義仲寺。
膳所駅の近くにひっそりとある寺。
この寺の創建については不詳であるが、源義仲(木曾義仲)の死後、愛妾であった巴御前が墓所近くに草庵を結び、「われは名も無き女性」と称し、日々供養したことにはじまると伝えられる。from wiki
義仲寺の名前の通り、木曽殿の墓です。その墓の横に、松尾芭蕉の墓がある。
木曽殿と 背中合わせの 寒さかな
又玄(芭蕉の弟子)
この木曽殿、古典でやりました。粟津でやられるところ。
彼の人生を振り返ります。コピペしながら。http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic35.html
1歳の時に父・義賢が義朝(頼朝の父)との対立の中で殺され、義仲は乳母の夫・中原兼遠に長野県南西部の木曽で育てられた。
1180年4月(26歳)、清盛が強引に安徳天皇を即位させると、平氏の独裁に不満を抱く後白河法皇の皇子・以仁(もちひと)王が平氏打倒を全国に訴えた。これを受けて8月に伊豆で頼朝が、そして9月に義仲が信濃国で挙兵
1183年3月(29歳)倶利伽羅(くりから)峠で、平維盛(これもり)率いる義仲征伐軍と激突。義仲軍5万に対し、平家側は10万の大軍。兵力は半分だったが、分隊を平氏軍の背後に回らせ、断崖の近くで夜襲をかけた。地の利を生かした戦法で圧勝した結果、平氏軍は一夜にして10万の兵がわずか2万まで激減するという空前の大敗北を喫した。
7月末、平家一門は義仲の追撃を恐れて神戸、九州へと都落ちしていく。その2週間後に義仲は比叡山にいた後白河法皇を保護し平安京に入った。都の人々は傲慢な平家を追い出してくれた英雄として義仲軍を喝采で迎え、東方(木曽)から日の出の勢いで上洛した彼を“朝日将軍(旭将軍)”と呼び讃えた。
義仲軍は都で兵糧を補給することが出来ず、腹を空かせた兵たちが民家へ押し入るなど、人々への略奪を始め、評判を落とす。
西に平家、京に義仲、東に頼朝と3すくみの状態になる。
1184年1月 頼朝6万の兵に義仲7千の兵で宇治川の合戦。
このあと粟津でやられます。幼馴染の話とか巴御前の話とかもいい話です。
実際、歴史の表舞台には1183年3月~1184年1月までしかいません。
急に出てきて、急に去っていった木曽殿。田舎からでてきて、いきなりあの平家を倒して都から追い出した。しかしそれ以降うまくいかず、頼朝軍にやられる。
儚いわ~。と僕でも思います。
人生うまくいかへんこともあるやん。人から嫌われてしまったりして孤独になって・・・。
かれの人生はカゲロウよりも儚い。
上がって下がって嫌われて、親戚にやられる。
でも、死んでから巴御前がしっかり供養してくれるなんて素敵な恋バナもついてくる。
義経、頼朝、義仲を好きな順に並べなさいといわれたら。
義仲→義経→頼朝。
義経も好き。儚い。強いけど、頭が(政治力)弱いのも好き。最後もかわいそう。
頼朝は、嫁次第!
ちなみにこの義仲の墓の少し離れたところに巴御前の墓がひっそりとあります。彼女は生涯ここで義仲を見守り続けたようです。
義仲寺 滋賀県大津市馬場1-5-12 大人200円、中学生150円、小学生100円
芭蕉のてぬぐい土産アリ!!
奥の白っぽい宝塔が義仲の墓です。