母親のこと | 私の備忘録(映画・TV・小説等のレビュー)

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昭和2年3月生まれ。5人きょうだいの長女として生まれ、けっこうしっかり者だったらしい。その当時珍しく女学校を卒業している。父とは昭和24年に22歳で結婚。見合いで断られたのに、再度の申し込みを受けたのは、まあ縁があったということか。

 

母親の記憶は、病気になってからのものしかない。鶴舞の大学病院の病室と、死ぬ少し前に自宅に戻ってからの2ケ月あまり。
母も2冊の手帳に少し記録を残している。これは姉に渡してあるが、簡単な言葉の中に悲惨さが映し出されていた。

子宮ガンだと判った時には、もうかなり進行しており、多分分かってから死ぬまでは1年前後だっただろう。


病室へ見舞いに行くと、チリ紙でたくさんの「こより」を作っていた。

当時は何のためのものか判らなかったが、後年姉が教えてくれたのは、腹に通したチューブの穴の膿を取り除くためのものだった。
末期の子宮ガンであり、2回目に手術した時にはもうあちこち転移していて手の施しようがなく、そのままふさいだとのこと。日記の後半では「体がえらい、便も前の方からしか出ない」という記述。ガンの転移で直腸との境がくずれ、便が膣からしか出ない状態になっていた。
自分の体がそんな状態になったら、気の弱い者は発狂するかも知れない。

 

自宅で最期を迎えるために退院。
だがその当時の私は単純に母の退院を喜んだ。

寝たきりではあったが、毎日学校から走って帰った。
そんな時期に創価学会の人間が度々訪れた。

入信すれば病気は治ると言った。仕方なく玄関先で応対する母。
当時小学校一年だった私。

なぜあの時「お前ら、帰れよ!」と言ってやれなかったのか。

今になっても後悔。

 

昭和36年12月24日死亡。享年34歳。

その日は、学校に知らせが来て、八百屋のおじさんのミゼットに姉と一緒に乗って帰宅。
父が、泣きながら母の口に濡れた脱脂綿を含ませていた。

 

 

母の手帳にあったゲーテの一節
「家の中に自分の世界を持っている者こそ幸福だ」