我々は愛を欲しています。しかしいつも不満だ。配偶者、恋人、家族、友人、彼らから愛を見出すのは難しい。
なぜだろうか。それは彼らが自我を持っているからです。
自我とは魂の意識の中の最も低い部分。そして人は誰かを思いやろうとする際にも、自我で考えるのです。
その結果「その人の将来のため」子供をしかりつけたり、友人の不備を粗さがしする。
それはその人を正して歩みを軌道修正してやろうという老婆心から来るものであるが、そのようなややおせっかいな愛の示され方は迷惑でもあるのです。
だから我々は社会から愛を見いだせないわけです。
さて、犬や猫を飼っている人々は彼らを無性にかわいがります。なぜならある動物たちは無償で我々に愛情を示してくれるからです。
彼らは人間の言葉をしゃべらない代わりに、小言を言わない。外見上の悪口も言わないし、収入が低いだの他者との比較もしない。
そのためある飼い主たちは彼らを溺愛するのです。
動物は人の魂とは違って低い波動を持った霊であるのだけれど、「我」が薄いので人に愛されるのです。
一方、人間は本来もっと高い存在。
しかし、愛より我が強いため憎しみが生じるのです。
また動物と少し似ているのが人間の幼児。子供と言える年齢までは、多くが愛を持っているものなのです。
また動物と少し似ているのが人間の幼児。子供と言える年齢までは、多くが愛を持っているものなのです。
彼らは大人から見ると 大人らしくない言動をします。大声で騒ぎ、はしゃぎ回り、泣き叫び、思いのまま行動する。
しかし、大人のような残酷なことは言わないし、大人のように残忍な暴力を振るったりしないものです。
特に幼児は初対面の大人に対しても平等に接するのです。
このようなことは彼らが自我から少し離れているためであり、キリストに「このようにならなければ神の国に入れない」と言わしめた所以であります。
言い換えよう、このような外見、地位、金、その人の過去の言動などを差し置いて、平等に愛情を示す人にならなければいけないということなのです。
ただ、子供は完全ではない。完全ではないから大人に進化するのです。
大人は子供のように大騒ぎしない、感情にまかせて泣き笑いしない。しかし邪悪さは人によっては大きいではありませんか。
そう、大人は子供心を失った怪物であってはいけないということでもあるのです。
しかし大人の考え方をして、かつ、子供心を忘れない人間になることが進歩であり、(逆行するという意味ではない)
今一度我々は子供の愚かさを捨て、しかし子供の長所を持ち、性に綺麗で、平等性を持ち、人の粗さがしをせずに愛せる人間にならなければいけないのです。
それが進歩なのだ。
愛の預言・宇宙の法則 (人生とは何か、人はなぜ生きているのかが分かる)