以前も少しだけ記載した、
ある修行者が修行を諦めてしまった話があるので
抜粋いたします。
過去にある修行者が、この寺に来たばかりの二ヶ月ほど経った時に
他人の修習の様子を聞き始めた。
そして多くの人が修習に成功しているのに、
自分は禅相すら見えないということを知って
自分の修習への態度・出家の時間の長短・
現世と過去世の禅ハラミツがどうなっているのかを反省することなく
精進する気持ちが失せてお寺を去ったということがある。
故に僧院で修習したいと欲する心のある修行者は
先に僧院の本にある安那般那念の簡単な修習次第と方法に従って
自国で修習に努力し、禅相が見えるようになってから引き続き修習し
目を瞑れば即禅相が現れ、一時間または二時間以上
禅相が強固で安定して明るく光り続けるまでに修習するとか
または何ヶ月か一心に修習し、定力を深め
(深ければ深いほど良いが、執着してはならない)
その後で僧院で出入息およびその他の業処を学ぶのがよいと思われる。
修習が上手くいかないときに、やる気を無くさないようにということが書かれています。
同じ時期に修行を始めても、元々備わっている集中力の高さなどに個人差があるため
進行に違いは生じてくるかと思います。
自他の嫉妬などを避けるために、自己の修習の成果を軽はずみに話さないようにと
仏陀は教えていたとのことです。
一般の人達に瞑想を教えてくれる施設などありますが(日本にもあります)
修行者同士の会話などが禁止されていたりしますね。
仏陀の時代は身分制度や食糧問題が厳しかったこともあって
仏陀の門下生になったほうが生活環境が安定するという理由で
門下生になった人もいたとのことです。
資質が高い人もそうでない人も、やる気が高い人もそうでない人もいたとのことです。
仏典に悟りに向かう努力が重要という逸話があります。
修行者が「悟りに達しないまま死んでしまう修行者はどうなるのでしょう?」
と尋ねたところ
仏陀は「こちらへ向かって伸びている大樹が倒れたらどうなるか。
向こう側ではなく、こちら側へ倒れるだろう。」と答えたとのことです。
一日一日の成果は目に見えなくて分かりにくいですが、
努力した・練習した分は少しづつ進んでいて
長い目で見ればいつか成果が現れるということかと思います。
以前、僕もヘルニアで物を持ち上げたりするのが辛かったので
動きを補助するために筋トレを始めたのですが
一日一日の成果は目に見えないですが、
やり続けた現在、だいぶ物を持つのが楽になった実感があります。
今回の内容に付随する仏陀の言葉になります。
悟りに達しようとして達せられないからといって
苦しむのは愚かであり、また必要無いことである。
悟りの中に迷いは無いのであるが、
限りない長い時間に、外のチリに動かされて、妄想を抱き、
その妄想によって迷いの世界を作り出していたのである。
(シュリョウゴン経)
*外のチリは煩悩を指しています。
苦悩を無くす為に瞑想を始めて、瞑想が上手くいかなくて苦悩するのは
本末転倒という意味もあります。
もう一つ禅の言葉を書きます。
「啐啄の機」(そったくのき)
絶妙のタイミングで師弟の出逢いを得るという言葉になります。
自分が学びたいと思ったタイミングで良い師匠と出会うことがあるので
このチャンスを逃さないようにという意味になります。
やるべき時が来たと感じたらやりましょうということになります。
瞑想に限らず仕事などにも当てはまる言葉なのですが、
出逢った時に自分が努力するかどうかは自分次第になります。
逆に自分が熟練した際には、自分が師匠側として出逢うこともあるので
弟子を上手く導いてあげるという意味もあります。