小さくため息をついた瞬間に、グラスの氷がたてた小さな音が静寂を壊して、緊張の糸が切れた。
「もう寝る」
「・・・寝るの?」
「寝るよ」
キーボードをたたく音だけが響く室内に響いていた
キーボードをたたいていた指を止めて、くるりと振り返ったカラメル色の瞳が少しだけ細められて、眉が上がる。
「そんなに暇じゃない」
「暇でしょ?」
「俺だって忙しい」
「へぇー、忙しいんだ」
「うっせーな。俺だってたまには忙しい日もあるし」
「へぇー」
「ふぅん・・・寝るんだ」
「・・・何だよ悪いかよ」
「べつにぃ」
小さく笑った唇の端が少しだけ上がって、イジワルそうに見える。
「なんだよ」
「べつにぃ」
デスクに向き直って再びキーボードをテンポよく叩き始めた指は、暫く止まらないだろうし作業自体はまだまだ終わりそうもない。
寝室のドアをわざと大きな音をたてて諦めてベッドにごろりと寝転んだ。
「誕生日だって覚えてっかぁ?」
時計の針はもう今日の終わりを告げようとしている。
「・・・あと3分」
ため息だって出る。そりゃそうだ。ケーキを用意して、シャンパンだって用意して、プレゼントも用意した。早く終わるって聞いてたのに、ちっとも帰ってこないし帰ってきたら帰ってきたで間に合わないとか言ってパソコンの前にへばりついてるし、こっちを見もしない。
「マジで寝るからな」
閉めた扉に話しかけても返事があるわけなく、「・・・こねぇほうが良かったか」と思わず出た独り言が誰もいない寝室にやけに大きくぽつりと響いて、むなしさだけが残った。
一緒にいる時間が短くなった。その代わりに連絡がまめになった。
顔を見れない代わりに、声を聞く時間が増えた。
一方的にテレビで見るあいつは笑っているし、後輩と楽しそうにしてるのも知ってる。
「・・・あーぁ」
転がったまま、近くにあった枕を引き寄せてぎゅうぎゅうに抱きしめる。ちっとも腕の中に帰って来やしないアイツの代わりに。顔を埋めるとアイツの匂いが鼻を掠めて、相変わらずシャンプー変えてねぇのかとちょっと笑えた。
『だって暫く会えないんでしょ』『思い出すのに匂いが必要なの』耳の端を染めて、腕の中で拗ねながら言ったシャンプーを同じにした言い訳はもう随分前になる。
「ほんとに寝るつもり?」
ネコみたいにするりとドアをすり抜けて寝室に入ってきたかと思うと抱えていた枕にポスンと拳を充てて、ベッドヘッドのライトで明るくなったカラメル色の瞳がジッと俺を見つめてきてかっちりと視線が合った。
「寝る」
「ほんとに?」
薄い唇から言葉は流れるように出てくるセリフと違って、何処かためらいがちに小さな間が産まれるのは次の言葉を考えながら話しているせいだろうか?
「もう、今日は終わっちまったし」
「・・・気にしてくれてたんだ?」
「うるせぇ」
驚いたふりで器用に片眉を上げて見せて、自分の右腕のアップルウオッチをトントンと叩いて見せた。
「まだ5分前です」
「てっぺん過ぎただろ、だって時計」
「遅らせるくらい簡単だし。10分くらいなら違和感もないでしょ」
「なんだよ。初めから言えよ」
「その顔が見たかったから」
柔らかに、笑った。
決め台詞だと思う。そんな顔して、とどめを刺すみたいな決め台詞。
汚ぇ。マジで汚ぇ。
そんな風に言われて、そんな風に笑われて、適う奴なんていないことはたぶん百も承知でやってるところがマジで嫌になる。なんでこんな奴に惚れたかなぁ。
「くっそぉ」
「なにがよ」
「なんでもねぇし」
「そ?」
余裕顔で笑ってるアイツを引き寄せるべく腕を伸ばすもむなしく空を切った。
「明日も撮影」
「知ってる」
まめにスケジュールを送ってくるようになったから、いつが撮休かなんて死ぬほどチェックしてる。
薄い上唇をそっと食む。
「お祝いの言葉は?」
「は?」
「いつものあれを聞かないと誕生日って気がしないからさ」
確かにいつも振ってくるのは翔ちゃんだったけど、いつもすげぇ楽しそうににこにこしてたっけな。
「いつもお誕生日おめでと。産んでくれてありがとう」
くしゃっと顔が歪んだのは一瞬だった。
「今年も一緒に誕生日を迎えられてよかった」
殺し文句は腕の中に飛び込んできたアイツの体温と一緒にじんわりと体の隅々に行き渡った。
悔しいけど、すげぇ悔しいけど、こいつには適わねぇなって思う。
まぁ、適わなくてもいいんだけどな。