金沢 加賀八家「奥村家(宗家)」屋敷跡 | 金沢徒然日記

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日々金沢中を徘徊している暇人ぱんだが、つれづれなるままに加賀百万石の文化都市、金沢のことを書き綴ったブログ。金沢の観光スポット、神社仏閣、文化施設を深く深く掘り下げて紹介していきます。

加賀百万石の城下町・金沢。
この金沢に本拠を置いた加賀藩は、前田利家を藩祖とし、徳川家を除けば、他の追随を許さないほどの圧倒的な石高を誇る大藩であった。
ここには、藩の年寄(家老)の職にあたる門閥があり、八つの家があった。これを「加賀八家」と呼ぶ。

この「八家」は、元禄三年(1690)に加賀藩の五代藩主・前田綱紀が定めたものである。
八家には、本多家(五万石)・長家(三万三千石)・横山家(三万石)・前田家(長種系一万八千石)・奥村家(宗家一万七千石)・村井家(詳細は後述)・奥村家(一万二千石)・前田家(直之系一万一千石)があった(幕末時の禄高順)。

今回紹介するのはこのうちの奥村宗家だ。

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加賀八家「奥村家(宗家)」屋敷跡。
屋敷跡は現在、国立病院機構金沢医療センターとなっている。
医療機関にはなったが、奥村邸の長土塀は残されており、かつての面影を偲ぶことができる。辰巳用水も流れており、なかなか見所のある通りだ。
この案内板は、兼六園の小立野口を出て石引に向かっていくと、土塀のところにある。

奥村家は尾張(現在の愛知県)荒子城以来の前田家旧臣で、藩政時代は奥村永福から栄滋まで十四代を数えた。
禄高は永福の一万千九百五十石から数回加増され、中頃以降一万七千石を世襲した。

初代の奥村永福は、加賀・能登・越中の境の要衝である末森城の城主として、天正十二年(1584)に富山の佐々成政の侵攻を撃破して前田家の危機を防いだ。

【奥村家略系図】
奥村永福ー栄明ー栄政ー栄清ー時成ー有輝ー有定ー修古ー栄アキ(アキは車編に全)ー尚寛ー栄実ー栄親ー栄通ー栄滋

屋敷は、元和六年(1620)頃に今の兼六園の地に賜り、元禄九年(1696)に石引町の当地に移されて明治に至った。
邸地は10000坪(約33000㎡)を超え、明治以降にはここに陸軍病院が置かれて、戦後は国立病院となった。
道路に沿って残る約300mの土塀と戸室石の石組により、往時の広壮な邸の一端がしのばれる。

加賀八家の出自は様々であり、意外にも加賀藩成立期で見れば新参の家臣が多い。
例えば本多家は徳川家康の重臣・本多正信の次男・政重が建てた家で、二代藩主・前田利長に仕えて家臣となった。
長家は能登の在地勢力であり、前田家に仕えるようになったのは前田利家が能登を領有した後のことである。
村井家は前田利家、横山家は前田利長の股肱之臣であった。

これらに対して、奥村家は言わば前田家の譜代の臣であった。
もともと加賀藩の藩祖・前田利家は尾張荒子城主の子息であったが、奥村家はこの荒子城時代の前田家から仕えているのである。
奥村家は分家も加賀八家に数えられている。功績ある譜代の臣として重んじられていたことがわかるのである。

参考:奥村宗家の案内板