補遺④閉じる口と開く口 | Truth Hawkのblog

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🌿補遺④

閉じる口と開く口

― 沈黙する知恵、語る勇気 ―


「もしあなたが愚かであって自分を高くし、あるいは悪事を計ったならば、あなたの手を口に当てるがよい。」
― 箴言30:32

そして、
そのすぐ後に続く箴言31章では、
こう語られます。

「あなたは黙っている人のために、すべてのみなしごの訴えのために、口を開くがよい。」
― 箴言31:8

口を閉じよ。
そして、
口を開け。

正反対の命令です。

しかし、
この二つの言葉を並べてみると、
箴言30章から31章へ流れる、
非常に美しい知恵が見えてきます。

問題は、
「話すこと」なのではありません。

問題は、
「黙ること」でもありません。

問われているのは、
何のために口を使うのか。
ということなのです。

■ 自分を高くする時には、口を閉じる


箴言30章32節で、
口を閉じるべき場面として挙げられているのは、
まず、
「自分を高くする時」
です。

人は、
自分を認めてもらいたい。
自分の正しさを証明したい。
自分の知識を見せたい。
自分の功績を語りたい。

そして時には、
相手に勝つために、
言葉を使います。

しかし、
アグルは言います。

「手を口に当てよ。」

言えるからといって、
言わなければならないわけではない。

正しいことを知っているからといって、
いつでも、
それを相手へ突きつけなければならないわけでもない。

自分を大きくするために、
口が動き始めたなら、
一度、
その口を閉じる。

ここに、
知恵があります。

■ しかし、弱い者の前では口を開く


ところが、
箴言31章に入ると、
命令が逆転します。

「口を開くがよい。」

なぜでしょうか。

今度は、
口を開く目的が、
自分ではない
からです。

声なき者。
貧しい者。
乏しい者。

自分だけでは、
十分に権利を訴えることのできない者。

その人たちのために、
王は、
口を開かなければならない。

ここに、
箴言30章と31章をつなぐ、
一本の線が見えてきます。

自分を高くするためには、口を閉じる。
弱い者を守るためには、口を開く。

■ 知恵とは「黙ること」ではない


私たちは、
「沈黙は金」
という言葉を聞くことがあります。

確かに、
黙るべき時があります。
伝道の書3章7節にも、
「黙るに時があり、語るに時がある。」
とあります。

しかし、
聖書的な知恵とは、
いつでも黙っていることではありません。

沈黙そのものが、
美徳なのではない。

場合によっては、
沈黙が罪を放置することさえあります。

誰かが傷つけられている。
不正が行われている。
助けを求める声がある。

それを知りながら、
「私は争いたくないから」
という理由だけで黙るなら、
その沈黙は、
本当に平和なのでしょうか。

■ 平和と「波風を立てないこと」は同じではない


ここは、
大切な区別です。

聖書が語る平和は、
単に、
問題が表面化していない状態ではありません。

誰か一人が、
すべてを我慢することで、
静かになっているだけなら、
そこに音はなくても、
本当の平和があるとは限りません。

傷ついている人が、
「これ以上言っても無駄だ」
と思って黙った。

周囲は、
「問題は解決した」
と思った。

しかし実際には、
問題が、
見えなくなっただけかもしれない。

だから、
「波風を立てないこと」と、「平和をつくること」は、必ずしも同じではありません。

時には、
本当の平和へ向かうために、
誰かが、
口を開かなければならないことがあります。

■ では、いつ口を開けばよいのか


ここで、
難しい問題が出てきます。

「正しいことなら、
何でも言えばよいのか。」

そうではありません。

箴言31章9節には、
条件があります。

「口を開いて、正しいさばきを行い」

つまり、
口を開く前に、
正しく判断すること
が必要です。

前の補遺で見たように、
一方の声だけを聞いて、
すぐに誰かを断罪することではありません。

事実を確かめる。
双方の言葉を聞く。
自分自身の感情も点検する。

そして、
本当に、
弱い者の権利が曲げられているのかを見る。

だから、
聖書的な「口を開く」は、
衝動的な発言ではありません。

むしろ、
よく聞いた者が、必要な時に語ること
なのです。

■ ヤコブは「聞くこと」を先に置いた


ヤコブ書には、
非常に有名な言葉があります。

「人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。」
― ヤコブ1:19

順番が興味深いと思います。

聞く。
そして、
語る。

私たちは、
逆になりやすい。

聞く前に、
語る。

相手の話が終わる前に、
答えを考える。

何が起こったのかを確かめる前に、
自分の意見を出す。

しかし、
箴言31章の王には、
「正しいさばき」が求められています。

だから、
王の口は、
王の耳と切り離せません。

正しく口を開くためには、まず正しく聞かなければならない。

■ 「閉じる口」は、弱さではない


そして、
ここで前回学んだ、
「力とは何か」
という問いに戻ります。

黙っていると、
負けたように感じることがあります。

言い返さなければ、
弱いと思われる。

自分の正しさを説明しなければ、
誤解されたままになる。

しかし、
本当の力とは、
いつでも反撃できることなのでしょうか。

箴言16章32節は、
こう語ります。

「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる。」

言える。
しかし、
言わない。

反撃できる。
しかし、
反撃しない。

それは、
言葉が出てこないのではありません。

言葉を治めている。

だから、
必要な沈黙は、
弱さではありません。

それもまた、
力なのです。

■ イェシュアは、沈黙することのできる王だった


ここで、
イェシュア・ハ・マシアハを見ます。

イザヤ53章7節には、
苦難の僕について、
「ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。」
とあります。

そして、
イェシュアの受難において、
この姿と響き合う場面が現れます。

偽りの証言。
嘲り。
侮辱。

自分自身を守るためなら、
語ることのできる言葉は、
いくらでもあったでしょう。

しかし、
イェシュアは、
沈黙された場面があります。

それは、
何も言えなかったからではありません。

マタイ26章では、
御父に願えば、
十二軍団以上の御使を送っていただくこともできると、
語られています。

力がないから黙ったのではない。
力を持ちながら、その力を自分自身を救うために使わなかった。

ここに、
王の沈黙があります。

■ しかしイェシュアは、いつも黙っていたわけではない


ところが、
イェシュアは、
何に対しても、
沈黙されたわけではありません。

人々へ重荷を負わせる宗教指導者たちに対して。

神殿が、
本来の目的から外れていた時。

弱い者が、
形式や制度によって押しつぶされていた時。

イェシュアは、
非常に強い言葉を語られました。

そして、
子どもたちが退けられようとした時には、
彼らを招かれました。

罪人として退けられた人々と、
食事をされました。

人々から黙らされようとしていた盲人の声には、
立ち止まられました。

つまり、
イェシュアの沈黙と発言には、
一つの方向が見えてきます。

自分を守るためには、沈黙できる。

しかし、
人を生かすためには、口を開く。

■ 十字架の上でも、口は他者へ向けられた


そして、
その姿は、
十字架の上でも変わりません。

イェシュアは、
苦しみのただ中で、
ご自分だけを見ておられませんでした。

ご自分を十字架につけた者たちについて、
赦しを願われました。

隣で十字架につけられた者へ、
希望を語られました。

母マリアと弟子のことを、
気にかけられました。

自分自身が、
最も苦しい時にさえ、
その口は、
他者へ向けられていた。

ここに、
箴言31章の王の姿と響き合うものを見ることができます。

もちろん、
箴言31章8節が、
直接十字架を預言している、
という意味ではありません。

しかし、
真の王が、その口を何のために使われたのか。

その姿は、
私たちに深い光を与えます。

■ ペテロは「剣」を抜いた


ここでもう一つ、
対照的な場面があります。

ゲツセマネで、
イェシュアが捕らえられようとした時、
ペテロは、
剣を抜きました。

彼は、
イェシュアを守ろうとしたのでしょう。

しかし、
イェシュアは、
剣を収めるよう命じられました。

ここには、
今回のテーマと響き合うものがあります。

正義感があれば、
何をしてもよいわけではない。

守りたい相手がいるからといって、
怒りに任せて行動してよいわけではない。

正しい目的には、正しい方法が必要です。

これは、
「口を開く」時にも同じです。

弱い者を守るためであっても、
嘘を使ってはいけない。
事実を歪めてはいけない。
相手を必要以上に傷つけてはいけない。

正義を求めながら、
自分自身が、
別の不義を行ってはいけない。

だからこそ、
まず、
自分を治める必要があります。

■ 口を閉じるべき時


ここまでを整理すると、
聖書には、
口を閉じるべき時があります。

自分を高くしようとしている時。
怒りに任せて、
相手を傷つけようとしている時。
事実を十分に知らない時。
自分の正しさを、
見せつけたいだけの時。
悪を企んでいる時。

その時には、
アグルの言葉が響きます。

「あなたの手を口に当てよ。」

■ 口を開くべき時


しかし、
口を開くべき時もあります。

声なき者がいる時。
弱い者の権利が、
曲げられようとしている時。

不正によって、
誰かが押しつぶされている時。

助けを求める声が、
無視されている時。

真実を語る必要がある時。

その時には、
レムエルの母の言葉が響きます。
「口を開くがよい。」

■ エクレシアの口は、何のためにあるのか


そして、
この二つの命令は、
エクレシアにとっても、
非常に大切な鏡になります。

もちろん、
箴言30章・31章が、
直接エクレシアについての預言だと、
断定するわけではありません。

しかし、
キリストに属する共同体は、
ここから学ぶことができます。

エクレシアは、
語る共同体です。

福音を語る。
御言葉を語る。
賛美する。
祈る。
証しする。

しかし、
その口が、
いつの間にか、
自分たちを正当化するためだけに、
使われてはいないでしょうか。

自分たちの教理。
自分たちの組織。
自分たちの指導者。
自分たちの正しさ。

それらを守る時には、
大きな声を出す。

しかし、
その共同体の中で、
一人の弱い者が傷ついている時には、
「波風を立てないため」
という理由で、
沈黙する。

もしそうなら、
口の使い方が、
逆転しているのかもしれません。

■ 自分のためには閉じ、他者のためには開く


箴言30章の最後。
「手を口に当てよ。」
箴言31章。
「口を開け。」

この二つを、
一つの言葉にまとめるなら、
こうなるでしょう。

自分を高くするためには、口を閉じよ。
声なき者を守るためには、口を開け。

そして、
その間には、
もう一つ必要なものがあります。

耳を開くこと。

聞く。
確かめる。
自分自身を治める。
神の御言葉を思い起こす。

そして、
必要なら、
語る。

だから、
今回の流れを並べるなら、
こうなります。

耳を開け。
自分のためには、口を閉じよ。
そして、声なき者のためには、口を開け。

■ 王よ、その口は誰のためにあるのか


人には、
口があります。

しかし、
その口は、
自分の存在を大きくするためだけに、
与えられたのではありません。

誰かを傷つけるためでもない。

自分の正しさを、
証明し続けるためでもない。

時には、
閉じる。

時には、
開く。

そして、
その判断を分けるものは、
ただ一つです。

愛は、今、何を求めているのか。

自分のために、
言い返したいだけなのか。

それとも、
誰かを守るために、
語らなければならないのか。

沈黙することが、
愛なのか。

語ることが、
愛なのか。

その時々に、
御霊によって、
見分けなければなりません。

箴言30章は言います。
「手を口に当てよ。」

そして、
箴言31章は言います。
「口を開け。」

この二つは、
矛盾していません。

むしろ、
一つの知恵です。

自分を高くするためには、口を閉じる。
声なき者を守るためには、口を開く。

そして、
その両方ができる者こそ、
自分の口を、
本当に治めている者なのです。

王よ。
あなたの口は、
あなた自身を大きくするためにあるのではない。

神を賛美し、
真理を語り、
人を生かし、
声なき者の声を届けるためにある。

だから――
閉じるべき時には、
口を閉じよ。

そして、
開くべき時が来たなら、
恐れず、
口を開け。