⭐️やさしさ通心…No.737 | yasashisatuushinのブログ

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心に栄養補給を!!
週に一度は良いお話で、心をリセットしましょう。(笑)
毎週土曜日の午前10時に配信しています。

2024年4月27日(土)

 

おはようございます。

 

さあ、いよいよ今日からゴールデンウィーク。訪日外国人も過去最高だそうですし、新幹線のぞみ号もゴールデンウィーク期間中は自由席がなく全席指定だそうです。

 

お出掛けの方も多いと思いますが、どうかくれぐれもお気を付け下さいね。

 

さて、今朝のやさしさ通心もベルリンの壁に関するお話です。お時間のある時にでもお読み頂けましたら嬉しいです。

 

『ベルリンの壁に日本の花火を打ち上げて大反響』

 

ベルリンの壁の崩壊は突然起きたものではなく、その奇跡の崩壊のきっかけの一つと言われているのが、ある日本人がドイツで打ち上げた花火だと言われていることを、ほとんどの日本人は知りません。

 

秋田県の大曲(おおまがり)市は、現在の日本でも有名な花火大会の開催地として知られていますが、冷戦中の1979年に大曲の花火がドイツで打ち上げられ国際的な注目を浴びることになります。

 

そのきっかけは、大曲の市長が農業視察のために訪れた西ドイツのボン市での出来事でした。

 

市長はボン市長に対して、「大曲の花火大会は日本一です。ライン川の古城を背景に打ち上げれば素晴らしいでしょう」と、社交辞令で軽く話しましたが、

その言葉が真に受けられ、翌日の新聞で「日本の大曲から花火を呼ぶ」と報じられることになります。

 

そして、その指揮を取ったのが、花火師の佐藤勲(さとういさお)さんでした。

 

大曲花火大会の委員長や顧問を務め、革新的な花火を追求してきた人物です。

 

例えば、当時は斬新過ぎた「花火の形は丸くなくてもいい」「音楽に合わせて花火を打ち上げる」などです。

 

その頃、佐藤さんは花火師ではなかったため、佐藤さんが花火師にこのようなアイディアを提案しても、なかなか受け入れてもらえませんでした。

 

しかし、佐藤さんは諦めず、まずは花火師に信頼してもらおうと考え、花火師のもとで修行をしたりと交流を重ね、持ち前の粘り強さと情熱で徐々に受け入れられるようになっていきました。

 

このような佐藤さんの独創的で鮮やかな創作花火は、大曲の花火として日本国内でも有名になっていきました。

 

一方、当時のドイツの花火は赤単色、放射状に打ち上げる筒状のものが主流で、佐藤さんの色とりどりの美しい創作花火がドイツの夜空に打ち上げられると、その色鮮やかさに30万人の西ドイツの人々が熱狂し、大成功となりました。

 

日本の花火の美しさと高い技術は大きく賞賛され、佐藤さんは一躍ドイツで有名な花火師となったのです。

 

その4年後にも、西ドイツのライン川沿いのデュッセルドルフで大曲の花火が打ち上げられ、この時も新聞に大きい取り上げられ、大変大きな反響を呼んだのでした。

 

そして、後の1987年、西ドイツ政府はベルリン市の750周年記念祭典の花火の総括を佐藤さんに依頼しました。

(当時のベルリン市は、ベルリンの壁により、西ベルリンと東ベルリンに分けられていました)

 

冷戦中の政府からの依頼に対し、佐藤さん自身も戦争で多くの友人や知人を亡くした経験から、平和のメッセージを伝えるためにこの依頼を受けることにしました。

 

また、佐藤さんが抱き続けていた信念である「火薬は人を殺すためのものではなく、平和のために使われるべきだ」という考えもこれを後押ししました。

 

国を挙げた行事の準備に多忙を極め、3日前に日本の花火師20人と現地入りした佐藤さんでしたが、

初日はドイツ人花火師のあまりにもずさんな仕事ぶりに衝突してしまい、日本人職人だけで修正作業を行う中、佐藤さんの疲れはピークに達していました。

 

しかし、日本人花火師たちの熱心な仕事ぶりに、熱意を感じたドイツ人花火師たちも手伝い始め、準備は何とか間に合いました。

 

そんな中、打ち上げ前日に現地の報道人約50人を前に、インタビューで佐藤さんの話した何気ない言葉が、歴史にも残る大きな反響を呼ぶことになったのです。

 

「ベルリンの地上には壁がありますが、空に壁はありません。

 日本の花火はどこから見ても同じように見えます。西の方も東の方も楽しんでください」

 

この言葉は、翌日の新聞紙面の第一面を飾ったばかりか、ドイツ国民の心に深く響き、東西ドイツの合併を促す奇跡へとつながっていきました。

 

花火打ち上げ当日は、大勢のドイツの人々が見守る中、7000発の日本の花火が上がり、ベルリンの壁を挟んで、向こう側の東ドイツからも大歓声が聞こえたと言います。

 

当初は80万人の予想でしたが、佐藤さんの発言もあってか200万人もの人々が集まりました。

 

壁を挟んで、西も東もドイツ国民は同じ花火を見て同じ気持ちになり、統一の気運が高まり、この2年後のベルリンの壁崩壊のきっかけの一つとなったのです。

 

大曲の花火は、その後もカナダやタイ、台湾などに招かれ、人種や国籍、宗教や思想などを越えて、見るものを感動させる世界の共通言語として多くの人々の心を打ったのでした。

 

日本の花火は現在のドイツでも毎年打ち上げられています。

 

過去に佐藤さんが花火を打ち上げた場所であるデュッセルドルフでは、日本とドイツの有効を祝う「日本デー」が毎年6月に開催され、多様な日本文化を紹介し、人々が日本の芸術やスポーツなどを体験できるイベントとなっています。

 

それは、ドイツ国内でも非常に大規模なイベントの一つであり、そのフィナーレとして日本の花火師が企画・実践する伝統的な花火が夜空を美しく彩っています。

 

昨年(2023年)の日本デーのフィナーレでは、25分にもわたる圧巻の花火ショーを披露し、観客たちを魅了しました。

 

【日本の素顔】より