🌿補遺①
酒と御霊
― あなたは何に満たされているのか ―
「レムエルよ、王たる者にふさわしくない、酒を飲むのは王たる者にふさわしくない、濃い酒を求めるのは君たる者にふさわしくない。彼らは酒を飲んで、おきてを忘れ、すべて悩む者のさばきを曲げる。」
― 箴言31:4–5
レムエルの母は、
王となった息子に、
酒について警告しました。
しかし、
この言葉を、
単純に、
「酒を飲んではならない」
という話だけで終わらせてしまうと、
この御言葉の中心を、
見落としてしまうかもしれません。
なぜ、
王は酒を求めてはならないのでしょうか。
理由は、
次の節に書かれています。
「おきてを忘れ」
そして、
「悩む者のさばきを曲げる」
からです。
問題の中心にあるのは、
酒そのものだけではありません。
王の判断を支配するものは何か。
そこが問われています。
■ 聖書は酒そのものを単純に悪とはしていない
まず、
ここは丁寧に区別しておきたいと思います。
聖書は、
ぶどう酒そのものを、
一律に悪として描いているわけではありません。
詩篇104篇15節では、
ぶどう酒が、
「人の心を喜ばせる」ものとして語られます。
カナの婚礼では、
イェシュアご自身が、
水をぶどう酒へ変えられました。
一方、
聖書は、
酩酊について、
繰り返し警告しています。
ですから、
問題は、
単に、
「酒という物質に触れたかどうか」
だけではありません。
重要なのは、
「何によって支配されているのか」
ということです。
王は、
判断を失ってはならない。
なぜなら、
その判断によって、
他人の人生が左右されるからです。
■ 酒は王に「忘れさせる」
箴言31章で、
酒の危険性を説明するために使われている言葉があります。
それが、
「忘れる」
です。
「彼らは酒を飲んで、おきてを忘れ」
王が忘れるものは、
単なる予定ではありません。
おきて。
つまり、
王が正しい判断をするための基準です。
そして、
基準を忘れれば、
その結果として、
弱い者の権利が曲げられる。
ここに、
非常に重要な流れがあります。
酔う。
↓
忘れる。
↓
判断を誤る。
↓
弱い者が傷つく。
王の酩酊は、
王だけの問題では終わりません。
■ では、人を酔わせるものは酒だけなのか
ここからは、
本文から広げた、
象徴的な黙想になります。
私たちは日常でも、
こんな言葉を使います。
「権力に酔う。」
「成功に酔う。」
「勝利に酔う。」
「自分に酔う。」
もちろん、
これらは箴言31章に直接書かれている意味ではありません。
しかし、
酒による酩酊が、
人の判断を曇らせるという原理から、
私たちは考えることができます。
人間を酔わせるものは、
酒だけではないのではないか。
権力。
富。
人気。
名声。
知識。
宗教的地位。
自分の正しさ。
さらには、
自分自身の聖書理解さえ、
それによって自分を高くするなら、
人を「酔わせるもの」になり得ます。
だから、
王への問いは、
私たち自身への問いにもなります。
「あなたは今、何に酔っているのか。」
■ 「酒に酔ってはいけない」
ここで、
新約聖書の言葉が響きます。
「酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされて、」
― エペソ5:18
ここには、
非常に印象的な対比があります。
酒に酔うこと。
そして、
御霊に満たされること。
もちろん、
これは、
「酒と聖霊が同じものだから比較されている」
という意味ではありません。
また、
聖書全体で、
「酒=聖霊」
という固定された象徴が存在すると、
断定することもできません。
しかしパウロは、
ここで明確に、
二つの「満たされ方」を対比しています。
何によって、
自分が満たされているのか。
何によって、
自分の行動が方向づけられているのか。
何によって、
自分の口から言葉が出てくるのか。
■ 酒に満たされた口と、御霊に満たされた口
そして、
エペソ5章は、
「御霊に満たされなさい」
で文章を終えません。
その直後には、
詩と賛美と霊の歌をもって語り合い、
主に向かって歌い、
感謝することが続きます。
つまり、
何に満たされるかによって、口から出るものまで変わってくる。
これは、
今回の箴言31章と、
非常に美しく響き合います。
箴言31章でも、
最初に、
酒について語られます。
そして最後には、
王の「口」について語られます。
「あなたは……口を開くがよい。」
何に満たされているか。
それは、
やがて、
何を語るか
にも現れてくるのです。
■ 「この人たちは新しい酒に酔っている」
そして、
さらに興味深い場面があります。
使徒行伝2章。
五旬節の日、
弟子たちは聖霊に満たされ、
他国の言葉で、
神の大いなる御業を語り始めました。
しかし、
それを見た一部の人々は、
こう言いました。
「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ。」
― 使徒2:13
ここには、
不思議な対比があります。
外から見ると、
「酔っている」
ように見えた。
しかし実際には、
御霊に満たされていた。
そして、
その違いは、
やがて実によって現れます。
酒によって判断を失う王は、
おきてを忘れ、
弱い者の権利を曲げる。
しかし、
御霊に満たされた弟子たちは、
神の大いなる御業を語り始める。
同じ「満たされる」という言葉のイメージを通して、
まったく違う方向が見えてきます。
■ 忘れさせるものと、思い起こさせる方
そしてここで、
もう一つ、
非常に興味深い対比があります。
箴言31章では、
酒によって、
王は、
「おきてを忘れる」
危険にさらされます。
一方、
イェシュアは、
聖霊について、
こう語られました。
「助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。」
― ヨハネ14:26
もちろん、
箴言31章が、
直接この御言葉を預言しているわけではありません。
しかし、
聖書全体を読み合わせる時、
非常に美しい対照が見えてきます。
酒は、王におきてを忘れさせる。
しかし、
御霊は、イェシュアの言葉を思い起こさせる。
一方は、
判断の基準を失わせる。
もう一方は、
御言葉へ立ち返らせる。
一方は、
自分を見失わせる。
もう一方は、
真理へ導く。
この対比は、
私たちに大切な問いを投げかけます。
私を満たしているものは、御言葉を忘れさせているのか。
それとも、
御言葉を思い起こさせているのか。
■ 「満たされる」とは、自分を失うことなのか
ここで、
さらに考えてみたいことがあります。
酒に酔うと、
人は、
本来なら持っているはずの判断力を失っていきます。
しかし、
御霊に満たされるとは、
人格や判断力を失うことなのでしょうか。
聖書を見る限り、
そうではありません。
御霊の実には、
愛、
喜び、
平和、
寛容、
慈愛、
善意、
忠実、
柔和、
そして、
自制
があります。
― ガラテヤ5:22–23
これは重要です。
御霊に満たされることは、
自分を制御できなくなることではありません。
むしろ、
御霊の実の中には、
自制
がある。
酒による酩酊が、
自己統制を弱める方向へ働くのに対して、
御霊の働きは、
人を神の御心に従って歩ませる方向へ導きます。
だから、
「御霊に満たされる」とは、
人格を失うことではありません。
自分自身が、神の御心の中で正しく整えられていくこと
なのです。
■ 王よ、何に満たされているのか
ここで、
レムエルの母の言葉へ戻ります。
王には、
力があります。
王には、
口があります。
王には、
判断する責任があります。
だから、
王は、
何にでも満たされてよいわけではない。
自分を酔わせるものによって、
判断を曇らせてはいけない。
神の定めを忘れてはいけない。
苦しむ者を忘れてはいけない。
そしてこれは、
エクレシアにも、
私たち一人ひとりにも、
象徴的な問いとして響いてきます。
私たちは、
何によって満たされているでしょうか。
恐れでしょうか。
怒りでしょうか。
自分の正しさでしょうか。
人から認められたいという思いでしょうか。
終末についての情報でしょうか。
聖書の知識でしょうか。
それとも、
神の御霊でしょうか。
■ 満たされたものが、やがて口から出る
今回の箴言31章は、
酒から始まり、
口へ向かいます。
だから、
この流れを、
一つの問いとして受け取ることができます。
「何に満たされ、何を語っているのか。」
自分に酔っているなら、
自分を語るでしょう。
怒りに満たされているなら、
怒りが口から出るでしょう。
恐れに満たされているなら、
恐れを広げるでしょう。
しかし、
御霊に満たされるなら、
私たちの口は、
神を賛美し、
真理を語り、
人を生かし、
そして、
声なき者のために、
開かれていくはずです。
だから、
レムエルの母の戒めは、
単なる禁酒の話を越えて、
私たちへ問いかけてきます。
王よ。
あなたは、何に酔っているのか。
あなたは、何に満たされているのか。
あなたを満たしているものは、御言葉を忘れさせているのか。
それとも、
御言葉を思い起こさせているのか。
そして、
あなたの口から、
今、
何があふれ出しているのか。
酒ではなく、
怒りでもなく、
権力でもなく、
知識への陶酔でもなく、
自分自身でもなく――
御霊に満たされよ。
そして、
その御霊によって、
覚えよ。
語れ。
そして、
声なき者のために、
口を開け。