父親のこと | 私の備忘録(映画・TV・小説等のレビュー)

私の備忘録(映画・TV・小説等のレビュー)

日々接した情報の保管場所として・・・・基本ネタバレです(陳謝)

墓を注文した関係で、死んだ時の日付や氏名の確認のため戸籍謄本を見ているうちに「あー、そうだったのか」と再確認。

他も含めてちょっと覚えを残しておこう。

 

 

大正10年8月生まれ(三男)。商業高校出身で、高校では野球部のピッチャーをやっていた。卒業後、某電機メーカの経理部門に就職。
その後第二次大戦により、中国に出兵(場所は中支)。この時、家にあった日本刀を持って行ったらしいがボロボロにしてしまったとのこと。
戦争での最終軍位は「陸軍中尉」。終戦時に25歳だから、年齢にしてはそこそこの地位だったのか。

 

 

戦地では腹に敵弾を受けたが奇跡的に内臓を外れ、生還。


終戦後会社に復帰。社内の野球部に所属(いわゆるノンプロ)。
昭和24年4月に結婚(29歳)。聞いた話では母と見合いした時、一旦は断ったらしい。その後しばらくして再度話を戻し、結婚する事になった様だ(何かワガママ)。ノンプロ引退後は経理業務。その後月賦販売関連会社へ。
昭和36年12月に妻死亡。
昭和37年12月28日に本人死亡。死因は心臓マヒ。享年42歳。
親分肌で、かなり人に金を貸していた様だが、申し出て返済した者は結局ほとんどおらず、借金のみが残った。

 

 

兄2人、姉2人の後に末っ子として生まれ、親からは少し甘やかされて育ったらしい。体格には恵まれており、野球ではそこそこ名を知られていた様だ。ノンプロ時代に中日からオファーがあったと聞いている。

 

 

気性は激しく、多分戦争でそれなりの事もあったと思われる。戦争時のことは、身内の誰も聞いていない。


戦地から復員し、終戦後4年して母と結婚。長女(姉)、及び長男(自分)が生まれ、そこそこの暮らしをしている時に母の発病。母が死んでから1年後、本当にあっけなく死んだ。

 

 

母親の事もあっただろうが、当時は戦後の復興期で冷蔵庫、テレビ、洗濯機等の大型家電品が普及する時期であり、それらを購入可能にする月賦販売(ローン)も急速に伸びた。そこでは経理部長の肩書きだったが組織としては小さく、相当な激務だった様だ。

 

 

手帳が残っている。体格に似合わず、非常に細かい字で予定が書き込んである。パチンコが好きだったらしく、時々収支が記録されていた。
子供が生まれたところには「女児誕生」、「男児誕生」と書かれており、母が死んだ日には「女房死亡」と。

 

 

今思うのは「父は一体私に何を残したのだろうか」ということ。父とのエピソードは、もう今では概念でしか覚えていない(それも数件)。

 

 


ただ、今子供達と接していても、日々の生活の中で一体何が「残せているのか」自信はない。
結局人は死ぬ、のだ。 (2005.12.3)