事件についてくわしいサイト:
少女の快復を祈る所
2chのスレを見ていると、山形のマット事件が引き合いに出されることが多いようです。
世間の人はみんな、「そんなことあるはずない」と思っているのに、裁判(少年審判)では、「被害者の少年は自分から進んでマットにくるまれた」ってことにされてしまっている。
死んでしまった被害者より、まだ生きている加害者の「少年たちの将来のために」事件はここでも学校ぐるみで隠蔽されました。
でも、ちょっと待ってください。
誰かを虐めて、リンチをして、暴行して、取り返しのつかない大きな障害を負わせてしまったことを「不幸な事故だから仕方ない、キミは悪くない」ということが
本当に少年の将来のためになるのですか?
なにもなかったことにするのではなく、事件があったことを認めて
年下の少女に暴行を行った少年の心には、どんな闇があったのか
なぜ、暴力行為を行わなくてはならなかったのか
彼の心を開かせて、その病理を解明して治癒させることこそが、
彼の将来のためなのではないですか?
事件当時、まだ13歳だった少年であれば、事件をきちんと見つめ直して改悛する余地があったのではないでしょうか。
しかし現実には、母親は彼をかばい、息子は悪くないと言い張り
学校は体面のためかそれともまじめに対応することが面倒くさかったのか、事件ではなく事故だったと隠蔽に走りました。
彼は、自分がしたことをきちんと考えて後悔し、これを心底謝罪して許しを請う機会を、大人の手によって奪われたのだとも言えます。
事件を隠蔽した学校は、少女の人生が奪われることを防げなかったにとどまらず
少年の将来を踏みにじったのです。
事件を起こした少年を、かばう気持ちは毛頭ありません。
しかし、その事件を起こすに至った彼の心の病がそのまま放置され、また助長されたことについては
彼も被害者であるという事実を忘れたくありません。