することができたのか、全く辻褄が合わない。

 

 

京都に源義経(国広富之)が登場。

源義経は平治元年(1159年)生まれなので、この当時18歳。

 

 

 

 

源頼朝北條政子が駆け落ちして、伊豆山権現に逃げ込む手筈となる。

文陽坊覚淵と交渉している江間義時が伊豆山権現で惚れてしまったのが大庭景親の娘(松坂慶子)。大庭景親は伊豆国の豪族と語られるが全くの間違いで、大庭景親は相模国大庭御厨を所領とする豪族である。娘がホイホイと伊豆山権現になど行けるはずがない。いや行く意味がない。

 

北條時政(金田龍之介)が北條政子が館から出て行かないように警護を固める。

 

またまた9歳の三浦義村が伊豆に登場(いったいどうやって相模国三浦からホイホイ出てこれるのだろうか)。北條政子を略奪して源頼朝の待つ伊豆山権現へ届ける企てに、略奪させる適任者がいると言う。使い勝手のいい架空の人物伊東祐之が当て馬に用いられた。

 

 

治承2年(1178年)3月、山木兼隆北條政子の婚礼が近づく。

婚礼の前夜に山木兼隆北條政子の部屋に忍んでくるのが習わし…であるとか。

 

しかし前述したように、まだ関兼隆は伊豆国に配流されていない(つまり伊豆国にいない)。

そして北條政子源頼朝の子大姫をすでにを生んでおり、まず婚礼は起こるはずがない。

 

『吾妻鏡』『曽我物語』に北條政子が「父北條時政が平家を怖れ私を閉じ込めていたが、私は闇夜を抜け出して雨風を凌ぎつつあなたのもとへ参りました」という愛の逃避行物語が記されているが、少なくとも関兼隆(山木兼隆)とは一切関係ない。

 

 

驚いたのは、伊豆山権現にものすごい多くの僧兵がいることだ。

しかも僧兵たち、やたら強い…なわけないだろう(苦笑)

 

 

平清盛(金子信雄)が後白河法皇(尾上松緑)を幽閉し、

治承4年(1180年)4月、平清盛の孫安徳天皇(中村太郎)がわずか1歳で即位。

 

 

伊豆山権現から土肥実平の館に移った北條政子大姫を出産。

源頼朝北條政子との間に生まれた長女大姫(池上季実子)は、治承2年(1178年)もしくは安元2年(1176年)に生まれたとされており、安徳天皇が即位するもっともっと前のことになる。

なぜ大河ドラマ上でこの大姫出産の時期が2年もズレたのか。それはおそらく山木兼隆(長塚京三)と源頼朝との恋敵話を治承2年(1178年)のエピソードとして入れてしまったから(辻褄が合わないから)である。

 

 

治承4年(1180年)5月、以仁王の令旨が届く。届けたのは源頼朝の叔父新宮十郎行家(戸浦六宏)。新宮十郎行家源行家は永治元年(1141年)生まれなのでこのとき39歳。源頼朝は33歳なので実はあまり歳が変わらない。ちなみに同席している北條時政(金田龍之介)は保延4年(1138年)生まれでこのとき42歳。源行家(戸浦六宏)よりやや年上ぐらいだ。

 

ちなみに、実際に平家打倒の挙兵を命じる以仁王(30)の令旨が源行家(39)によって源頼朝(33)に届けられたのは4月27日と『吾妻鏡』には記されている。

また一説には5月7日に下河辺行平によって知らされたともされている。

 

 

ところが以仁王(30)のクーデターが失敗に終わったと知らせが届く。

 

ここで絶対に抑えておきたい重要なポイントがある。

 

以仁王(30)とクーデターを起こしたのは伊豆国主である源頼政(74)であり、伊豆国主源頼政(74)と伊豆守源仲綱(54)がともに討死したことだ。

このことによって平清盛(62)の義弟平時忠(50)が伊豆国主となり、養子平時兼(13)が伊豆守となった。そこで平時忠のかつての側近関兼隆山木兼隆(長塚京三)がたまたま配流先の伊豆国にいたため伊豆国目代に就任したのである。

 

会話のなかで「追捕の手から逃れられるはずがないのでぜひ奥州へ、奥州の藤原秀衡殿であれば快く匿ってくれるはずだと、兄が、わたくしの口からもそのように申し上げよと」と言っているのは三善康清だが、ドラマ上では別の人物にこの台詞を言わせている。

6月19日、三善康信(石濱朗)が弟三善康清源頼朝のもとへ派遣し、奥州藤原氏のもとへ逃れるようにと急報を送った件である。三善康信(石濱朗)の伯母が源頼朝の乳母であり、三善康信(石濱朗)にとってみれば源頼朝は親戚に等しい近しい間柄である。

 

なお、6月27日には三浦義澄(53)と千葉胤頼(25)が北條館に入っており、同じころ、小野田盛長(45)が源家累代の家人の動向を探って各地を奔走している。

主犯格は北條時政(42)と比企遠宗(59)であり、三浦氏・千葉氏・上総氏らがこの企てに快諾している。

上総広常(60)の弟金田頼次(52)をはじめとした上総の一族たちがこの企てに早くから加わっていたことは重要なポイントの1つとして考えておかなければならない(なぜ後に房総半島に逃れたのかという点にもつながる)。

 

京都にいる三善康信(40)は「勝てるはずがない」と思い奥州へ逃げるべきだと主張している一方で、伊豆国に集まっている北條・比企・三浦・千葉・上総らの「一か八かの賭け」との温度差も実に面白い。

 

7月10日、各地を奔走していた小野田盛長(45)が源頼朝(33)のもとに戻る。波多野義常(39)・山内首藤経俊(43)は源頼朝(33)の招集に応じないばかりか、使者小野田盛長(45)らに悪口雑言を吐く有様であった。『源平盛衰記』によると波多野義常(39)は返答を渋り、山内首藤経俊(43は「佐殿(源頼朝)が平家を討とうなぞ、富士山と丈比べをし、鼠が猫をとるようなものだ」と嘲笑。大庭景義(42)・三浦義明(88)が快諾。千葉常胤(62)・上総広常(60)も承諾。三浦氏・千葉氏・上総氏らはすべて平氏系目代から圧迫されていた存在だった。

なお、首藤経俊(田中明夫)、波多野義常(中島元)は総集編には出ていないが本編には出ている。

 

 

 

 

大庭館で、伊豆国目代関兼隆山木兼隆(長塚京三)と、伊東祐親(久米明)、大庭景親(加藤武)らが宴を催している。伊東祐親(久米明)は「800騎は出そう」と語っており、関兼隆山木兼隆(長塚京三)は「3年前の恨みを晴らす」と言っていることから、源頼朝を攻める軍議を行っている様子が分かる。しかしここにはいくつもの矛盾がある。

 

まず、すでに前述しているが、伊豆国目代関兼隆山木兼隆(長塚京三)は、治承3年(1179年)に不祥事を起こしたことによる流罪で伊豆国山木郷に配流となったため、3年前にはまだ伊豆国にはいない。

 

そして、大庭館というのは相模国高座郡大庭にあり、伊豆国目代の関兼隆山木兼隆(長塚京三)や伊東祐親(久米明)らがわざわざ伊豆国から相模国高座郡大庭まで赴くとは思えない。

 

さらに、大庭景親(加藤武)は京都大番役に出仕しており、5月26日に源頼政追討軍に動員され足利忠綱(17)らとともに平知盛の指揮下で追討の任にあたり以仁王源頼政連合軍と戦い宇治合戦(橋合戦)で大いに活躍している(『吾妻鏡』)。

在京していた大庭景親(加藤武)が命を受けて相模国へ下向したのは8月2日であるため、この時点ではまだ相模国にいない(8月2日以降のことであればあり得る)。

 

また、源頼朝を攻める軍議を行っているが、上記した大庭景親(加藤武)が命を受けて相模国へ下向した理由は2つ。「源有綱の追捕」「上総広常の京都召喚」である。よって源頼朝を攻めるという命令は受けてはいないのである。

 

在京していた大庭景親(40)は、東国侍別当の伊藤忠清(伊藤豪)に呼び出され「駿河国の長田入道から聞いたが、北條時政比企遠宗が伊豆国の流人源頼朝を擁立して謀反を企てているそうだな」と問い質されている。このとき大庭景親(加藤武)は「比企遠宗はすでに死んでいます」と答えたにすぎないが、京都に企てが漏れていたことが『吾妻鏡』に記されている。

 

とはいえ、追捕の手が源頼朝に向いたのは事実である。

なぜなら、前伊豆国主源頼政の孫(源仲綱の子)源有綱源頼朝を頼り、源頼朝源有綱を匿ったたからである。

源有綱の追捕」を命令した平清盛(62)にとってみれば謀叛人の子は危険因子であり、当然のことであるが、疑問なのはなぜ源頼朝がそんな危険因子を匿ったのかだ。

 

 

治承4年(1180年)8月13日、

大庭館での軍議の内容「出陣は8月19日」であることが、大庭景親(加藤武)の娘(松坂慶子)から江間義時(松平健)に内通。何度も言うが、相模国高座郡大庭にいる娘と、伊豆国田方郡江間にいる17歳の青年が簡単に会えるわけがない。しかしどんなに遠くても簡単に会えてしまうのが大河ドラマあるあるでもある。

そしてそれはすぐさま源頼朝らに伝わるのである。と、ここにまたあの三浦義村(藤岡弘)当時12歳が「伊豆と三浦で挟み撃ちにする」と登場するが、やはりどう見ても12歳には見えない。

本来ここにいるべきは三浦義澄(早川雄三)であるが、ドラマの構成上どうしても最初から最後まで三浦義村(藤岡弘)を出演させたい意図あったのだろう。

 

なお、8月6日には有名な源頼朝(石坂浩二)による「真実の密事」が行われている。

工藤茂光土肥実平岡崎義実天野遠景佐々木盛綱加藤景廉らを1人ずつ私室に呼び、「未だ口外せざるといえども、ひとえに汝を頼むによって話す」と言い、彼らは自分だけが特別に頼りにされていると喜び奮起したという。

 

 

8月17日、源頼朝が伊豆国目代関兼隆山木兼隆(長塚京三)の館、そして後見人堤信遠の館を襲撃した。いわゆる山木館襲撃である。

これらの動きを察知していた大庭景親(加藤武)は関兼隆山木兼隆(長塚京三)に情報を伝えず見殺しにしたという見方もある。

関兼隆山木兼隆(長塚京三)の家人たちは三島大社の祭礼に出かけていたため手薄だったというが、なぜ三島大社の祭礼に???と疑問もあるが、いずれにしても関兼隆山木兼隆(長塚京三)は工藤氏の家人加藤景廉(樋浦勉)はによって討たれた。

 

8月19日に、関兼隆山木兼隆(長塚京三)の親戚中原知親も伊豆国蒲屋御厨(南伊豆町)の知行を源頼朝によって止められている。

 

構図として、伊豆国での伊東派と工藤派との領地争い、そして相模国での三浦・中村党と鎌倉党との領地争いがそもそもの最大の発端であり、伊東・鎌倉v.s.工藤・三浦・中村という戦争は親平家派と反平家派の争いでもあった。そこに担ぎ上げられたのが源頼朝である。千葉・上総らが加担したのも源家累代の家人であったからなどではなく、彼らが反平家派だったからに他ならない。

 

 

 

 

8月20日、源頼朝は伊豆国を出て、土肥実平(70)の所領土肥郷まで進出。

8月22日、三浦義澄ら三浦軍が三浦を出発し、大庭領で放火しながら西へ進軍。

 

そしてついに8月23日、源頼朝軍と大庭景親伊東祐親連合軍との戦い、石橋山合戦がはじまる。

ドラマ(総集編第一回「頼朝起つ」)はここまででおよそ1時間。

ここからあっという間にクライマックスへ。

 

次回へつづく。

解説後編▼