朝、目が覚めると僕の前には見覚えのある小さな子どもが僕が起きるのを待ち構えていたように立っていた。たぶん10歳か11歳くらいのその少年の右手には、少年が持つにしてはやけにリアルな、黒光りする小さなものが握られていて、それが僕を落ち着かなくさせた。
「なんだい?こんな朝早くに。だいたい、君はどうやってこの部屋に入ってきたんだ?」
眠い目をこすりながら僕が起き上がろうとすると、少年は僕の動きをその小さな左手で制止しながら、小さいけれどはっきりした声でつぶやいた。
「時間とか場所とかは、たいした問題じゃないんだ。あなたには本当に申し訳なく思う。けれど、こうするより他に方法がなかったし、こうしないといろんなものごとが前に進まないんだ。本当はあなたが自分の手でものごとを前に進めなくちゃいけないんだけれど、まぁ、今回は特別で、それで僕がここにきたんだ。悪く思わないでほしい。」
おおよそ10歳だか11歳だかの少年が口にするにはどう考えても似つかわしくない表現だったが、昨晩は遅くまで飲んでいたことと、寝起きでまだぼんやりしている頭でははっきりしたことはなかなか考えられない。時間、ということばが気になって目覚まし時計を探したが、時計はそれがあるはずの場所に存在しなかった。僕はいつも正確な時間に目を覚ますために目覚まし時計の位置にまで常に気を使っているから、そんなことはありえなかった。しかし、頭のぼんやりさと、窓からカーテン越しに入ってくる少しの光から、それが6時前後だと推測できた。
「ねぇ、僕には君の言っていることがよくわからないし、それに…」
と僕が言いかけた瞬間、少年は右手に持っている黒いものを僕の額に向けた。
「何か、目に見えることをしないと、目に見える変化は起こりにくいんだ。」
パン、という乾いた音を聞くか聞かないかのうちに僕はまた深い眠りに落ちた。
もういちど目が覚めたとき、目覚まし時計はいつもあるはずの場所で静かに時を刻んでいた。時間は8時だった。それが朝の8時なのか、夜の8時なのかわからない。ただ、二日酔い特有のけだるさと、頭を貫かれたような鋭い感覚が僕を支配しているのだけがわかった。
どこまでが現実で、どこまでが非現実なのかはっきりしない。ただ幸いなことに、今日は土曜日のはずだ。だから、会社に行く必要はない。今が朝の8時でも夜の8時でも大差ない、と言う事実は僕を少し落ち着かせた。
窓を開けると、まぶしいばかりの朝日が全身を覆った。道を行く人々は、土曜日特有の、仕事の疲れと休日の高揚感を混ぜたような表情でそれぞれが目指す場所へ向かっていた。なにかいつもと異なるような違和感を受けたが、これから始まる大型連休への期待のほうが上回り、僕は窓を閉めて洗面所へ行って顔を洗い、ひげを剃った。
連休だからといって、特に予定があるわけではない。流れに身を任せて、好きなようにするだけだ。簡単な朝食をとってできたての朝刊にざっと目を通した僕は、とりあえず駅の近くにあるコーヒー・ショップでドーナツとコーヒーを食べながら、読みかけの小説の続きにとりかかった。これから何も予定がない、という状態が僕は好きだ。誰と会う必要も無く、愛想笑いをする必要も無い。その気になればひと言も喋る必要だって無い。そうだ。口はものを食べるためにあるべきなのだ。ことばを発するのは副次的な産物であって、そんなものは表情とかしぐさに任せておけばいい。そうやってすべての人が必要以上のことばを話さなくなったら、どんなにか素敵だろう。
変化に気付いたのは、コーヒーを飲んだ帰りだった。みんな、帽子をかぶっている。それも、冬にかぶるような厚手のニット帽だ。季節は春の終わりから夏に向かうところで、そんなに深く帽子をかぶったりしたら暑くて仕方ないように思うが、道行く人はみな一様に帽子をかぶっていた。それで、僕は反射的に自分の額に手をやってみた。額を探りながら、早朝に自分に起こったことを思い出してみた。
額に、何かがある。もしくは、何かがない。何かがあるような感触を受けるが、同時に、もとあったものがなくなっているような感じもする。
急いで近くのコンビニエンス・ストアで洗面所を借り、鏡で自分の顔を見てみた。
その年の夏は、厚手のニット帽がよく売れた。
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んー、まだ雑ですね。まだまだ、降りるとこが深くない。