⭐️やさしさ通心…No.727 | yasashisatuushinのブログ

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心に栄養補給を!!
週に一度は良いお話で、心をリセットしましょう。(笑)
毎週土曜日の午前10時に配信しています。

 

おはようございます。

 

先週のやさしさ通心で、「国旗を掲揚しましょう」と呼び掛けさせて頂きましたら、何人もの方から、日の丸の写真と一緒に「国旗掲揚しました!」とご連絡を頂戴しました。

 

特に、長野県と兵庫県北部にお住まいの方からは、真っ白な雪景色の中の「日の丸」の写真が、とても綺麗でした。

 

私も、ベランダに掲げました。

 

さて、今朝のお話は、「偽善上等」というお話です。

 

元旦に発生した能登半島地震の被災者の避難先で、自ら包丁を握り食事を振舞ったのが、俳優で歌手の杉良太郎(79)。

 

東日本大震災をはじめ、被災地に駆けつける杉のボランティア活動は今や、多くの人が知るところとなっている。

 

「東日本大震災の際は車両20台で救援物資を運び、宮城から福島へと長期にわたり移動を続け、多くの人たちを励ましている。

 

驚かされるのは今年80歳になる杉さんの体力だけでなく、これらのボランティア活動はすべて私財で行っていること。費やしたお金は40億円はくだらないそうです。

 

その杉の活動に対してあがる「売名」「偽善」という声には、「ああ、偽善で売名ですよ」「私のことをそういう風におっしゃる方々も、ぜひ自腹で数十億出して名前を売ったらいいですよ」と意に介さない。(日刊ゲンダイより)

 

杉良太郎さんの活動も凄いなと思いますが、民間人の方の中にも、たくさんの寄付をされていらっしゃる方々がいらっしゃいます。

 

今朝はそのお一人、佐賀県の古賀常次郎さんのお話をご紹介させて頂きます。

 

佐賀市在住の古賀常次郎さん(84)は60年以上、罪を犯したり非行に走ったりした人の立ち直りや、子どもたちの教育のために寄付を続けてきた。その総額は今年、10億円を超えた。

 

「世の中のために使ってほしい」との思いをこめる。

 

1月16日、県庁で寄付金の贈呈式があり、古賀さんが山口祥義知事に5350万円の寄付の目録を手渡した。

 

県、佐賀市を含め、小学校、更生保護協会、発明クラブ、フードバンク、スポーツ協会などさまざまな分野の50団体が寄付先として並ぶ。

 

古賀さんは少年時代、傷害事件を起こした経験があり、青少年の立ち直りを支援する更生保護の取り組みに力を入れてきた。

 

20代だった1967年に、振動でゆるまない「段付皿ビス」と「皿ビス用スプリングワッシャー」という部品を発明したことでも知られ、ビル管理会社も経営した。

 

贈呈式では、「子どもたちへの温かなまなざしをもって支援を続け、子どもたちが大きな志で未来を切り拓(ひら)く本県の子育て事業にも多額の寄付をされた」として、山口知事から感謝状も贈られた。

 

山口知事は「これまでどれだけ多くの佐賀の子どもたちが、古賀さんの厚意で助けてもらって志をとげたのかな、と思う」と謝辞を述べた。

 

古賀さんは取材に対し、「世の中のためということ」と寄付への思いを語った。

 

古賀さんは18歳の頃、別の少年とのいざこざで殴り合いになった。傷害容疑で逮捕されたが、家裁調査官らは「きっとこの子は更生する」と、少年院送致ではなく、保護観察処分にした。

 

「自分を信じてくれた大人たちを裏切るまい」。心を入れ替えて町工場で働いていた19歳の頃、ボランティアを行う青少年活動団体などに100円ほどの寄付を始めた。

 

29歳のときにビル管理会社を設立し、額を増やしていった。寄付した先は、母校の佐賀市立巨勢こせ小学校など約50団体に上る。

 

巨勢小の図書館には、寄付金をもとに2300冊以上そろえた「古賀文庫」がある。寄付を受けた児童福祉施設からは「子どもたちが過ごしやすい環境を整えることができました」と感謝の手紙が届いた。

 

「失敗しても人は努力をすれば変われる、と伝えたい」と古賀さん。「忍耐と努力を続け、恥じない生き方を貫きたい」と語った。

 

中学時代は近隣でも有数の暴れ者であったが、恩師の援助もあり電機メーカーの下請け工場の八雲製作所に就職。

 

しかし、ほどなく傷害事件を起こし逮捕される。少年事件でもあり鑑別所に送られたが、それまでの勤務態度が真面目であったことなどから10日間の拘留で保護観察処分となる。

 

このことが更生保護活動へ取り組むきっかけとなった。

この頃から勤労青年によるレクリエーションサークルの古賀グループを設立。

のちにBBS運動(Big Brothers & Sisters)や選挙事務所の手伝いなどにも活動を広げ、政財界に知己を得るきっかけとなる。

 

1960年(昭和35年)に転職した先の佐賀機械は関連会社とはいえ大企業であったため、学歴の不足を痛感し、翌1961年(昭和36年)に佐賀県立佐賀高等学校(現・佐賀県立佐賀西高等学校)の定時制に入学した。

 

通学途中の列車内で窓枠のビスが緩んでいるのを見、振動で緩まない皿ビスを着想する。

 

1967年(昭和42年)、佐賀機械を退職した。同年、定時制時代に着想した「段付皿ビスと皿ビス用スプリングワッシャー」で西ドイツにおける特許を取得。

 

さらにイタリアやフランス、日本での特許も取得し、1969年(昭和44年)に新技術開発財団(通称市村財団)の、第一回市村賞を受賞する。

 

また、同年、佐賀県からもそれまでの青少年健全育成活動とあわせて、県政功労者表彰を受けている。

 

1968年(昭和43年)、ビル清掃業の古賀商事を設立した。その後は事業による収入などで得た資金をもとにそれまでも力を入れていた更生保護活動のほか、教育の振興や青少年の健全育成などを目的に率先して寄付を行っている。

 

寄付総額は65年間で10億円を超えている。その功績により、公的機関に多額の寄付を行った者に贈られる紺綬褒章を幾度となく受章したほか、1994年(平成6年)には更生保護活動部門で藍綬褒章を受章している。

 

「時間に遅れない」「嘘をつかない」「お世辞を言わない」「他人のせいにしない」「他人の手柄を自分の手柄としない」の五つの誓いを自らに課している。

 

佐賀機械時代には組合対策も担当、上部団体として乗り込んできた日本労働組合総評議会との折衝も行った。

 

中学校は父から農作業を強制されていたことなどからほとんど通学しておらず、学業の成績は悪かった。

 

言葉も佐賀弁しか喋らないため、特許の申請を相談された弁理士の小池晃(後の日本弁理士会会長)は、古賀の早口の佐賀弁は「英語やロシア語より分からなかった」と述べている。

 

【ネットニュース、ウキペディア等】より