補遺 キリスト教は「土台」か「崇拝対象」か | Truth Hawkのblog

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補遺 キリスト教は「土台」か「崇拝対象」か

――神のための構造が、構造を守るための宗教になる時


エゼキエル8章をここまで読んできて、
一つの問いが浮かんでくる。

宗教とは、何のために存在するのだろうか。

神へ導くためなのか。

それとも、
宗教そのものを守るためなのか。

これは、
現代のキリスト教について考える時にも、
避けて通れない問いだと思う。

私は、
キリスト教という枠組みそのものを、
すべて否定したいわけではない。

教会。
教派。
神学。
信仰告白。
礼拝形式。
伝統。
聖書研究。

これらには、
それぞれ役割がある。

問題は、
それらが、
何を指しているのか
なのである。

■ 土台は必要である


建物には、
土台が必要である。

骨組みも必要である。
柱も必要である。

しかし、
人が住むための家を造ったはずなのに、
いつの間にか、
骨組みそのものを守ることが目的
になってしまったら、
何かが逆転している。

宗教にも、
同じ危険がある。

信仰を次の世代へ伝えるためには、
ある程度の構造が必要になる。

人が集まる場所。
教える人。

礼拝の秩序。
聖書を学ぶ仕組み。

共同体。
言葉。
伝統。

これらは、
信仰を支えるための、
になり得る。

だから、
「構造があること」そのものが問題なのではない。

■ メラリ族が支えた「構造」


ここで、
以前エゼキエル8章の「北」を考えた時に見た、
メラリ族
を思い出したい。

民数記3章によれば、
メラリ族は幕屋の、
板、横木、柱、台座など、
幕屋を物理的に支える構造物を担当していた。

そして彼らが宿営した方向は、
幕屋の北側
だった。

これを象徴的に読むなら、
メラリには、
構造を支えるもの
というイメージを見ることができる。

しかし、
ここには重要な順序がある。

メラリ族が、
幕屋を支えた。

幕屋が、
メラリ族のために存在したのではない。

構造は、
神の臨在に仕えるため
にあったのである。

■ 「神のための構造」から「構造を守るための宗教」へ


ここで、
宗教システムに起こり得る逆転が見えてくる。

最初は、
神のために構造を造る。

しかし時間が経つ。
組織が大きくなる。
制度が整う。
役職が生まれる。
財産が増える。
歴史ができる。
伝統が積み重なる。

すると、
いつの間にか、
目的が変わる可能性がある。

神のために構造を守る
のではなく、
構造を守るために神を用いる。

ここまで来ると、
宗教は、
神へ導く器から、
自己保存するシステムへ変わってしまう。

■ 「聖書にはこうある」より「キリスト教ではこうする」


この逆転は、
非常に分かりにくい。

なぜなら、
そこには依然として、
聖書があるからである。

祈りもある。
礼拝もある。
牧師もいる。
賛美もある。

十字架も掲げられている。

イェシュアの名も語られている。

しかし、
ある問いを投げた時、
その方向が見えてくることがある。

「聖書には、どこにそう書いてあるのですか。」

その問いに対して、
もし、
「でもキリスト教では、こうするものだから。」
という答えが、
御言葉より上位に置かれるようになったなら、
注意が必要である。

もちろん、
聖書がすべての実務的細部を規定しているわけではない。

共同体には、
秩序のための判断も必要である。

だから、
「聖書に直接書いていないものは全部間違い」
という単純な話ではない。

問題は、
人間が作った規則や伝統が、神の言葉と衝突した時にどちらを上に置くか
なのである。

■ イェシュアも「伝統」の逆転を指摘された


この問題は、
現代だけのものではない。

マルコ7章で、
イェシュアは、
人間の言い伝えについて厳しく語られた。

問題は、
伝統が存在すること自体ではなかった。

問題は、
人間の言い伝えによって、神の言葉を無にしてしまうこと
だった。

つまり、
本来は神への従順を助けるために存在したものが、
いつの間にか、
神の命令を覆うほどの権威を持つ。

ここで、
器と目的が逆転する。

■ 「キリスト教」という名前そのものが救うのではない


ここで、
前の「ユダの家」の補遺ともつながる。

ユダという名前を持っていることが、
忠実を保証しなかった。

イスラエルに属していることも、
偶像礼拝から自動的に守ってはくれなかった。

同じように、
「キリスト教」
という名前そのものが、
自動的にすべてを正しくするわけではない。

キリスト教という歴史的な枠組みの中にも、
聖書を守ろうとしてきた人々がいる。

福音を伝えた人々がいる。
迫害の中で信仰を守った人々がいる。

御言葉を翻訳し、
次の世代へ残した人々がいる。

だから、
そのすべてを、
「宗教だから悪い」
として捨てる必要はない。

しかし同時に、
キリスト教という名称を、御言葉を吟味しなくてよい免許証にしてはいけない。

■ エクレシアと宗教システム


ここで、
エクレシア
について考えたい。

新約聖書のギリシア語、
ἐκκλησία(ekklēsia)
は、
基本的には、
集会、会衆、召された共同体を表す言葉である。

後世の巨大な宗教制度そのものを意味する言葉として、
最初から定義されているわけではない。

新約聖書が描くエクレシアの中心にあるのは、
建物ではない。
法人でもない。
教派名でもない。

である。

そして、
その人々を結び付ける中心に、
イェシュアがおられる。

だから、
ここでは象徴的・神学的な区別として、
エクレシア
と、
宗教システム
を分けて考えてみたい。

エクレシアとは、
イェシュアへ集められた人々。

宗教システムとは、
その共同体を支えるために人間が作る構造。

構造そのものが悪なのではない。

しかし、
順序が重要なのである。

■ エクレシアのために制度がある


本来なら、
順序はこうなる。

イェシュア↓エクレシア↓それを支える制度

しかし、
これが逆転すると、
こうなる。

制度↓制度を維持する共同体↓制度を正当化するために語られるイェシュア

同じ言葉を使っていても、
中心が変わっている。

だから、
本当に問うべきなのは、
「宗教組織があるか、ないか」
ではない。

誰が中心なのか。

なのである。

■ 器が礼拝対象になる


ここで、
以前見たネフシュタンの出来事が、
再び響いてくる。

荒野で掲げられた青銅の蛇は、
もともと、
神が命じられたものだった。

それを見た者は、
命を得た。

つまり、
始まりは正しかった。

しかし後代になると、
イスラエルは、
その青銅の蛇へ香を焚くようになった。

そこでヒゼキヤは、
それを砕いた。

ここに、
非常に重要な原則がある。

神が用いられたものさえ、神になることはできない。

これは、
宗教についても同じではないだろうか。

教会が、
人をイェシュアへ導いた。

神学が、
御言葉を理解する助けになった。

伝統が、
信仰を次の世代へ伝えた。

それらは、
良い働きをしたかもしれない。

しかし、
だからといって、
それ自体が、
絶対的なもの
になるわけではない。

■ 道標を拝んではならない


道標には、
目的地が書かれている。

「こちらへ行けば目的地です。」

道標は重要である。

しかし、
目的地へ向かわず、
道標の前に座り込み、
道標そのものを守り続けていたら、
本来の目的を失っている。

宗教も同じである。

キリスト教が、
イェシュアを指し示す道標
なら、
その役割は尊い。

しかし、
「この教派でなければならない。」
「この神学体系を疑ってはいけない。」
「昔からこうだから変えてはいけない。」
「聖書よりも、教会がそう教えているから。」
となった時、
道標が、
目的地の位置へ入り込む可能性がある。

■ エゼキエル8章の恐ろしさ


ここで、
もう一度エゼキエル8章を見る。

そこには、
神殿
が存在している。

神殿そのものが消えた後の話ではない。

宗教制度も存在している。

長老もいる。
礼拝行為もある。
香も焚かれている。

しかし、
その内部で、
神とは別のものへ視線が向けられている。

そして最後には、
人々は、
主の宮の中にいながら、主の宮へ背を向けている。

これは、
宗教システムの危険を象徴的に考える上で、
非常に強烈な光景である。

宗教が残っていても、神へ背を向けることはできる。

■ ダンとメラリが再び重なる


以前の象徴的研究では、
北側に、
二つの興味深い存在を見た。

外側には、
ダン族。

内側には、
幕屋の構造を支える、
メラリ族。

そしてダンについては、
士師記17–18章のミカの宗教が、
個人から部族へ拡大していく出来事などから、
象徴的に、
宗教システム
というテーマを見てきた。

一方、
メラリは、
構造を支える者
だった。

もちろん、
聖書が、
「ダン=宗教システム」
「メラリ=教会制度」
と直接定義しているわけではない。

これはあくまで、
これまで積み重ねてきた象徴的な読みである。

しかし両者を重ねると、
非常に鋭い問いが生まれる。

その宗教構造は、神の臨在を支えているのか。

それとも、
神がおられなくなった後の「形」だけを支えているのか。

■ 構造を壊すことが目的ではない


だから、
この研究の結論は、
「教会を壊せ」
でも、
「教派を全部なくせ」
でも、
「神学は必要ない」
でもない。

メラリ族が必要だったように、
構造は必要である。

問題は、
構造が、
誰に仕えているか
なのである。

神の臨在に仕える構造なら、
それを用いればよい。

御言葉を伝える制度なら、
それを用いればよい。

人々をイェシュアへ導く教会なら、
それを用いればよい。

しかし、
構造そのものを守るために、
御言葉を曲げ始めたなら、
そこで立ち止まらなければならない。

■ キリスト教は「終着点」ではない


だから、
私はこう考えたい。

キリスト教は、
イェシュアへ導く土台となり得る。

教会も、
そのための場所となり得る。

神学も、
御言葉を理解するための道具となり得る。

伝統も、
信仰を受け渡す器となり得る。

しかし、
それらすべての向こうに、
イェシュア
がおられる。

そこで視線を止めてはいけない。

これは、
太陽について考えた時と同じである。

太陽を見て、
太陽で止まれば、
被造物礼拝になる。

宗教を通して神を知りながら、
宗教で視線を止めれば、
同じ逆転が起こる可能性がある。

視線が止まったところが「神」になる。

■ 被造物を拝むのではなく、被造物を読む


ここまで何度も使ってきた言葉を、
宗教についても応用できるかもしれない。

被造物を拝むのではなく、被造物を読む。

そして、
人間が造った宗教制度についても、
同じである。

制度そのものを絶対化するのではなく、
それが、
何を指しているのかを見る。

教会を見る。

その向こうに、
イェシュアを見る。

聖書研究をする。

その向こうに、
御言葉を語られた神を見る。

神学を学ぶ。

しかし、
神学体系そのものを、
神の位置へ置かない。

伝統を受け取る。

しかし、
伝統によって神の言葉を無にしない。

■ 神のための構造か、構造のための神か


最後に、
一つの問いを残したい。

私は、神のために宗教の構造を用いているのか。

それとも、
宗教の構造を守るために神を用いているのか。

この二つは、
外見では、
非常によく似ているかもしれない。

どちらにも、
教会がある。
聖書がある。
祈りがある。
礼拝がある。
賛美がある。

しかし、
中心が違う。

エゼキエル8章で問われたのも、
結局は、
どちらへ顔を向けているのか
だった。

主の宮の中にいることではない。

宮そのものを守っていることでもない。

その宮が指し示している、
神へ顔を向けているか。

キリスト教が、
イェシュアへ導く器であるなら、
大切に用いればよい。

しかし、
器が主人になったなら、
もう一度、
視線をその向こうへ移さなければならない。

神のための構造が、構造を守るための宗教になっていないか。

そして、
イェシュアへ導くはずの道標を、いつの間にか拝んではいないだろうか。

宗教で視線を止めず、
その向こうにおられる、
イェシュアへ。

そこまで、
顔を向け続けたいのである。