以前記載した瞑想全体の流れの、

技術面(修習のほう)の「取相と似相」の説明部分を

全文詳細に抜粋します。

 

 一段階目

  ↓    呼吸に関する説明の抜粋①~③

  ↓    禅相生起(今回の抜粋部分)

  ↓     ↓ 以降禅相は生起したまま

  ↓     ↓ 心臓意門の似相

 二段階目 

  ↓

 ・・・四段階目まで続く

 

全体で見るとこのようになります。

技術面(修習)内の「呼吸に関する説明の抜粋」の続きということになります。

 

用語

安般念・・四段階目まである瞑想の種類のこと

      一般的に呼吸に集中する瞑想と言うと、これになります

 

禅相(取相・似相)・・瞑想で集中が高くなった際に、生起する感覚

   取相が光ると似相となりますが、似相という名前は光全般に使われています。

 

↓ここから抜粋になります。

 出だしは少し、呼吸解説の抜粋と被っています。

 

故意に呼吸を変化-明確化-させてはならない。

もし、そのようにするなら定力を強化・養成することは不可能である。

ただ呼吸を如実に知覚すること。

それだけが大切なのであり、もし呼吸が不鮮明であるならば、

最後に呼吸を見失った箇所で(呼吸)を待っていればいいのである。

このようにして「念」と「慧」を運用するならば、

呼吸が再度生起することを発見するであろう。

安般念の修習によって出現する禅相は、人によってそれぞれ異なっている。

 

ある種の人々には、快適な感覚が出現する。例えば、

綿花(取相)

広げた綿花(取相)

気流(取相)

暁の星のような明るい光(取相と似相)

輝くルビー(似相)

輝く真珠(似相)

 

ある種の人々には粗雑な感覚として出現する。

綿の木の幹(取相と似相)

とがった木(取相と似相)

長い紐、細い紐(取相と似相)

花輪(取相と似相)

煙(取相と似相)

蜘蛛の巣(取相と似相)

雲(取相と似相)

蓮の花(取相と似相)

馬車の車輪(取相と似相)

月(取相と似相)

太陽(取相と似相)

 

綿花のような純白の禅相の大多数は取相である。

なぜならば、大多数の取相は不透明であり、あまり光っていないからである。

禅相が暁の星のように燦然としているか、または透明性を帯びているとき、

これは似相である。

禅相がルビーまたは真珠のようで明るくないとき、それは取相であり、

それが輝きを増したり、燦然とするならば似相である。

その他の形状と色彩は、この方法を応用すれば理解できる。

 

異なった人生には、異なった形態の禅相が生じる。

というのは禅相とは「想」から生じるからである。

それぞれの修行者の呼吸に対する異なる「想」が

異なる禅相を生じせしめるのである。

安般念そのものは一種の業処(瞑想の方法)にすぎないが、

各人のそれぞれの異なった想によって、異なった禅相が生じてくるのである。

修行がこの段階に来たなら一つ重要なことがある。

それは禅相と遊んだり戯れてはいけないということ、

禅相を消失させないこと、故意にこれらの形状を変えないことである。

もし、このようなことをすれば定力は停滞し

それ以上、強化・成長することができなくなる上に

禅相が消滅してしまうかもしれない。

そのため、初めて禅相が出現したとき注意を呼吸から禅相に移してはいけない。

そのようなことをすれば、それが消失してしまうことに気がつくに違いない。

もし禅相がすでに安定していることを自覚し、

かつ心も無理なく呼吸から離れないようであるならば、

この時、心を禅相に向けて専注させる。

もし無理矢理心を禅相から引き離すようなことがあると

定力を失う可能性があるので注意すること。

 

もし禅相が、あなたの顔の先、遠くの方に出現したならば、

それに注意を向けてはいけない。

なぜならば、そのようなことをすると禅相はいずれ消失する可能性があるからである。

この場合、

禅相に注意を向けないで引き続き呼吸の接触点だけを専注し続けるならば

禅相がその箇所で生起し、持続することを発見するであろう。

もし禅相が呼吸の接触点で出現し、かつ安定しているなら

この禅相は呼吸と等しく、かつ呼吸が禅相と等しいというふうに理解して良く

この時、呼吸を忘れて、ただ禅相のみに専注するのがよい。

このように注意力を呼吸から禅相に転移できるならば、修行は進歩するであろう。

注意力をもっぱら禅相に注ぐとき、それはますます白くなるということを発見する。

それが綿花の如くに白くなったとき、これが正真正銘の「取相」である。

修行者は平静を保ちながら白色の取相を、

一時間、二時間、三時間またはそれ以上保持するように決意する。

そしてもし、取相に対して一時間または二時間専注することができるならば

やがてそれが清らかなもの、または光、または非常に明るいものに

変化することに気がつくであろう。

これを「似相」という。

この段階に至れば、心を似相に専注することを決意すると同時に

専注を一時間、二時間、三時間または長時間の保持に成功するまで修習を続ける。

 

禅相に関する行程は、各人で想・感覚が異なるとなっているので、

共通する説明が難しい箇所かと思います。

個人的な感覚ではなく、

なるべく文面の内容に沿って難しくないように書いてみようと思います。

 

呼吸をある程度(集中状態の)目安にしていただくと分かり易いかもしれません。

静かになった呼吸を不断に知覚するというのは、

呼吸から集中が逸れずに認識し続けられるという意味に加えて、

息全体の中で、吸い始めや吐き終わりなどのほうが区切りで知覚しやすく

中間の行程は見失うこともあると思うので、

この知覚しずらい箇所も(静かになった息に対しても)不断に認識し続けられるくらいに

集中力と気づきが上がっているという意味もあると思います。

 

加えて、静かになった息が再起(再発見)するというのは、

息自体が静かになった後、再度荒くなるということではなくて、

自分の集中状態が、日常側から瞑想側に一歩フィルターを乗り越えて深くなった

と捉えていただくといいと思います。

味覚で例えると、同じ物を何気なく食べるのと、目を閉じて集中して食べるのとで

味の明確さが変化すると思います。

瞑想開始からしばらくして禅相の生起前後に、呼吸が静かになって知覚しにくくなった後

意識が一歩内側に入って集中状態が高まったことによって

息がクリアー(鮮明)に感じられるようになった状態と考えていただければ

いいかと思います。(息自体は禅相生起の直前と直後で大差は無い。)

 

集中状態が高まると、身体全体の感覚に変化が生じてくると思います。

(一般的には宙に浮いているような感覚が多いのではないかなと思います。)

この状態になるまでは、息に集中し続けて

ここから身体全体の感覚のほうに集中を移すといいと思います。

身体全体よりも少し外側を意識して集中するといいです。

(感覚に集中を移しても、自然と息にも集中が向きます。全体に集中が向く感じです。)

この状態で、もし集中が他事に逸れてしまった場合は

もう一度息に集中し直してから、身体全体の感覚に集中を移すのがいいと思います。

精進力と集中力が上がると、この身体全体の感覚が徐々に外側に広がっていくと思います。

もし、集中があまりにも逸れてしまったり、感覚を見失ってしまう場合は

過去記事の「技術面(修習)七覚支」の内容を見直してみていただけると

よいかなと思います。

 

*上記の抜粋の説明は、

 ある程度熟練した方が自分の行程を見直して書いていると思いますので

 すぐに光などが知覚できなくても気にしなくても大丈夫です。

 身体の変化した感覚に集中を保持できるように続けていれば

 いずれ光も知覚できるようになってくると思います。

 

*各人で異なる想(相)の例がいくつも挙がられていることからも、

 お寺などでは他者の相を知覚して指導してくれる師がいる所もあると思います。

 

*熟練した方は目を閉じた瞬間から似相が出現すると記載されています。

 最初の頃は禅相生起に時間がかかるかもしれませんが

 練習次第で時間は短縮できるようになります。

 似相に喜の感覚が含まれているため、禅相を生起保持できるようになれば

 ネガティブ感覚を抑制しやすくなります。

 

来週の更新が不定期になると思います。よろしくお願いします。