補遺 「ユダの家」とイスカリオテのユダ
――背信は内部から起こる
エゼキエル8:17で、
主はこう言われる。
「人の子よ、あなたはこれを見たか。ユダの家がここでしているこれらの憎むべきわざは軽いことであるか。」
ここで語られている、
「ユダの家」
とは、
当然ながら、
歴史的には南王国ユダとその民を指している。
イスカリオテのユダを直接指しているわけではない。
この二つを、
預言と成就として直接結び付けることはできない。
しかし、
聖書全体の中で、
「ユダ」
という名を追ってみると、
非常に考えさせられる対照が現れる。
■ 「ユダ」とは本来、麗しい名前だった
ユダという名前は、
ヘブライ語で、
יְהוּדָה(Yehudah)
である。
創世記29:35で、
レアがユダを産んだ時、
彼女は、
「今、わたしは主をほめたたえる」
と言った。
そこから、
彼をユダと名付けた。
つまりユダという名は、
主をほめたたえること
と結び付いた名前である。
さらにユダ族から、
ダビデ王が出る。
そして、
イェシュアも、
ユダ族から来られる。
だから、
「ユダ」という名前そのものが、
悪い名前なのではない。
むしろ、
非常に大きな祝福と使命を背負った名である。
■ それでも「ユダの家」は背信した
しかし、
エゼキエル8章を見る。
神殿がある。
祭司制度がある。
長老がいる。
イスラエルの神を知っている。
そして彼らは、
「ユダの家」
と呼ばれている。
それでも、
その神殿の内部には、
偶像が入り込んでいた。
タンムズのために泣く者がいた。
太陽へひれ伏す者がいた。
つまり、
「ユダの家に属している」
という事実そのものが、
神への忠実を保証したわけではない。
名前がある。
歴史がある。
契約共同体に属している。
神殿がある。
それでも、
心が神から離れることはあり得る。
■ そして新約聖書に、もう一人の「ユダ」が現れる
時代は大きく進み、
福音書へ行く。
そこには、
もう一人、
非常に有名な「ユダ」が登場する。
イスカリオテのユダ。
彼も最初から、
イェシュアの敵として外側に立っていたわけではない。
むしろ、
十二弟子の一人
として選ばれていた。
ここが重要である。
彼は、
外から石を投げていた者ではない。
イェシュアと共に歩いた。
教えを聞いた。
食事を共にした。
十二人という、
非常に近い共同体の、
内部にいた。
■ 裏切りは「外」からだけ来るとは限らない
だから、
イスカリオテのユダの物語には、
非常に厳しい警告がある。
神の働きを壊すものは、
必ずしも、
外からやって来るとは限らない。
外敵なら、
まだ見分けやすい。
しかし、
内部から起こる背信
は見えにくい。
エゼキエル8章も同じである。
偶像礼拝が行われていたのは、
バビロンの神殿ではない。
主の宮
だった。
そして、
太陽を拝んでいた者たちは、
遠い異邦人ではない。
本文は、
「ユダの家」
の憎むべき行為として告発している。
だから両者を直接的な預言関係に置くことはできなくても、
象徴的には、
同じ問いが浮かび上がってくる。
最も危険な背信は、神の民の「内部」で起こることがある。
■ イェシュアのすぐ近くにいても
さらに考えさせられるのは、
イスカリオテのユダが、
イェシュアから遠く離れた場所にいたのではないことである。
むしろ、
非常に近かった。
しかし、
距離の近さと、心の近さは同じではなかった。
これは、
神殿についても同じことが言える。
エゼキエル8章の二十五人ほどの人々は、
神殿から遠く離れていたのではない。
主の宮の内庭
にいた。
それでも、
主の宮へ背を向けることができた。
ここには、
恐ろしい共通点がある。
聖なる場所にいることと、神へ顔を向けていることは同じではない。
■ 所属は救いを保証しない
この原則を現代へ持ってくるなら、
さらに問いは深くなる。
クリスチャンという名前。
教会員という所属。
教派。
神学校。
役職。
牧師。
教師。
長老。
奉仕者。
そして、
長い信仰歴。
これらには、
それぞれ意味がある。
しかし、
それ自体が、
神への忠実を保証するものではない。
エゼキエル8章には、
七十人の長老まで登場した。
イスカリオテのユダは、
十二弟子の中にいた。
つまり、
「どこに所属しているか」だけでは、心がどちらを向いているかまでは分からない。
■ 「ユダ」という名前だけではなかった
ここで、
さらに象徴的な対照を見ることができる。
ユダという名前には、
「主をほめたたえる」
という起源がある。
しかし、
その名前を持つ者が、
必ず主をほめたたえる人生を歩むとは限らない。
これは、
非常に重要である。
名前と実体は、同じとは限らない。
「ユダ」という名前を持っていても、
主へ背を向けることがある。
「イスラエル」と呼ばれていても、
偶像を拝むことがある。
「クリスチャン」と呼ばれていても、
その名だけで忠実が保証されるわけではない。
だから、
問題は、
何と呼ばれているか
ではない。
誰に従っているか
なのである。
■ イェシュアは「主よ、主よ」と言う者について警告された
この問題をさらに鋭くするのが、
マタイ7章である。
イェシュアは、
単に、
「私を知らない者」
について警告されたのではない。
「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではない。」
と言われた。
ここでも、
正しい呼び名
だけでは足りない。
「主よ」
と言っている。
宗教的な言葉を使っている。
しかし、
イェシュアが続けて問題にされたのは、
天にいます父のみこころを行うこと
だった。
つまり、
告白と従順は、
切り離すことができない。
■ 「内部」にいるからこそ問われる
だから、
エゼキエル8章を、
単なる、
「昔のユダヤ人が偶像礼拝をした話」
として外側へ投げてしまってはいけない。
むしろ、
この預言が神の民へ向けられているからこそ、
私たち自身が問われる。
私は内部にいるから大丈夫だと思っていないか。
聖書を持っている。
イェシュアの名を知っている。
礼拝へ行っている。
正しい教理を知っている。
しかし、
それだけで、
神へ顔を向けていることになるのだろうか。
エゼキエルが見た者たちも、
宮の内部にいた。
イスカリオテのユダも、
十二人の内部にいた。
だから、
「内部」という場所そのものが、
安全を保証するわけではない。
■ 外敵より怖い「内側の背信」
外から迫害される教会は、
敵が見える。
しかし、
内部から御言葉が少しずつ置き換えられる時、
敵は見えにくい。
最初は、
小さな妥協。
次に、
習慣。
そして、
伝統。
やがて、
制度。
最後には、
それを疑うことさえ難しくなる。
ここで前に見た、
ミカからダンへ広がった宗教システムともつながってくる。
問題は、
宗教がなくなることだけではない。
むしろ、
宗教が残ったまま、その内側で方向が変わること
なのである。
■ だから「ユダ」を他人にしてはいけない
そして、
この補遺で最も注意したいのは、
「ユダとは誰か」
を探し始めることである。
あの教派がユダだ。
あの牧師がユダだ。
あのクリスチャンがユダだ。
そうやって、
外側へ適用することは簡単である。
しかし、
預言を読む目的は、
他人の背信を発見することだけではない。
結果から原因へ。
原因から始まりへ。
そして最後には、
自分の足元へ戻ってくる。
だから、
本当に問うべきなのは、
「私の中にユダはいないだろうか。」
なのである。
■ 「ユダの家」と「ユダ」
エゼキエルの、
「ユダの家」
と、
イスカリオテの、
「ユダ」
を、
直接的な預言と成就として結び付けることはできない。
しかし、
聖書全体を象徴的に眺める時、
両者から一つの警告を受け取ることはできる。
神の民の内部にいることは、神への忠実を自動的に保証しない。
神殿の内部にいても、
神へ背を向けることがある。
十二弟子の内部にいても、
イェシュアを裏切ることがある。
「主をほめたたえる」という名を持っていても、
その名にふさわしく歩まないことがある。
だから、
名前ではなく、
所属でもなく、
制度でもなく、
問われるのは、
今、誰へ顔を向けているのか。
なのである。
エゼキエル8章で、
彼らは主の宮にいながら、
主へ背を向けた。
だから私たちは、
内部にいることに安心するのではなく、
何度でも確認したい。
私は今、本当に神へ顔を向けているだろうか。