2024年1月2日 東国三社を巡ってきました。
その① 鹿島神宮 です。
昨日は大洗磯前神社で初日の出を拝んでから、常陸國二之宮や三之宮を回ってきましたが、今日は常陸國一之宮の鹿島神宮です。
鹿島神宮は東西南北のかなり離れた所に4つの一ノ鳥居がありますが、そのうちの北と東の一ノ鳥居に寄ってから来たので、神宮付近に着いたのは11時半頃になってしまいましたが、周辺は駐車場待ちの車があちこちで列をなしていました。しかし鹿島城山公園の西側の駐車場は余裕で入れました。
階段を上がっていくと、城山公園の西端から北浦に架かる橋や鉄橋が見えます。この鹿島城は平安末期から400年続いた城で、平将門を討った平貞盛の末裔の鹿島氏の居城でした。鹿島氏はその後神宮の神職を世襲して明治維新を迎えました。
城山公園から東へ、鹿島神宮に向かって歩いて行くと、途中から歩行者天国になります。
両側に飲食店や土産屋が並ぶ大町通りには、多くの露店も出ていて大勢の参拝客が行き交っていました。二ノ鳥居をくぐるといよいよ鹿島神宮です。鹿島神宮は常陸國一之宮で、延喜式名神大社の一つです。また東国三社の一つでもあります。
広大な神域には多くの摂社や末社があります。二ノ鳥居から参道をまっすぐ歩いていくと、楼門の手前左奥に末社が並んでいます。
一番奥に境外摂社の沼尾神社と坂戸神社の遥拝所があります。それぞれ4km・2kmと、ここから遠く離れていて、神宮の深い森がある為、目にすることはできません。
遥拝所の左手前に末社がの祠が並んでいます。右から津東西社・祝詞社・熊野社です。
津東西社と向かい合うように建つ須賀社は、牛頭天王の分身とされる素戔嗚尊(天照大神の弟)を祀り、他の三社と比べて屋根が大きく、廻り縁や階もついていて、格上な感じがじます。
再び参道に戻ると、すぐそこに大きな楼門(国重文)があります。寛永11(1634)年に、水戸藩初代藩主徳川頼房によって建てられたものです。
楼門をくぐると、その先に参拝の行列ができていました。この行列は拝殿の前の鳥居をくぐって参拝する人の列ですが、鳥居をくぐらずに参拝できます、とアナウンスがあったので、鳥居の向こう側から入って、大きな賽銭箱の端からお詣りさせて頂きました。
拝殿の後ろの本殿は屋根付きの高い玉垣のせいで、見づらいですが、細かい彫刻や鮮やかな彩色がチラッと見ることができます。本殿や拝殿は元和5(1619)年に徳川2代将軍秀忠が寄進したもので、ともに国重文に指定されています。
参道をはさんで拝殿の向かいに、摂社の高房社があります。まずここをお詣りしてから拝殿に参拝する習わしがあるそうですが、知らずに後回しになってしまいました。拝殿とは90°横を向いていますが、参道を歩いてくると、そのままここでお詣りして、回れ右して拝殿へ行くと鳥居をくぐってお詣りできる、というコースになっているようです。
高房社の横に、拝殿と向かい合うように仮殿(国重文)が建っています。元和4(1618)年に徳川秀忠が奉納したもので、神宮の社殿を造営する際に、神様を一旦この仮殿に移したのですが、本殿に神様が戻った後も摂社・末社の分霊を祀る為に、仮殿はそのまま残されています。
拝殿でお詣りしたのに参道は更に奥に続いています。ここから先の道は砂地になります。
奧参道の左側にさざれ石があり、その向こうにはフェンスに囲まれた鹿園があります。この一帯はかつて鹿島山金蓮院神宮寺・降魔山護国院があった所で、親鸞上人が訪れたと伝えられています。
奧参道を行くと、奥宮に参拝する人の行列ができています。行列の途中に見える社は末社の熱田社で、素戔嗚尊を祀っています。
奥宮は玉垣に囲まれていて、鳥居をくぐらないと参拝できないので、横から入る訳にはいきません。左にある売店はお守りやおみくじを買う人で賑わっていました。
奥宮の横を更に奥へ行く道があります。そこから奥宮に手を合わせておきました。
奥宮から少し行った所に十字路があります。そこにはナマズを押さえつける武甕槌(たけみかづち)大神がいます。武甕槌大神は鹿島神宮のご祭神です。
森の中の道を行くと、また行列ができていました。要石にお詣りする人が並んでいますが、鳥居をくぐらなければ、並ばずに玉垣の外から見ることができます。
要石は磐座であると言われていますが、地震を起こすと言われるナマズを押さえつける為の石でもあります。奈良の三輪山周辺にたくさんある磐座と比べると、だいぶ小ぶりです。
奥宮まで戻って、そこから御手洗池へ坂を下っていきます。坂の下にある茶屋で昼食と思っていましたが、行列ができていたので諦めました。
御手洗池は澄んだ水が湛えられています。鳥居の奧から水が湧いていて、それを汲もうとする人がここでも行列を作っていました。
御手洗池口鳥居をくぐって道路を歩いて行くと鹿島神宮駅に出、更に行くと鹿島城山公園に出られます。
神宮周辺の混雑を抜け出て、鹿島神宮西一ノ鳥居へ行こうと県道242号を西へ向かっていると鎌足神社の看板があったので、寄ってみることにしました。鳥居の先に既に社殿が見えています。
小さな境内の奥に小さな社殿があります。鹿島神宮の混雑に比べ、訪れる人もいない静かな神社です。
藤原鎌足はもとは中臣鎌子と称し、中臣氏は鹿島神宮に仕える神官の家柄でした。この地は鎌子の生誕地と伝えられています。この神社は江戸時代には存在していましたが、いつ創建されたかは不明です。
藤原氏の氏神である奈良春日大社のご祭神の武甕槌大神は、鹿島神宮から白鹿に乗ってきたと言われていて、鹿島と藤原氏の間に深いつながりがあることがわかります。
【東国三社巡り ②:鹿島神宮の四鳥居】パワースポットを巡る夫婦旅 に続く・・・