📜補遺③:肉ではなく霊によって理解する
イェシュアはある日、
人々に衝撃的な言葉を語られた。
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。」(ヨハネ6章)
この言葉を聞いた多くの人々は驚いた。
「この人は、自分の肉を食べろと言うのか。」
彼らはその言葉を肉によって理解しようとしたのである。
そして多くの弟子たちは、
その時からイェシュアを離れていった。
しかしイェシュアは続けてこう語られる。
「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。」(ヨハネ6:63)
ここに大切な鍵がある。
イェシュアは、
肉を食べることを教えられたのではない。
霊によって命を受けることを語られたのである。
考えてみれば、
聖書にはこのようなことが数多くある。
・パン。
・杯。
・契約の箱。
・神殿。
・羊。
・ぶどうの木。
これらは現実に存在するものでありながら、
同時に霊的な真理を指し示す「しるし」として語られている。
ところが人は、
しばしば「しるし」で止まってしまう。
・パンだけを見る。
・杯だけを見る。
・建物だけを見る。
・儀式だけを見る。
しかしイェシュアは、
その向こうにある神の国を見よと招いておられる。
今日学んだ「証」も同じである。
肉の視点で見れば、
証とは単なる体験談である。
しかし霊の視点で見るなら、
それは神が今も生きて働いておられることを証明する、生きた御業の記録である。
だから証には命がある。
そこには、
主と共に歩んだ時間が刻まれているからである。
聖餐もまた同じである。
肉だけで見るなら、
パンと杯を受ける儀式で終わる。
しかし霊によって見るなら、
それは主と共に歩み、
その命に生かされ、
その恵みを共に味わう交わりとなる。
だから聖餐とは、
形だけを守ることではなく、
今も生きておられる主との交わりなのである。
私たちは、
何を見るだろうか。
目の前のパンだろうか。
それとも、
そのパンが指し示しているイェシュアだろうか。
もし霊によって見るなら、
聖書の一つ一つの出来事は、
神の愛と救いを語る生きた証しとして見えてくるのである。
🔥締めの一文
肉はパンを見る。
しかし霊は、そのパンの向こうにおられるイェシュアを見るのである。