こんにちは。
今回は「常識を疑い、主イエスを信じて行う者となれ」と題し、信仰生活を始めた経緯と小生が目指す生き方についてお伝えしたいと思います。
(※当記事は太陽暦二千二十六年三月八日に別媒体に投稿した記事を一部加工、転載しています。)
常識を疑え
「常識を疑え」という言葉を目にしたり、耳にされた方は多いと思います。小生がこの言葉が気になったのは十数年ほど前のことだったと記憶しています。当時、小生は定年後の七十歳まで続く多額の借金をして関東地方に居を構え、二人の息子の父親として何不自由ない普通の会社員として日常生活を送っておりました。国内社員数が一万人規模の大企業に勤め、決して広くはないものの新築の家に住み、愛する家族たちとの生活がこのままずっと続くことを願いつつ漫然と時を過ごしておりました。
勿論、会社に不満が全く無かった訳ではありません。様々な不満や将来に対する不安を抱えておりました。太陽暦二千十年頃から、多くの国内大企業が国際化に対応する事を至上命題として掲げ、楽天やユニクロなどの有名企業が社内公用語を英語にしました(参考記事はこちら、現代ビジネス ※当該記事では英語を公用語とするのは愚策だと結論付けており、個人的にはこの意見に概ね同意します。)。小生が属していた電機機器製造企業も多分に洩れず英語学習が推奨され、課長からは「TOEICで八百点を目指せ。そのレベル(水準)まで達すれば、世界観が変わるぞ。」などと言われておりました。また、社長からは「国際化への対応」の他に「変化対応力を身につけろ」、「デジタル化社会へ対応しろ」、「業務を見える化しろ」などの檄が飛ばされておりました。小生は開発者として勤めていたのですが、開発とは名ばかりでパソコンで仕様書を作成し、それを支那の深圳や台湾にある開発生産委託先企業に任せる自社工場を持たないやり方、俗に言う「ファブレス」方式で事業は進められておりました。多くの方がご存知のとおり、支那人は日本人と違って、遠慮を知らず我が強い人が多いです。彼らとは、電話や電子書簡(Eメール)を用いて日常的に英語で会話を交わしていましたが、開発に着手する際や、製品の試作をする際、販売している製品に重篤な問題が見つかった際などは直接支那の深圳や台湾に出張し、数日間に渡って先輩社員と二人で綿密な打ち合わせを行うのは大変でした。所属部門の課長は営業出身で、技術的なことについては任されていたものの、費用や納期については妥協を許さない人でした。彼からは「委託先企業と階層(レイヤー)毎に『ウィンウィン』(相手も自社も得をするような)の関係を構築しろ。」と発破をかけられ、交渉相手からは合理的な説明を求められる板挟みの場面が度々ありました。企業間の責任分界点の定義付けを行う(責任範囲を明確にする)場かつ、腹の探り合いの場なので、忍耐強く交渉する事や法の知識が求められ、責任感に押し潰されそうになることが頻繁にありました。当時、小生のことを指導してくれていた先輩社員からは口酸っぱく「開発担当者は担当機種の回路図を覚え込め。」、「ソフトウェアの構造をしっかりと理解しろ。」、「問題が発生したら、なぜ、なぜ、を五回繰り返しなさい。」などと言われておりました。こちらの記事(びずすきる)で解説されているように、『問題となった事象に対して論理的に「なぜ?」を繰り返し問い、再発防止につながる本質的な原因(真因)を特定するため』に、この手法(なぜなぜ分析)は広く用いられており、技術系の職種に就業されている方ならご存知の方が多いと思います。違和感を感じた事象について「なぜ、なぜ」と疑問を持って問いを立てて論理的に思考することにより、問題の真因を突き止められるようになります。交渉相手にこちらの意図を理路整然と説明できるようになり(説得力が向上し)、企業や個人が直面する課題や問題の本質的な原因を見極め、効果的な解決策を立てて実行する力(問題解決力)も身に付きます。自分が成長している実感が得られたり、仕事に没頭して残業による高い給与を得ることに満足した振りをして、本当に大切なことからは目を背けながら会社人間として、自分を欺きながら生きていたように思います。
それから三年ほどの時が経ち、職場環境は少しずつ、確実に、悪化の一途を辿っておりました。委託先企業は欧米資本の巨大企業の傘下に入り、指導してくれた先輩社員は希望して他部門に移籍していきました。課長は相変わらず同じ人でしたが、社内では事業の「選択と集中」が断行されて、所属部門は他部門に吸収される事になったようなのですが、その情報は経営層のみで共有されていて、箝口令が敷かれ、末端の一般社員に知らされる事はありませんでした。社内の天下りで突然やって来た事業部長は言います。「当社はコンプライアンス(法令遵守)企業として…」、「ビジョナリーカンパニー(先見性のある企業)として…」、「世の中のニーズ(要望)に応えてイノベーション(技術革新)を起こせ」、などと。
(画像引用元:真の聖書福音と預言【第六回】パウロは偽使徒 Bible, Jesus Christ, The true biblical Gospel and Prophecy(bitchute))
本人は格好良いと思って口にしてるのでしょうが、聞いてる側の人間としては苛々がつのるばかりで何が言いたいのか意味が分かりません。人間不信になった小生は常識を疑い、あらゆる事象に疑問を持つようになり、自浄作用が働かない年功序列、上位下達のピラミッド型組織で社畜として生きていくのには限界がある、と考えるようになりました。
上述したような日々を送っていた時期の数年後、小生は長らく勤めていた会社を退職し、自分で会社を立ち上げようとしてました。この頃に小生は二つの動機から自分で聖書を読んでみようと思い立ち、(口語訳)聖書を購入しました。一つ目の理由は、社内政治と日本の政財界の腐敗が連動していることに気が付き、世界を正しく理解するために世界一信者数の多いキリスト教の聖典である聖書について知っておいた方が良いだろうと考えたからです。もう一つの理由は「フラットアース」(大地平面説)という地動説は誤りで、聖書に書かれている天動説こそ正しいとする論説がネット上で密かに広まっていて、本当にそうなのかを自分の目で確かめてみたいと思ったからでした。興味本位で読み始めた聖書でしたが、読み進める内に気になる記述が次々に登場し、新たな疑問が浮かんで来ました。当時頭に浮かんだ疑問や小生の感想をいくつか列挙してみます。
<旧約聖書に関する感想>
-
聖書では一週間が七日周期であり、創造主なる神が六日で天地創造を終えられ、七日目に休まれたと書かれてる。(創世記一~二章参照)
→現代では週休二日が当たり前になっているが、聖書にあるように週六日、日中のみ働くのが自然な気がする。 -
テレビ遊戯(ゲーム)のドラゴンクエストで勇者として描かれているロトの妻は、ソドムとゴモラから逃げる際に主の御忠告に従わず、滅びる町の方を振り返って塩の柱になった。破滅を免れたロトの二人の娘は父ロトをぶどう酒で酔わせて、床に入って子種を受けた(近親相姦をした)。(創世記十九章参照)
→聖書に登場する女は主に従わず、性的倒錯者が多数派に思える。これは、現代社会においても変わってないような気がする。 -
日本の国技は相撲と野球とされているが、相撲という競技は聖書由来なのではなかろうか。(創世記三十二章二十五節参照)
-
神社の鳥居が赤い理由は、モーセがイスラエルの長老たちに命じた事に由来しているのではないか。(出エジプト記十二章参照)
-
モーセが海を割ったという話は神話だと思っていたが、歴史的事実なのではないだろうか。(出エジプト記十四章参照)
-
モーセの十戒という言葉は聞いた事があったが、モーセの律法という言葉は初めて知った。出エジプト記は何度か読み直す必要がありそうだ。
-
ヘブライ人で奴隷として仕える者は七年目には自由の身にして去らせよ、と書かれてる。(申命記十五章十二節参照)
→現代日本の会社員(=社畜)の生き方は古代エジプト王国に、酷使されていたヘブライ人の奴隷のそれと重なって見える。「終身雇用」という仕組みは、聖書に書かれた七年目には自由になるか否かを選択出来る仕組みよりも酷いかも知れない。 -
旧約聖書では「宦官」という単語が随所に登場してる。宦官は支那由来だと思い込んでいたが違ったようだ。
-
ソロモン王が著述したとされている「伝道の書(口語訳)」(新共同訳では「コヘレトの言葉」)に書いてある事は、仏教の「般若心経」に書かれている事と似ている様に思う。
<新約聖書に関する感想>
-
主イエス・キリストは旧約聖書に書かれている内容を、悉く伏線回収されているように思える。
-
新約聖書の四福音書には、権力者たちが「民衆を恐れた。」と書かれてる。(マタイ十四章五節、ルカ二十章十九節、二十二章二節参照)
→現代社会で会社の経営者や政治家、有名人らがやりたい放題放縦な生き方をしているのは、我々庶民が抗議しないからではないか。 -
この世で成功者と見做されている有名人は皆、聖書と真逆の事を行なっているような気がする。(例えば、ビートルズの楽曲「ヘイ・ジュード」の歌詞は、十二使徒の中で唯一人、金に目が眩んで主イエスを裏切ったイスカリオテのユダを励ます内容に思える。(参考記事はこちら、小石泉の礼拝説教集))
-
「信じる者は救われる」という言葉を耳にしていたが、救いの条件はそれだけでは無いように思う。
-
主イエス・キリストだけが神の御身分でありながら、肉の弱さを持った人間として生きられた唯一の方であることを確信した。キリスト教は西洋由来の宗教だと思っていたが、違う様に思える。
-
ヨハネの黙示録は難し過ぎて全然理解出来なかった。正しい解釈をしている人を探してみよう。
当時のことを思い出しながら書いてみたので正確性には欠けますが、ご容赦ください。小生は昭和生まれの中年男性で、これまで数多くの書籍を読んできましたが、再読する必要があると感じた書物は聖書が初めてでした。主イエス・キリストの名は誰でも知っている筈なのに、なんで多くの人は聖書を自分で読まないのだろう。日本人の多くは信仰心の欠片もないのにキリスト教の行事だけは生活に取り入れているのだろう。自分は今まで常識に囚われ、世に流されて生きて来た。だけど、聖書には誰にとっても、とても重要な真理が書かれている様に思える。上に挙げたように様々な聖書の記述が気になり、それと同時に、自分一人で聖書を正しく解釈することは不可能だと思い、聖書を研究している方を探す必要があると考えるようになりました。
新約聖書 マタイによる福音書 七章七~八節(参照)
尋ねよ、そうすれば与えられるであろう。探せ、そうすれば見つかるであろう。(門を)叩け、そうすれば開かれるであろう。誰でも懇願する者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれるであろう。
神との出会いは一期一会
現代はインターネットが十分に発達した情報社会です。小生はこの頃嵌っていたフェイスブックやツイッター、ライン等のSNSを用いて、聖書について検索する様になりました。『黙示録十三章の「第一の獣」は誰を暗示しているのだろうか。』探してみても、聖書に基づき納得のいく答えを提示している人は見つかりません。この頃に携挙や艱難期といった言葉を初めて知り、調べる必要がある項目は増える一方でした。聖書について正しい解釈をされいる方を探し求め、プロテスタント教会の日曜礼拝にも一度だけ参加してみたことがあります。牧師は太宰治の逸話と聖書の話を関連付けた、内容の薄い説教を聞き、高齢者だらけの参加者全員で讃美歌を歌い、日曜礼拝は終わりとなりました。牧師と礼拝参加者たちからは、「また来て下さいね。」などと声をかけられましたが教会に真理はないと知りました。以降、礼拝には一度も参加していません。 再びインターネットで真理を求める日々が始まりました。ある日、ネット上を彷徨した末、ある方のツィートを頼りに辿り着いたのがミカエル氏のブログ「真の聖書福音と預言」(アメーバブログ)でした。
どの記事だったかは覚えていませんが、初めてミカエル氏の記事を読んだ際の衝撃は今も心に強く残っています。まずは彼が約九年前にアメーバブログに投稿された記事「目を覚ませ」をご覧ください。数分で読了出来る短い記事ですが、読者の常識を覆す誰にとっても重要なことが端的にまとめられています。そして文末には、以下の様に書かれています。
最後に、聖書を旧約聖書と新約聖書ともに複数回熟読してください。新約聖書だけ読めば大丈夫ということは決してありません。そのように言う者は、聖書をまったく理解していない者です。聖書をすべて読めば、何が正しい道なのか、何が悪魔的なのかというのが分かると思います。拙者はキリスト者(主イエスの弟子)ですが、あなたに強制的にキリスト者になるようにと言っているのではありません。信教の自由ですから、何を信じてもらっても構わないのですが、ただ知識として聖書の内容を知ることは決して無駄ではありません。嘘で固められた学校教育、教科書や参考書、報道機関の情報よりもはるかにためになります。神があなたを憐れむのであれば、あなたは聖書を読んで真実を得て、あなたの魂で主イエス・キリストを信じるでしょう。
当該記事を読んでどの様に感じるかは人それぞれだと思います。しかし、個人的には主イエスが「だから、目を覚ましていなさい。何時あなた方の主が帰って来るのか、あなた方は知らないからだ。」(マタイ二十四章四十二節参照)、と仰った意味が漸く理解出来たように感じ、ミカエル氏の助言に従い、主イエスを模範として生きることが正しい道だと確信しました。神であられる主イエス・キリストにお会いしたい、真実を知りたいという気持ちが高まり、信仰を持つに至りました。
出会いは貴重な機会であり経験や。一期一会とも言うように、二度と無い機会であることもようある。賢人はそないな機会を逃さへん。へりくだって高慢にならず、他人を敬う姿勢で人を分け隔てせず、また聡明な人なら真偽を見極めることが出来、賢人を放っておくこともないし、誹謗中傷をするなんて有り得へん。
自分で探さず、ただ待ってるとか受け身ばかりで、自発的に探す努力もせんようなら、貴重な人との出会いは無いであろうし、神との出会いも無い。主イエスも「求めなはれ。さすれば、与えられるだろう。探しなはれ。さすれば、見つかるだろう。門を叩きなはれ。さすれば、開かれるだろう。」(マタイ七章七節~八節参照)と教えはったさかい。逆に言えば、自分で努力せえへん人は何も得られへんということであり、救いも得られへんであろう。
(引用元:真の聖書福音と預言「常識を疑って悔い改めよ」)
信じて行う者となる
さて、聖書を読んだ際に「モーセの律法」の存在を初めて知ったと書きました。モーセ五書と呼ばれる「創世記」、「出エジプト記」、「レビ記」、「民数記」、「申命記」の内、創世記を除く四つの書には全部で六百十三項目の律法、掟、戒めが記述されています。一般にキリスト教と認識されているカトリック、正教会、プロテスタント等の宗教組織に属する人々は、創造主なる神が預言者モーセに伝授された「モーセの律法」を、主イエスが廃止されたとする「律法廃止論」を信奉していますが、その考え方は誤りです。以下の動画をご視聴ください。
(引用元動画:真の聖書福音と預言 【第七回】何故聖書を信じるか Bible, Jesus Christ, The true biblical Gospel and Prophecy(bitchute))
主イエス・キリストは今から約二千年前に初臨された際、モーセの律法を廃止されたのではなく、その一部を更新・完成されて、それを御自身で実践されました。もし、あなたが主イエスを愛して心から信仰しているのなら、主イエスの御言葉を受け入れ、神の律法を遵守する事が当然だと思えるようになる筈です。そして、憐れみ深い主イエスの御意志に沿った生き方を志す様になるでしょう。
(画像引用元:真の聖書福音と預言 【第五回】ほんまもんの愛と暦とは Bible, Jesus Christ, The true biblical Gospel and Prophecy(bitchute))
ミカエル氏の最初の記事「目を覚ませ」が心に響いたのなら、次の記事「今までの行動を改めましょう」もご覧ください。以下、当該記事からの引用です。
ところで、聖書を読んだことがありますか。聖書はキリスト教徒だけのものではなく、すべての人に向けたものです。それ故、聖書は、世界で最も重要かつ、多く翻訳されて読まれている書物です。しかし、聖書をただ字面を追って読む、小説や歴史書として読むだけでは、はっきり言って無意味です。これを読んで、聖書と主イエス・キリストの御言葉を受け入れて、信じずに悔い改めない人は、この世の真実を知り得ず、死ぬまでこの悪にまみれた俗世界に搾取され続けた挙句、永遠の滅びに至るのです。
聖書を読むことを拒否する人は、神を拒否する人と言えます。その結果、滅びるのは当たり前です。特に、多くの日本人にとって聖書はキリスト教に触れたことがない限り、読む機会に恵まれへんかったでしょう。インターネットができる前は、今ほど情報社会ではありませんでしたし、何より、世界の権力者たちが聖書の教えを熱心に広めたないからです。世界の富豪たちは悪魔に魂を売って世の成功を収めた悪魔崇拝者たちです。
本記事をご覧のあなたは、聖書に興味をお持ちだと思います。既に聖書を通読されたか、複数回通読されたかは存じませんが、一度や二度読んだだけでは聖書の真理を正しく理解するのは難しいと考えます。しかし、聖書とミカエル氏のブログ「真の聖書福音と預言」を併読することに依り、聖書の真理、憐れみ深い神の御心を正しく理解する事が可能になり、神の慈愛を感じるようになると思います。
新約聖書 ヨハネによる福音書 三章十六節~二十一節(参照)
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、神を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは世を断罪するためではなく、世を救われるためである。彼を信じる者は有罪宣告されてない。だが、信じない者は既に有罪宣告されている。神の唯お一人の御子の名を信じなかったからだ。光が世に来たのに、人々は自身の行いが悪いので、光よりも闇の方を愛した。これが有罪宣告である。悪を行う人々は光を嫌い、その行いが有罪宣告される事を恐れて、光の方に来ようとしないからだ。しかし、真理を行う者は光の方に来る。彼の行いが神によって成されたことが明らかになるために。」
あなたの周囲を見渡してみてください。主イエスを信じない不信仰な人々は、世の常識に従い思考停止して何も考えず、悪徳政府や大企業、大手報道機関、有名人といった世の権威の発する情報を盲信し、mRNA遺伝子組み換えワクチンを接種して、遺伝子組み換え人間、マイクロチップを体内に取り込んだ結果として理知的に物事を考えることのできない獣の様な存在になりました。コロナ犯罪が始まるまでは、こんなに頻繁に救急車が走り回ることはなかったし、自動車事故を目撃することも稀でした。彼らは光である主イエスの方に来ようとせず、社会的地位を高めることや、金持ちになることを目指したり、不労所得を得ることを愛したり、暴力的に他人を支配しようとしたり、外見を磨いて芸能人になる道を選んだり、娯楽に興じて遊び呆けたりと、行いが悪く、闇を愛していたのですから、仕方がありません。
近頃、エプスタイン文書が公開されて、世界的有名人や王族等の人たちが姦淫(不倫)行為だけでなく、小児性愛といった性的倒錯行為や、人肉食、人身御供といった著しく常軌を逸した悍ましい行為を行なっていることが明らかなりました。太陽暦の二千二十六年三月五日には、エプスタインと緊密な関係にあったパランティア・テクノロジーズ創業者のピーター・ティール氏と高市首相が面会し、支配層の人々が監視管理社会の実現を目指している事が露わになりました(参考投稿はこちら、X)。高市首相もこちら(日刊ゲンダイ)のように猥褻な行為を好む人間、神から遠い悪魔崇拝者であることは疑いようがありません。現代の世相は創世記に書かれたソドムとゴモラの情景とそっくりであり、聖書読者なら終末が近いと感じる筈です。
新約聖書 マタイによる福音書 七章二十一節~二十三節(ミカエル氏訳)
「我に向かって、『主よ、主よ』と言う者全員が天の御国に入るんやなくて、我が天の父の御意志を行う者が入るんや。かの日には、多くの者が我に、『主よ、主よ、我等はあんたの御名で預言し、あんたの御名で悪霊を追い出し、あんたの御名で力ある業を行ったのではなかったですか』と言うであろう。そして、その時、我はその者らに公然と明言するだろう。『あんた方のことは全然知らない。我から離れよ、不法を行う者ども。』」
新約聖書 マタイによる福音書 十九章十七節(ミカエル氏訳)
もし命に入りたいなら、掟を守りなはれ。
新約聖書 ルカによる福音書 六章四十六節(ミカエル氏訳)
ところで、何故、我を『主よ、主よ』と呼んで、我が言うことを行わへんのか。
新約聖書 ヨハネによる福音書 十四章十五節(ミカエル氏訳)
もしあんた方が我を愛してるなら、我が掟を守る。
上記の聖句から分かるとおり、主イエスは神の民なら主イエスの御言葉どおりに神の律法、掟、戒めを守るし、父なる神の御意志を「行う」とある。つまり、信仰には行いが必要不可欠やし、神の律法、掟、戒めを守ることも必要不可欠ということや。
新約聖書 ヤコブの手紙 二章十七節(拙訳)、二十六節(ミカエル氏訳)
同じように、もし信仰が行いを伴わへんなら、それだけでは信仰は死んだものや。
(中略)それ故、霊無き肉体が死んでるように、同じように、行いを伴わへん信仰は死んでる。
(引用元:真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 五」)
上記引用文にてミカエル氏が解説されているように、神の民(=真のキリスト者)なら神の律法、掟、戒めを遵守し、信仰を行いで示すことが必要不可欠です。悪魔崇拝者である支配層の人々や不信仰の人々のように悪い行いをするのではなくて、主イエス・キリストを模範とした生き方を行いで示し、人目を気にしたり臆したりする事なく真理を宣べ伝えて、何事も慈愛を持って行える者に成りましょう。
今回は、信仰を持つ様になった経緯とようになった経緯と、真のキリスト者は信仰を行いで示す必要があることをお伝えさせていただきました。読者のあなたもご存知のように、聖書に預言されているように、世相は悪化の一途を辿っており、すべての人の恩寵期間が終わる大艱難の到来は目前まで迫っていることに間違いありません。
小生もまだ、ミカエル氏が監督されている「神のイスラエル教会」に進めていない外部の者ですが、己が弱点を一つずつ克服し、ミカエル氏が一月半程前に投稿された「大事な告知」(アメーバブログ)を読み込んで教会入試試験に臨み、教会員になれるように励みます。
当記事を読むことが、読者のあなたが信仰を持つきっかけとなりましたら幸いです。最後までご覧いただきありがとうございました。




