金沢城 甚右衛門坂と伴天連屋敷跡 | 金沢徒然日記

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日々金沢中を徘徊している暇人ぱんだが、つれづれなるままに加賀百万石の文化都市、金沢のことを書き綴ったブログ。金沢の観光スポット、神社仏閣、文化施設を深く深く掘り下げて紹介していきます。

加賀百万石の城下町・金沢。
この金沢には、加賀藩を治めた前田家の居城である金沢城がある。天守閣はないものの、櫓などが再建されており、見所の多いスポットだ。

この金沢城には、一般人の立ち入りが禁止されている甚右衛門坂という坂がある。


「甚右衛門坂」
金沢城のうち武蔵ヶ辻・近江町市場に近い方面にある坂道である。
近江町市場から尾崎神社に行き、そこから尾山神社方向に向かうと道中にある。丸の内園地の隣だ。

金沢城は江戸時代には前田家の居城であったが、それより前の戦国時代には本願寺方の勢力が拠り、尾山御坊と呼ばれていた。
この坂は、天正八年に織田方の武将である佐久間盛政の攻撃を受けた時に、本願寺方の平野甚右衛門が奮戦し討死した場所であったためにこの名がついたという。


「甚右衛門坂下の伴天連屋敷跡」
金沢城西側と城下をつなぐ坂の下周辺には伴天連屋敷(宣教師屋敷)が集まっていたと伝えられており、そのことを伝える案内板が建てられている。
丹波国守護代内藤家出身の内藤如安や、宇喜多秀家に仕えていた浮田休閑など、高山右近を頼って金沢に来たキリシタン武将や加賀藩士が集まっていたのではないかと推測されている。
江戸幕府によって出された慶長十九年(1614)のキリシタン禁教令によって、内藤如安は高山右近とともにマニラへ、浮田休閑は津軽に流され、その地で人生を終えたとされている。

この金沢城甚右衛門坂周辺は、坂の立ち入りが禁止されていることもあり、通りかかる人も少ないスポットだ。
すでに尾山御坊や伴天連屋敷などの面影は残っていないが、付近を訪れて本願寺方として奮戦した平野甚右衛門や、後にこの地に集まっていたキリシタン武将たちに想いを馳せるのも良いのではないか。

参考:甚右衛門坂の坂標
甚右衛門坂下の伴天連屋敷跡案内板