🌿補遺②
王には忘れる自由がない
― 力を持つ者に託された記憶 ―
「彼らは酒を飲んで、おきてを忘れ、すべて悩む者のさばきを曲げる。」
― 箴言31:5
なぜ、
レムエルの母は、
王が酒を飲むことを、
これほど警戒したのでしょうか。
その理由として、
一つの言葉が置かれています。
「忘れる」
王が酒を飲み、
酔い、
判断が曇り、
おきてを忘れる。
すると、
その結果として、
「悩む者」の権利が曲げられる。
つまり、
王が何かを忘れることは、
王一人だけの問題ではありません。
王が忘れた時、誰かが傷つく。
ここに、
王という立場の重さがあります。
■ 人には、忘れたいことがある
人間には、
忘れたいことがあります。
苦しかったこと。
傷ついたこと。
失敗したこと。
悲しかったこと。
できるなら、
考えたくないこと。
箴言31章6–7節にも、
苦しむ者が、
酒によって、
一時的に自分の苦しみを忘れる姿が描かれています。
「彼らは飲んで自分の貧乏を忘れ、その悩みをもはや思い出さない。」
しかし、
王については、
正反対のことが語られます。
王は、忘れてはいけない。
なぜでしょうか。
王には、
自分以外の人々について、
覚えていなければならない責任があるからです。
■ 王の記憶の中に、誰かの権利がある
王には、
権力があります。
決定する力。
裁く力。
命令する力。
守る力。
そして、
その王の前には、
自分では十分に声を上げることのできない者がいます。
貧しい者。
乏しい者。
社会的な力を持たない者。
訴えても、
聞いてもらえない者。
だから、
王が忘れてしまえば、
その人たちは、
誰にも覚えてもらえなくなるかもしれない。
ここに、
箴言31章4–9節の流れがあります。
王よ、
酔うな。
なぜなら、
忘れるから。
忘れるな。
なぜなら、
正しい裁きが曲がるから。
そして、
8節。
「あなたは黙っている人のために……口を開くがよい。」
つまり、
王の記憶と、
王の口は、
つながっています。
覚えているから、口を開く。
忘れないから、守ることができる。
■ 聖書には「忘れるな」が繰り返される
この「忘れるな」という命令は、
箴言31章だけのものではありません。
申命記では、
イスラエルに対して、
何度も繰り返されています。
「あなたは心をつくして主を覚えなければならない。」
そして特に印象的なのが、
申命記8章です。
イスラエルが荒野を歩き、
飢えを経験し、
マナによって養われ、
約束の地へ入ろうとする時、
モーセは警告します。
興味深いことに、
最大の警告は、
荒野で飢えている時だけに向けられているのではありません。
むしろ、
満ち足りた後
なのです。
「あなたは食べて飽き、麗しい家を建てて住み、牛や羊がふえ、金銀が増し、あなたの所有物がみな増し加わる時、心に高ぶり、あなたの神、主を忘れないようにしなければならない。」
― 申命記8:12–14参照
これは、
非常に重要な警告です。
人は、
苦しい時だけ、
神を忘れるのではありません。
むしろ、
満ち足りた時に忘れる。
■ 荒野では祈り、宮殿では忘れる
荒野では、
水がなければ生きられません。
食物がなければ生きられません。
明日の保証もありません。
だから、
神を求める。
しかし、
倉が満ち、
家が建ち、
富が増え、
自分の力で何でもできるように思えてくると、
人は、
こう言い始めます。
「わたしの力とわたしの手の働きで、わたしはこの富を得た。」
― 申命記8:17参照
これこそ、
「忘れる」ということの恐ろしさです。
神の存在を、
頭から完全に消してしまうことだけが、
神を忘れることではありません。
礼拝を続けていても、
聖書を読んでいても、
口では神の名を語っていても、
「これは自分の力で得た」
と思い始めた時、
心はすでに、
神を忘れ始めているかもしれません。
■ 力を持つほど、「覚える」必要がある
だから、
王には、
特に「記憶」が必要です。
王は、
宮殿に住みます。
食物があります。
酒があります。
人々が仕えます。
命令すれば、
誰かが動きます。
つまり、
王は、
自分が弱かったことを、
忘れやすい立場にいます。
だからこそ、
聖書の王には、
神の律法から離れないことが求められました。
申命記17章では、
王が律法の書を手元に置き、
生涯それを読むよう命じられています。
その目的の一つは、
非常に印象的です。
「その心が兄弟を見下して高ぶることのないため」
― 申命記17:20参照
王は、
律法を知るためだけに、
御言葉を読むのではありません。
自分も兄弟の一人であることを、忘れないために読む。
王冠をかぶっても、
被造物であることは変わらない。
権力を持っても、
神の下にいることは変わらない。
これを、
王は毎日、
思い出さなければならないのです。
■ 王冠は、人を「別の人間」にはしない
ここで、
前回の学びともつながります。
レムエルの母は、
王に向かって、
最初に、
「わが子よ」
と呼びました。
王冠をかぶっていても、
母の前では、
「わが子」。
これは、
象徴的に考えるなら、
とても深い言葉です。
王冠をかぶった瞬間、
人間そのものが、
別の存在へ変わるわけではありません。
弱さもある。
誘惑もある。
欲望もある。
間違えることもある。
だから、
王ほど、
自分が人間であることを、
忘れてはいけない。
そして、
神の前では、
自分もまた、
支配される側の者であることを、
忘れてはいけないのです。
■ 「あなたも奴隷であったことを覚えよ」
申命記には、
さらに繰り返される言葉があります。
「あなたがエジプトの地で奴隷であったことを覚えなさい。」
イスラエルが、
寄留者や、
孤児や、
寡婦を扱う時、
神は、
彼ら自身の過去を思い起こさせました。
なぜでしょうか。
自分が弱かった時を覚えている者は、弱い者を見る目が変わるからです。
自分も、
かつて助けを必要としていた。
自分も、
かつて自由ではなかった。
自分も、
自分の力だけでは、
エジプトから出られなかった。
それを忘れれば、
救われた者が、
今度は別の人を虐げる側へ回ることがあります。
だから神は、
何度も言われます。
覚えよ。
■ 救われた記憶が、他者への憐れみになる
これは、
私たちにも非常に大切なことです。
自分が、
どこから救われたのか。
どれほど赦されたのか。
どれほど支えられてきたのか。
それを忘れれば、
人は、
他人に厳しくなっていきます。
「どうしてこんなこともできないのか。」
「なぜもっと信仰を持てないのか。」
「なぜ変われないのか。」
しかし、
自分自身も、
神の憐れみによって、
ここまで運ばれてきたことを覚えているなら、
他人を見る目は変わります。
記憶は、憐れみを生む。
だから、
聖書における「覚える」は、
単なる情報保存ではありません。
生き方を決める記憶
なのです。
■ 忘れることは、「見えなくする」ことでもある
ここからは、
箴言31章から広げた黙想です。
王が、
貧しい者を忘れる。
声なき者を忘れる。
苦しんでいる者を忘れる。
それは、
その人たちが、
突然存在しなくなることではありません。
王の視界から消える
ということです。
宮殿の中では、
貧しい者の生活が見えない。
宴会の席では、
飢えている者の声が聞こえない。
力を持つ者の周囲には、
自分に都合のよい言葉だけが、
集まりやすくなる。
だから、
王は意識して、
覚えなければならない。
見えなくなった者を。
聞こえなくなった声を。
■ 神は「忘れられた者」を忘れない
しかし、
聖書を見ると、
人間社会から忘れられた人々を、
神は忘れておられません。
エジプトで、
イスラエルの叫びを聞かれた神。
荒野のハガルを見られた神。
寡婦と孤児を顧みられる神。
貧しい者の叫びを聞かれる神。
だから、
王が、
声なき者のために口を開くということは、
単なる人道的な優しさだけではありません。
神が見ておられる者を、王も見る。
神が忘れておられない者を、王も忘れない。
それが、
神の下で治める王の姿なのではないでしょうか。
■ エクレシアにも「忘れる自由」はない
そして、
ここからは、
終末を生きるエクレシアへの、
象徴的な適用です。
箴言31章が、
直接エクレシアを預言していると、
断定するわけではありません。
しかし、
キリストに属する共同体は、
この王の教えから、
大切なことを学べます。
エクレシアも、
忘れてはいけません。
自分たちが、
何によって救われたのか。
誰の血によって、
贖われたのか。
誰の憐れみによって、
立っているのか。
そして、
自分たちの周囲にいる、
声なき者を。
終末について、
どれほど詳しくなっても、
預言について、
どれほど語れても、
世の中の出来事を、
どれほど分析できても、
目の前で苦しんでいる人を忘れてしまったなら、
何か大切なものを、
見失っているのかもしれません。
■ 聖餐もまた、「覚える」ためにある
そして、
イェシュアが、
最後の晩餐で語られた言葉を思い出します。
「わたしを記念するため、このように行いなさい。」
― ルカ22:19
ここでも、
「覚える」ということが、
信仰の中心に置かれています。
これは、
単に過去の出来事を、
頭の中で思い出すだけではありません。
パンを裂き、
杯を受けながら、
自分が何によって生かされているのかを、再び思い出す。
私は、
自分で自分を救ったのではない。
私は、
自分の力だけで、
ここに立っているのではない。
私は、
贖われた者である。
この記憶が、
私たちを、
高ぶりから守ります。
■ 王よ、覚えよ
箴言31章で、
王に禁じられているのは、
単に酒だけではありません。
その酒によって、
「忘れること」
が警戒されています。
だから、
逆から言えば、
王に求められているのは、
覚えていること
です。
神を覚える。
御言葉を覚える。
自分が何者であるかを覚える。
自分がどこから救われたのかを覚える。
そして、
声なき者を覚える。
王には、
忘れる自由がない。
なぜなら、
王の記憶の中に、誰かの権利が置かれているからです。
自分が満ち足りた時ほど、
覚えよ。
自分の力が増した時ほど、
覚えよ。
人から認められた時ほど、
覚えよ。
聖書の知識が増した時ほど、
覚えよ。
自分の言葉に影響力が生まれた時ほど、
覚えよ。
あなたもまた、恵みによって生かされている者であることを。
そして、
あなたの視界から消えそうになっている者を、
覚えよ。
なぜなら、
神は、
その人を、
忘れておられないからです。
そして、
覚えたなら――
次は、
その人のために、
口を開け。