山本昭彦のブログ -3ページ目

戦略と言い、戦術と言う

 

 

礼と云い礼と云う

論語の一節だ。

これに「玉帛ぎょくはくを云わんや」と反語がつく。

礼を学び礼を知れとうるさく言われるが、

それって祭礼用の立派な道具をそろえることか?ちがうやろ!

という意味になる。

 

 

だがこれは、古代中国における「礼」の真意を知らないと

礼=礼儀作法としか訳せない私たちにはピンとこない。

なので、これをさらにわかりやすく意訳するとこうなる。

 

 

アウトドアと言いキャンプという。

それってコールマンやスノーピークを買いそろえることか?

ちがうやろー!ってことだ。

建売住宅かよ?レベルの豪華テントを

推定一時間かけ四苦八苦して組み上げている隣のおとーちゃんを尻目に、

私たちは数分でノーブランド簡単テントをおったてて露天風呂に行った。

つまりあのことだwww

 

 

戦略と言い戦術と言う。

やたら使われる単語だが、誤用=両者の取り違えが結構多い。

ぶっちゃけて意訳すると、

戦略とは戦争に勝つ方法。

戦術とは限定された戦場で勝つ方法。

ついでに書くと、戦法とは個別の戦闘に勝つ方法だ。

 

 

前回の記事で私は

洗い物なんぞ芸術的に少ない水で済ますとフカした。

水不足関連の記事だったので、

きみはとーぜん、私がシンクの中で、

どのように水を使い、どのように洗うのかを想像する。

こまめに水道を止めるのか、ため置きの水を活用するのか、とかな。

だがそれは「シンクの中」という「限定された戦場」における、

すなわち戦術に過ぎない。

 

 

近江商人あるいは京都の商家。

彼らの食事は箱膳=はこぜん でとった。

箱膳とはなにか?

ひと抱えほどの箱の中にひとりぶんの食器が納められている。

食事の際にはその箱自体がひとり用のお膳として使われる。

これが家人や使用人ひとりびとりに一個与えられており、

それぞれが自分の責任で管理する。

つまりその木箱は、

パーソナルな収納ボックス&テーブルってことだ。

これを箱膳という。

 

これな

 

 

食事の最終段階。

ごはんは一粒残らず食べ、椀の味噌汁は飲み干す。

それからお茶か白湯を汁椀に注ぎ、椀の内壁をちゃちゃっと洗う。

次に、汁椀の湯を飯碗に移し、同様に碗の内壁を洗う。

最後にその湯を飲み干し、汁椀と飯碗の縁を手拭いで軽く拭う。

でもって、そのまま箱の中に収め、箱ごと所定の場所にしまう。

こうすれば洗い物はゼロってことになる。

私はきみたちにすすぎ茶を奨励した。

箱膳ほどではないにせよ、そうすることで、

お母さんの洗い物の手間を少なくすることができると教えた。

箱膳の知恵である。

 

 

でもさー。

近江商人なら琵琶湖の魚の佃煮とか食べるわけやん?

小皿にはべったり醤油のタレが残るわけやん?

そんなのはどうしたわけ?

いい質問ですが知りません。

そこは勝手に想像しろ。

私はきみたちに目玉焼きの食べ方も教えた。

食事が終わるまで必ずパンを少し残しておいて、

最後にそのパンで、皿に残った黄身を拭き取るようにとな。

だったら想像できるやろ。

醤油のタレはたくわんで拭ったか、

あるいは手ぬぐいのはしっこを白湯に浸して拭き取ったか、

まあそんなところだろうよ。

 

 

これが戦略だ。

洗い物の水を芸術的に少なくする方法。

それはすなわち洗い物自体を発生させないことである。

孫子も言っとる。

戦わずして勝つ、これがサイコーなのよと。

わかっとるかね?マクロン君。

 

 

箱膳はもうひとつの教訓を含んでいる。

清潔キチガイになるなということだ。

最後に箱膳に収められる味噌汁の椀をどう思うか。

え~?でもそれってお茶ですすいだだけよね?

ちゃんと洗剤で洗わないとイヤー!

こんなお姫様根性では生き残れない。

すすいだのが白湯ではなくお茶ならなお良い。カテキンを信じろw

 

 

物価の値上がりがはなはだしい。

3月はペットボトルのお茶も値上がりするとか言ってる。

飲まなきゃいいだろw

お茶はペットボトル入りを買って飲むものだとなぜ思い込む。

 

 

うちでは粉茶を使う。

煎茶を製造するときに発生するお茶ッ葉のクズを集めたもの。

とーぜん安い。

安いがちゃんとした寿司屋なんかでもこれを使う。

なぜなら茶葉が最初から粉砕された状態なので、

お湯を注いだ瞬間にお茶になる=熱々の茶をすぐに客に出せるからだ。

水を注いでも一時間もすれば立派なお茶になる=光熱費ゼロ。

朝マイボトルに仕込んでバッグに入れとけば、

出かけた先のコンビニでペットを買う必要はゼロだ。

 

 

むろんお茶にも色々ある。

ちゃんとした玉露だのを飲みたい者はそうすればいい。

だが私はオチャよりオチャケのほうが好きなので、

お茶はそんなのでいい。

それでもペットのやつよりは100倍うまい当社比。

 

 

人間は、いま使っている道具に慣らされる生き物だ。

つまり今の生活レベルをデフォルトと思い込んでしまう生き物だ。

それが脅かされる時、人びとは政治を批判し、

政治家は人びとの不満をそらすために外国の悪口を言う。

風吹いて桶屋的に言えば、

ペットボトルのお茶が飲めなくなったからと戦争すんのか?ってことだ。

そんなの飲めなくていいから戦争すなよニッポン。

 

 

目玉焼きだがな。

パンで拭えない場合=ご飯のおかずだった場合はどうするのか?

この疑問に答えておこう。

最初っからノッケ=目玉焼き丼で食いなwww

 

 

 

 

きみはトイレの水を飲めるか

 

 

偶然こんな記事を目にした。

今回は福岡の水不足について語る予定だったので、

まずはこのネタから入る。

 

ダム貯水率ついに9.9%に…福岡の海水淡水化センターが異例のフル稼働 24時間で3万トンの真水を生産 国内最大の施設
 

別にリンク先まで飛んで熟読する必要はない。

要は、福岡市では現在、

海水の淡水化プラントがフル稼働中!ってことだ。

 

 

実は、私はその存在を知らなかった。

えええええー? そんなのがあったのかよー!って感じ。

だいたい私は「市政だより 読みもしないで 古新聞」な人間だし、

そういうことを伝えるローカルニュースもまず見ない。

特に福岡のローカルな情報番組は、

出演者が仲間うちで騒いでいるだけ=なにしろやかましいので見ない。

てなわけで、

私はこの淡水化プラントのことを全く知らなかったのである。

 

 

記事によれば、このプラントは海の中道にある。

目と鼻の先やんけ!

でもって、ここで作られた真水が供給されているのは福岡市東部。

うちやんけ!

 

 

船の上では真水はもっとも貴重な物資だ。

102号哨戒艇の出口さんによれば

コップの底に残った僅かな水を海に捨てただけで

その倍の鼻血が出るまで殴られたというから凄まじい。

ところが原子力空母や原潜ではそうじゃない。

彼女たちは原子炉の熱を利用した海水淡水化装置を備えている。

だから乗組員は飲み放題、シャワー浴び放題、洗濯し放題だ。

 

 

福岡市の淡水化プラントは、

簡単に書くなら海水をフィルターで濾過して淡水化するので、

厳密には原潜ウォーターとは違うものだ。

だけどさ。

なんにせよそれが淡水化プラントで作られた真水と思えば、

そっかー、これが原潜の中で飲まれてる水なのかーって気になるじゃん。

というわけでこの数日、

私はブリタで濾過した水道水をまことに感慨深く飲んでいるのである。

 

 

淡水化プラントで、もひとつ思い出すのがガザだ。

イスラエルは北部でこそそれなりの降雨量を見込めるが、

ガザを含む南部は乾燥した気候で、南には砂漠が広がっている。

そんなガザの人びとに飲み水を供給していたのは淡水化プラントだった。

それがイスラエル軍の侵攻によってほぼ壊滅した。

それから2年ちょい。人びとはいまだに雨水をすすって生きている。

というわけでこの数日、

私はトイレの水を流すたびに、まことに申し訳なく思うのである。

さて本題はここからだ。

 

 

2年ほど前のことだ。

昼の情報番組でこんなのがあった。

私たちは1日にどのくらいの水を使っているか?

 

 

番組では最初にその数字を揚げた。

それは450リットルです!

コメンテーターたちはどよめきを上げ、

私は???の沼にはまった。

 

 

私は番組を見ながら暗算していた。

その数字は4人家族の場合という前提だったのだが、

飲む水や料理に使う水なんてたかが知れてる。

となるといちばん大量に水を使うのは風呂か。

バスタブいっぱい180リットル使うとして、

食器洗って洗濯してトイレ流してどーたらこーたら。

しかしどう計算しても350リットル行くか行かんか。

司会者はそれらの使用例を紹介し、最後のフリップを指した。

洗車!これがまた大量に水を使うんですねー!

 

 

またんかーい!

一年365日年中無休で毎日洗車するやつおらんやろ!

私は思わずそう突っ込んだのだが、ア+キレたのはその後だ。

ずらりと並んだコメンテーターの誰ひとりとして

またんかーい!

一年365日年中無休で毎日洗車するやつおらんやろ!

そう突っ込んだやつはいなかった。

全員が全員、

なるほどねー私たちこんなに使ってたんですねー的に納得してた。

収録前の打ち合わせでは、誰かがまたんかーいと言ったかもしれない。

だが、番組をできるだけセンセーショナルに盛り上げるために、

ディレクターから「そのツッコミは禁止」と封印されたのだろう。

こんなだから、私がテレビを見なくなるのもトーゼンなのである。

 

 

てなわけで、私はその番組がもっともらしく語った

水の大切さとか、節水の心がけとか、そんなものは聞く耳持たなかった。

性根の卑しいテレビマンが何を言おうと知ったことか。

私がテレビをオフったあと思い出していたのは、あのタイの村のことだ。

そのことは過去に記事にしたから詳しくは繰り返さないが、

まだ10歳やそこらの子供たちが

3階建てぶんぐらいの崖下にある水くみ場から、

20リットル入りの空き缶を両手で提げて崖を登っていたあの姿が、

私の記憶の中には、今でもはっきりと残っている。

 

 

あの旅以来、

俺たちって飲める水をトイレに流してるんだよなー、

というのが私の口癖のようになっていた。

しかし今回、そこにさらに重要な意味が加えられたのだ。

俺たち最先端技術でわざわざ海水から淡水化された水で

うんこ流してるんだよなーってことだ。

 

 

1978年。福岡市は史上最大級の渇水に襲われた。

その年、私は大学に入学したばかり。

ところが6月に入るとやたら休講が増えた。

どんなに勉強したくともw休講ならしょうがない。

そのせいで部室に入りびたりとなったwww。

ではなぜ水不足で、大学の講義が休みになるのか?

 

答:大学内のトイレが使えないから

 

近代化された社会において

水不足で一番困るのは飲食や風呂ではなくトイレだということを、

私はこのとき初めて認識した。

今日の記事で、水不足をやたらトイレに絡めて語ってしまったのは

おそらくこの経験によるものなんだろうな。

 

 

福岡市では確かに水不足が叫ばれているが、

今のところ生活に支障をきたすレベルには至っていない。

それは市が、過去の渇水の経験に学び、

淡水化プラントをはじめとする各種の渇水対策を

長年にわたって推進してきた成果と言っていい。

むろんそれにはハンパでない金がかかる。

だが福岡市の市民税は全国トップクラスの重税だから、

納税者たる私がその水を飲むのに遠慮することはない。

それでも、

福岡市も市民税も淡水化プラントも関係なく、

単純に飲める水をトイレに捨てていることの罪を、

私は感じざるを得ないのだ。

 

 

ことほどさように、私は従前から節水意識が高い。

キッチンの洗い物なんて芸術的なまでに少ない水で済ます。

なので今さら節水の工夫などちゃんちゃらおかしい。

そこにはいくぶんかのサバイバル気分が含まれている

いかにムダ弾をなくし効率よく敵を倒すか?ってことだ。

危機に臨めばアドレナリン。渇水上等どんとこい。

 

 

 

バイクでコンビニに突っ込むやつはいない

 

先日、和歌山の叔母と佐伯の従姉妹が母の見舞いに来てくれた。

家に泊まってもらった。

朝、叔母のほうが「腰が痛くて起きられない」と言う。

そういう時は身体を温めるといい。

なので風呂を用意してあげた。

 

 

風呂場から、付き添いでついて行った従姉妹が私を呼ぶ。

「どうして設定温度が44度になってるの?熱すぎる」

 

 

私は答えた。

だいたいねー、あんたら昨夜もそうやったけど、

風呂沸かしてやってもすぐに入らんやんけ。

だから少々冷めてもいいように熱めに設定したんだわ!

我ながらまさに石田三成なみの心配りと言えよう。

 

 

ところが従姉妹の文句は終わらない。

「それでも44度は熱すぎる。ちょっと設定温度を下げてよ」

 

 

私は呆れた。ア+キレた。

あのさー、あんたら俺よりちょっと年上なだけでもう認知症かよ!

風呂の湯が熱かったら水を足せばいい。そんなことも忘れたんかい!

従姉妹は「そりゃそうやけど・・・」

 

 

設定温度を変えるには

コントロールパネルのボタンをなんやかやで3回ぐらい押す必要がある。

しかもそれを私に依頼して作業完了までに120秒はかかるだろう。

風呂場の水栓を開くのに必要な手間は1回、所要時間は10秒だ。

そもそも、設定温度を低めに変更したからといって、

すでに溜まっている湯の温度が低くなるわけじゃない。

私がア+キレるのもトーゼンである。

 

 

このこと自体はどーでもいいことなんだが、

そのあと私の頭の中に、じわーっと湧いてきた考えがある。

最近年寄りの車がやたらコンビニに突っ込むのは、

もしかしてそういうことか?と。

 

 

先日、他人様の車をちょっとだけ運転する機会があった。

最初にとまどった。

「あのーエンジンはどうやってかけるの?」

いわゆるキーレススタートである。

ハンドルポストの脇にあるプッシュボタンを押す。

それでエンジンはかかる。

 

 

それを思い出したんだ。

私たちの身の回りの「道具」は日々進化している。

しかしそれは同時に、私たち自身を退化させてしまうということを。

人間はいま使っている道具に慣らされる生き物だということを。

だから、湯が熱いから水を足そう、ではなく設定温度って話になる。

むかしサンバーでキャンプに行った時、私は道に迷った。

そのとき私はきみにこう言った記憶がある。

この数年、ナビに頼りきってたせいで、

地理感覚と地図を読む能力が衰えている!と。

 

 

電話番号だってそうだ。

むかしは100件やそこらの電話番号は暗記していた。

しかし携帯固定を問わず、電話機に番号が登録できるようになってから、

私の脳から、電話番号を記憶する能力は完全に失われた。

 

 

ボタンをワンプッシュするだけでエンジンがかかる。

自動車のこの、単なる「便利化」に見える新機能には、

実は恐るべき罠が潜んでいるのではないか?

これは自動車の電子レンジ化ではないのか?

牛乳をほどよく温めるために火加減を調整する必要がないのと同じ。

このボタンは、人間に、

車を運転することの難しさを忘れさせてしまう、

禁断の装置ではないか?と。

 

 

運転とは、単に自動車という機械を操縦することではない。

自動車は走る凶器だ。

人を殺し物を壊し、時として自分の命さえ奪う。

運転とは、その機械を100%安全に運用することであり、

したがって運転の難しさとは、

100%の安全を確保しつつ、その機械を操縦する難しさである。

 

 

運転する者には、常にその覚悟が必要なはずである。

今まで車の始動なんて何の気なしにやってきたことだ。

キーホールにキーを差し込みんで回す、

カチャッというメカニカルノイズとともに微かな反発力を指先に感じ、

そこからさらにキーを回しこんで、初めてエンジンはかかる。

この作業プロセスは、「今から運転する」という覚悟を呼び起こす

儀式だったのではないか?

最後に指先に感ずるあの微かな反発力は、

エンジンを始動させるとともに、

ドライバーの運転脳をも始動させるプラスのストレスだったのではないか?

 

 

ところが、ボタンひとつでエンジンがかかる車はそうではない。

85歳のばーさんを想像してみ。

85歳ってことは1940年生まれだわ。

子供のころの煮炊きはカマドか七輪か炭火鉢か、

ちょっと裕福な家でガスコンロがあったとしても、

電池式自動点火なんてものじゃなくて、

別にマッチを擦って火をつける必要があったはずだ。

それが結婚したころ自動点火になり、

やがてくたびれたかーちゃんになったころ電子レンジが家に来て、

孫ができるころにはオール電化住宅だ。

 

 

そのようにキッチンが進化するにしたがって

彼女の台所における危機管理能力は退化してゆく。

電子レンジはたいていの場合調理時間を設定してボタンを押す。

したがって煮焦がしも吹きこぼれも、それらに起因する火事も起こらない。

イマドキではごはんとおかずがセットのレンチン食品の宅配とか、

高齢者の不便や不安または横着につけこんだ冷食がおおはやりだしな。

なんて便利な世の中になったんでしょ。

車だってほら、ボタン押すだけで動くのよ。

彼女にとっては、もはや車も電子レンジも同じになっている。

意識はしていなくとも、彼女の指先のセンサーが脳にそう伝える。

こんな感覚が身についてしまえば

=世の中の道具はなんでもお気軽に使えるようになった、

=年寄りだって普通になんでもできる、

みたいな無意識の勘違いに支配されてしまったら、

車という凶器を100%安全に運転する覚悟なんてどっかに吹っ飛ぶ。

 

 

年寄りの車は、なぜコンビニに突っ込むのか。

なぜアクセルとブレーキを踏み違えるのか。

むろん身体能力や身体感覚の低下などが原因だろう。

だがそれ以上に、

あんたらが車の運転をナメとるからやろ!

というのが、私の偽らざる怒りである。

こないだ75歳のアクセル踏み違いが高校生男子を殺した。

老い先短い年寄りが若者を殺すことほど罪深いことはない。

「西部戦線異状なし」にもそんなセリフがあったな。

 

 

バイクでコンビニに突っ込んだって話は聞かない。

そりゃそうだ。

そんな事故起こしたらライダー自身が大怪我かお葬式だ。

自分の命がかかってりゃ、人間だれだって運転脳は若返る。

しかもこちとらヒコーキ大好き少年だから、

ヘルメットをかぶる段階でマーベリック脳のスイッチが入る。

セルボタンを押すときに「コンタクト」とつぶやくなんざ、

もはや病気である。

だがこの病気が私の命を守るのだ。

 

 

福岡の水不足。

今のところ日常生活に不便はない。

つーかずっと以前から、私は節水意識が高い。

てなネタをまた今度。

 

 

 

 

彼岸花咲いてここが私の寝るところ

 

 

父が亡くなって、この家に住むようになってから、

一番めんどくせーと感じるのが庭だ。

こちとらずっと賃貸マンション住まいだったから、

台風だの地震だの隣室の火事だのでその部屋にダメージを被っても、

引っ越しすれば済むことだとお気楽なもんだった。

 

 

ところが持ち家となるとそうはいかない。

たとえば欲しくもなかった庭の手入れを強制される。

そこに持ってきて庭にはご立派な松の木が2本あった。

五葉松=ごようまつというやつだ。

剪定だの水やりだの、メンテをちゃんとしないと

「こんな立派な松の木なのにダメにしちゃいますよ」

などと言われる。

 

 

冗談じゃない。そもそも俺が植えた松じゃない。

だいたい、俺はこういうのが大嫌いだ。

きみも知っての通り、俺は自然が大好きだ。とーぜん樹木も好きだ。

だがその松は決して純粋な自然ではない。

たまたまナイスバディに育った木に好事家=マニアが目をつけて、

そのプロポーションを維持させるために矯正を加え、剪定を繰り返し、

本来自然に育つべき樹木の成長を止めている代物だぜ。

むかしの中国に存在した纏足と同じだ。何が美しい?

しかも、プロポーションによってその松の木の値段が変わるんだぜ。

うちの五葉松の一本はン百万円したらしい。反吐が出るわ。

てなわけで、二本の松の木は、

庭園業者に引っこ抜かせて引き取ってもらった。

買取価格はゼロ。その代わり作業賃もゼロ。念のため。

 

 

かくして目障りだった松の木は姿を消したが、

庭の手入れはしなきゃならない。生け垣の剪定とか草むしりとかな。

だがそれもめんどくせーってことで、考え方を変えた。

やはり野におけ蓮華草

自然のままがいっちゃんよろしい。

なので今うちの庭は荒れ放題である。

 

 

昭和天皇が若いころのことだ。

御所の庭を散歩しているとお付きの者が言った。

「そろそろ雑草が増えて参りました」

若き天皇は穏やかにこう答えた。

「この世界に雑草という名の植物は存在しません」

 

 

このエピソードは、おそらく意図的にリークされたものだろう。

すなわち雑草=庶民、植物=人間と置き換えれば、

天皇の、国民あるいは人類に対する認識がどういうものか推察できる。

「この世界に、庶民という名の人間はひとりもいないよ」

どうだい。庶民が聞いたら涙がチョチョ切れる名言ではないか。

そういう効果を狙って木戸内大臣あたりからリークされたんだろうな。

 

 

さてうちの庭だ。

彼岸花が咲いた。

ところが目障りなことに、その手前にいわゆる雑草が生い茂っている。

だが私は、かの昭和天皇の見識を美しく立派だと思っているから、

これを雑草と呼ぶわけにはいかんし、引っこ抜くのもためらわれた。

考えた。

わかった。これは雑草ではない。

敵だ。

うちの中から庭の彼岸花を見えなくする敵だ。

敵ならば排除すべし。

てなわけで、こうなった。

 

この写真では見切れている手前部分に「敵」の無残な姿がある。

それは次回。

 

久しぶりのブログなので疲れた。

なのでここでいったんやめて次回に続く。

 

 

どうせ見ないが来年の大河は秀吉ネタらしい。

信長秀吉をもっとも苦しめたのは他の戦国大名ではなかった。

一向一揆だ。

続きはそういう話から入り、ガザに続く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

井の中の近眼

 

 

百田尚樹の発言が物議をかもしている。

あまりにもレベルの低い話なので無視していたが、

いまだにそれがネットでのネタになっているのでひとこと言う。

 

 

広島の原爆被災者の慰霊碑。

そこに刻まれた文言。

「安らかに眠ってください」

「過ちは繰り返しませぬから」

これに百田がかみついた。

 

 

原爆を落としたのはアメリカではないか

過ちを犯したのはアメリカだ。

なぜ日本人が、それに関して反省し謝る必要があるのか?

 

 

まったくもって正論である

百田の言っていることは100%正しい。

ただし中学生のレベルで判定するならばだ。

 

 

彼がそう発言したという記事を初めて読んだ時の、私の感想。

はあ?

あんた中学生かよ?

 

 

私がそう感じた理由は明確である。

原爆を落としたのはアメリカではないか

過ちを犯したのはアメリカだ。

なぜ日本人が、それに関して反省し謝る必要があるのか?

というロジックを、私が初めて読んだ、または聞いたのは、

まさしく私が中学生のときだったからだwww

そのときに限っては、私もこう思ったものである。

なるほど。確かにその通りだよなー、と。

 

 

つまりさ、今回百田センセイが言い出して、

ちまたで議論を呼んでいるあの発言は、

彼のオリジナルでも何でもなく、

もう何十年も前から言われて言い古された、

右派お決まりの定型文に過ぎないってことだ。

 

 

 

ついでに書いておくと、

私の中学校での修学旅行先のひとつが広島で、

資料館を訪れてアレな写真とかもいっぱい見た。

それらは「夕凪の街 桜の国」の劇中において

主人公の友人がゲロ吐くほどのアレな展示物だった。

さらについでだが、

小学校の修学旅行先は長崎で、

そこでもやっぱり資料館で同様の展示物を見た。

なんでもイマドキでは、

それらがあまりにもアレなもんだから、

一部は展示しないことになっているらしいが、

アホかいな、何のための資料館やねん?とは思うなあ。

 

 

さて百田発言だ。

最初に断っておくが、

こと、あの戦争と原爆については、

私は百田の当社比100倍学習している。

「永遠の0」が映画化されるにあたり、

私はその原作本を書店で手に取ってみた。

テキトーに開いた2・3ページを読んだところで書棚に戻した。

「少なくとも俺が読む価値はない」

そう判断したからだ。

 

 

私がたまたま読んだのは、

零戦の弱点について記述した部分だった。

零戦は非力なエンジンでも高性能を発揮させるために、

その機体が極力軽く作られている。

そのために防弾装備は皆無に等しく、

早い話がめちゃ撃たれ弱いということを述べていた。

 

 

それは事実である。

百田はなーんも間違っていない。

だが、その記述はまるで

「零戦のすべて」的なムック本の丸写しのように読めた。

なんせ当社比100倍だからな。

その手の本をさんざん読んできた私には感じ取れることがあった。

これは著者のオリジナルな見識ではない。

もっとも初心者向けの資料から得た知識を、

さも訳知り顔で並べなおしただけ、とな。

 

 

むろん次のような言い訳は成立する。

「永遠の0」は、あの戦争を知らない読者、

=零戦初心者に向けて書いたモノなのだ。

だからその部分の記述が、

初心者向けの基本的な要点の羅列になるのは当然だと。

 

 

だから言ったじゃん。

百田はなーんも間違っていないって。

零戦のことはどうでもいいのよ。

百田尚樹という作家が、

自分が体験したことがなく、

従って書物や取材によって追体験するしかない事柄について、

どれほど深く探求し考察し、自らの見識を成立させているか?

そのレベルが、この資料丸写しな記述と、

その行間に見えちゃったってことなんだ。

 

 

本を読んでいないので、

私は百田尚樹の「永遠の0」について一切の評価をしない。

私が「永遠の0点」と呼ぶのは映画に限られる。

言うまでもなく映画の評価はプロデューサーと監督に対してのものだ。

その映画については、すでに100選で記事にしている。

確か3回連続で採り上げたと記憶しているが、

私はそこでふた通りの評価を述べたはずだ。

 

 

それは、

これほど、あの戦争を戦った人々の心を踏みにじる映画はない、

とかなんとかコキおろす評価Aと、

自己チューな主人公は、

何よりも自分の生活を優先する現代日本人のメタファーであり、

公より私を優先する日本人を批判するためのキャラクターだという

好意的な評価B、そのふた通りだ。

実際には、演出がド下手くそなのと岡田准一の格好良さのせいで、

評価Bを狙った、おそらく原作者の真意 はかすんでしまっていたがな。

 

 

もし映画の冒頭にこんな字幕が出たらどうよ?

この映画の受け取り方はお一人様一個に限らせていただきます。

そうなれば評価AもBもCもあったものではない。

だが幸いなことに、

私たちはそれが無制限に許されることを知っている。

今日の感想と明日の感想が正反対でもかまわないのだと。

 

 

さてそこで百田発言だ。

「過ちは繰り返しませぬから」

過ち=原爆投下だろ?それはアメリカがやったことだろ?

どうして我々日本人が悔い、被災者に詫びねばならないのか?

碑文の文言に対する評価として、これは正しい。

ただしそれも評価A=BもCも~Zもあるうちのひとつ にすぎない。

そしてこの場合の評価Aは中学生レベルであると私は言っている。
 

 

百田が評価Aを主張する根っこには

東京裁判史観に対する反発がある。

その点では「中学生としてはかなりレベルが高い」けどね。

戦後、合衆国が日本国民に対して行った情報政策、

いわゆるウォーギルドインフォメーションに基づいて、

この戦争に関しては100%日本人が悪かったのだというPRが

日本国民に対して大々的に行われた。

その総決算が東京裁判だ。

その結果として日本人の心底に植え付けられたのが

まったく私が悪うございました的な自虐史観である。

百田はこれが大嫌い。

だからあの碑文にもかみつくわけだ。

 

 

これに対して、広島市とかの言い分では、

この碑文は、

戦争という過ちを、私たち人類は決して繰り返さない

という意味なのだと、概略としてはそんな感じになっている。

これが大人の評価というものだ。

これは政治家が得意なキレイごとのその場しのぎではないよね。

まさに全人類が希求すべき理想を述べとるやんか。

だが井の中の近眼は決してそれを受容せず自論だけを述べる。

 

井の中の蛙、大海を知らず

されど空の高さを知る。

 

だがその蛙の脳が近眼では、空の高みにある理想は見えない。

あんたそう言うけど!的なケンカ腰

自己の主張を繰り返す中学生と何も変わらないレベルのままだ。

だからこの記事の最初に書いた通り、

あまりにもレベルの低い話なので、私はこれを無視して来た。

 

 

東京裁判史観あるいは自虐史観を批判するなら、

そしてそれをする者の立場がいやしくも国会議員であるならばだ、

それらによってこの国の精神性がどのように歪み、

事実としてどのような弊害をもたらし、

だからコレコレの政策をもって、この誤った歴史観から日本人を救おう、

そのような論陣を張るべきではないか。

それを言うに事欠いて、

もっとも辛い思いをしてきた人びとの、

祈りの象徴というべきこの碑文をネタにして、

しかも何十年も前から使い古された

オリジナリティのかけらもない言葉で叫ぶなんてのはさ、

なんつーかめちゃ恥ずかしい真似だと思うぜ。

あんた仮にも作家様なんやろ?

 

 

 

「0点」の中で、主人公はいきなり軍事評論家になる。

真珠湾とミッドウエイと、そしてガダルカナル航空戦のしょっぱなで、

「日本海軍が犯した戦略的・戦術的ミス」を指摘して批判するんだ。

彼は海兵=海軍の士官学校 を出ていない。

つまり戦略も戦術も学んでいない、空中戦専門の技能者でしかない。

そんな一介のパイロットがそれをやっちゃうんだな。

でもって、

その内容がまさしくミリオタ初心者のレベルなのよ。

「あちゃ~やっぱこんなレベルかよ」と、私は呆れたものさ。

そこに著者のオリジナルな見識は1ミリグラムも含まれていない。

ただし、これはこのシーンが原作にもある場合の話。

映画にしか存在しないシーンなら百田に責任はない。

なんにしてもだ。

百田の歴史認識、特に東京裁判史観に関する見識そのものが、

そういう初心者レベルでないことを、私は祈りたいと思うよ。

デモシカであっても国会議員なんだからな。

 

 

過ちは日本と合衆国の両方にあるよ。

戦争したんだからな。

いつも言っているように戦争は馬鹿がやるものだ。

 

 

コロナの時、やたら話題に上ったのが有識者会議ってやつだ。

そのころ記事にしたことがあるんだが、

戦前の日本に「総力戦研究所」というものがあった。

端的に言えば「米国と戦争をして勝てるか?」を研究する機関だ。

公的機関である。民間でこんなことやったら即逮捕だ。

ところが驚くべきことは、その構成員のほとんどが、

官僚とか学者とかの非軍人だったってことだ。

いわゆる有識者の集団だったということだね。

WW1でフランスを指揮した首相クレマンソーの名言がある。

「戦争という大事を軍人なんかに任せられるか」

戦前の日本にも、まだこういう良識が存在していたんだな。



この機関が、開戦の3か月ちょい前に出した結論。

「アメリカと戦争したら絶対負けます」

しかし、この結論がその後の国策に反映されなかったことは

誰もが知るとおりである。

当時はまだ陸軍大臣だった東條英機が、

この結論に対して言い放ったセリフが実に見事である。

「しかし戦争というものはやってみなければわからないものだ」

どや?すごいやろwww

コロナの時の記事では、そういうことを述べている。

 

 

この「総力戦研究所」を扱ったスペシャルドラマが、

今度の土日の二夜連続で放送される。NHKだ。

 

 

ただし。念を押しておく。

「この作品は事実に基づいている」は

「事実ではない」と同義である。

歴史を語る創作物には必ず何らかのバイアスがかかっている。

「事実に基づいているが必ずしもすべてが事実ではない」

そういう創作の中にどんな真実を見つけるか。

そこが大事。

それは忘れないように。