⭐️やさしさ通心…No.736 | yasashisatuushinのブログ

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心に栄養補給を!!
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毎週土曜日の午前10時に配信しています。

2024年4月20日(土)

 

おはようございます。

今朝の大阪は良いお天気になりましたが、ここ数日は黄砂が気になりますね。

 

黄砂で喉を痛める方が多いようですから、外出する時は、マスク着用がいいかも知れません。

 

ところで皆さんは、「チュロス」という食べ物をご存知でしたか? 笑

 

恥ずかしながら私はこの歳になって初めて、先週の児童擁護施設でのボランティアで知りました。笑

 

よく、USJやディズニーランドで結構高い値段で売っているそうなんですが、ドーナツを長く伸ばしたような食べ物です。笑

 

今年は、その「チュロス」を油で揚げて売る屋台のお手伝いだったんですが、何と、土日の二日間で1580本の「チュロス」が売れました。

 

1本250円で販売しましたから、40万円近くの売上です。子供たちの為に役に立つといいなと思いました。

 

それと嬉しかったのは、何と、その児童擁護施設の卒園生で、今は3児のお母さんになっている方が、最近副業で私たちと同じ保険会社の代理店の仕事を始められたみたいで、今回のボランティアに参加して下さったことです。

 

「知らなかった」とおっしゃっていましたが、たくさんの仲間が増えることは嬉しいですね。

 

さて、今朝も日本の桜のお話をご紹介させて頂きます。

 

日本の桜が、日本と世界の国々との友好に役立っているんだとなと、改めて思いました。

 

『ベルリンの壁の跡地に桜を植える日本人』

 

ベルリンの壁は冷戦時代の1961年にドイツのベルリンに作られ、ドイツは東西に二分されました。

 

その背景は、第二次世界大戦後、勝利した連合国の資本主義国家であるアメリカ、イギリス、フランスが西側を占領し、東側を共産主義であるソビエト連邦が占領しました。

 

しかし、多くの住民が自由を求め東ドイツから西ドイツに移りたがり、この住民の移動を止めるため、東ドイツ政府が「ベルリンの壁」を建設したのです。

 

全長約155キロメートルの壁は約28年間、人々が自由に移動するのを阻止し、東西のドイツ人を分けていました。

 

この高く分厚い壁は、有刺鉄線、監視塔、自動銃発射装置、地雷等の厳重な警備システムで守られ、壁を越えようとした多くの人が射殺され、少なくとも136人が亡くなったとされています。

 

1989年に壁は壊され、ドイツは再び一つになりましたが、人々の心の傷はすぐに癒えることはありませんでした。

 

当時、この歴史的な出来事を間近で見ていた一人の日本人がいました。

 

その人物は寺崎哲夫さんで、テレビ朝日社員としてベルリン支局に駐在していました。

 

東西ドイツから人々が往来する姿を見た寺崎さんでしたが、苦しい記憶は消えませんでした。

 

「きっとドイツの人たちも同じ気持ちだ。この忌まわしい壁の跡地を見たくない人も多いだろう。

 これをどうすればいいのか。何かいい方法はないか?」と、寺崎さんは頭を悩ませていました。

 

そんな時、テレビから聞こえてきた言葉にハッとしたそうです。

 

「壁が壊されました! ベルリンにとって新しい時代です!」

 

寺崎さんは、「新しい時代」という言葉に、日本の記憶が呼び起こされました。

 

「そうか、新しい時代だ…。古い時代が壊れ、壊れた場所から再生する物語が始るんだ」

 

寺崎さんは電話を取り、テレビ朝日の以前の上司に電話をかけ、落ち着いた声で話しました。

 

「ベルリンの人々の心の傷を癒すためには、平和と再生の象徴である桜が必要です。

 できるだけ多くの桜を日本から送ることはできませんか?」

 

そうして、ベルリンの壁崩壊後まもなく、テレビ朝日が主体となり、日本で「ベルリン市民の心の安らぎと平和を願って、壁跡地に桜を植樹しよう!」と「桜キャンペーン」が始まり、日本とドイツで大きな反響を呼びました。

 

当時の日本でも、壁の崩壊に対する驚きや平和への希望、新たな時代の始まり等と報道されていました。

 

世界的な注目の中、平和や希望のために寄付したいという人も多く、寄付した人の中には、自分のお小遣いの中からお金を出した子供たちもいました。

 

そうして約2万人もの寄付者から、当時の額で約1億4千万円もの募金が集まりました。

 

しかし、お金は集まったものの、ベルリンの壁の跡地に桜を植えるプロジェクトを進めるのは困難を極めました。

 

寺崎さんとベルリン市やポツダム市の担当者が、途方に暮れるほどの問題でした。

 

まず、崩壊したばかりの壁跡地の所有者が誰なのか?はっきりせず、特定する必要がありました。

 

さらに分断当時、壁を越える人を見逃さないように、除草剤で草一本残らず枯らしてしまったため、壁の跡地の土壌は、「死の帯」と呼ばれるほどひどく汚染されていました。

 

また、冬になると野生のウサギに桜の苗木の樹皮をかじられるなど、桜の木を長期的に管理・育成できる体制を一から整える必要がありました。

 

これらの課題にベルリン市とポツダム市の緑地課の担当者と何度も話し合い、1990年11月10日、ついに両市の境にかかるグリーニッケ橋の横に、最初の2本の桜が植樹されたのです。

 

この橋は、東と西のスパイが交換される冷戦を象徴する場所であったため、ここから平和と希望を意味する桜の植樹が始まったことに大変大きな意味がありました。

 

その後、両市の協力を得て、壁跡地の他に、市民公園、幼稚園、学校、墓地などに植樹は続きました。

 

しかし寺崎さんは、「ドイツ人は日本人のように桜を愛でてくれるだろうか?」と不安に思っていました。

 

それは、ドイツでは観賞用の桜は一般的ではなく、桜は実を付けるものだと考えられていたからです。

 

しかしその不安は、春に桜の場所を訪れた瞬間、安堵に変わりました。

 

そこには多くのドイツ人たちが桜の下に集まり、満開の花を見ながら和やかに過ごしていたのです。

 

そして、植樹が始まった20年後の2010年11月9日、桜キャンペーン最後の植樹として、ベルリンの壁が最初に壊されたボーンホルマー通りに23本の桜が植えられました。

 

最後の桜を植える式典では、当時の市長は「日本が長年に渡って贈ってくれた桜は、日本とベルリンの連帯を示すものだ」と謝意を述べました。

 

一人の日本人の行動が2万人の日本人を動かし、それが心温まる奇跡を起こしたのです。

 

日本からベルリンに贈られ植えられた9千本を超す桜は、今も春になると花を咲かせています。

 

西と東を隔てていた悲しい歴史は変わりませんが、壁の跡地が市民の憩いの場所に生まれ変わり、毎年春になるとピンクや白の桜の花に埋め尽くされ、住民は感慨深い思いになるそうです。

 

これらの桜の近くの石碑には、「この桜は日本の市民から送られたものだ」という説明が書かれています。

 

また、小林一茶の俳句

「花の陰 あかの他人は なかりけり」

も書かれています。

 

これは、「この桜の花の下に集まる人々は、人種や国籍、肌の色や民族、宗教等が違っても、全くの他人はいない。同じ気持ちで出逢う縁のある人々だ」という意味です。

 

そして、このベルリンの壁跡地の桜並木では、2002年から毎年4月の最終日曜日に「HANAMI」と称して桜祭りが行われ、多くのドイツ人、日本人が集まり桜を見ながら盛り上がっています。

 

そんな桜を通したドイツの人々の日本に対する思いは強く、東日本大震災の後、誰が指示するわけではなく、ドイツ各地の桜には、献花やろうそく、追悼の手紙などが添えられていました。

 

【日本の素顔】より

 

⬜︎GoogleやYahoo等のインターネットで『ベルリンの壁跡地桜』と入力すると、たくさんの画像が出て来ますので、良かったらぜひご覧下さい。

 

https://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000298019.html