金沢の主要な観光地である兼六園や金沢21世紀美術館、繁華街である香林坊などに近く、多くのレストランやカフェ、バーが立ち並ぶ食の街だ。
街中には、藩政期に築造された金沢城西外惣構堀が現在も水を湛えており、活気ある商店街の中に歴史的な風情とうるおいをもたらしている。
この柿木畠という町名は平成十五年(2003)に復活した。このため、石碑の「旧」字が潰されている。
ただ、白く潰されているために逆に目立っているのがおもしろい。旧町名の復活を際立たせているかのようである。
もともとこちらは、寛永八年(1631)と同十二年(1635)の火災の教訓から火除地とされた土地であった。
加賀藩士の邸宅があったのを移転させて空き地にし、柿の木を植えたという。
万治年間(1658-1661)から再び藩士の邸地となったが、柿木畠という地名はそのまま残った。
また、柿の木の畑自体もその後も残っていたらしく、宝暦八年(1758)の頃の金沢町絵図では、百五十歩(約500平米)ほどの畑として見ることができる。
ところが、この柿の木の畑は宝暦九年(1759)の大火ですべて焼失してしまった。以降、この街では由緒ある柿の木の姿が見られなくなっていた。
しかし、「柿木畠」という町名復活を契機として、地元の商店街が柿の木を「まちの木」として町内の各所に植えたため、現在では季節になるとたわわに実った柿の実を見ることができるようになった。
これらの柿の木がまちの緑も演出しており、過ごしやすい街となっている。
柿に関する俳句が書かれた看板や水飲み場、座る場所などがあり、街中で一休みできるようになっている。
このほかにも、町名の石碑周辺などに柿の木があり、柿木畠の名にふさわしい景観となっている。
こちらにも大きく柿の木が描かれている。
それでは、なぜ火除地に柿の木が植えられたのであろうか。
これに関しては、飛鳥時代の歌人・柿本人麻呂の名前である「かきのもとのひとまろ」をもじり、「柿の木のもとでは火が止まる」と昔の人々が信じ、それに因んだとためであると考えられている。
ちなみに、柿本人麻呂は天武天皇・持統天皇・文武天皇に仕えた役人でもあり、『万葉集』の代表的な歌人である。
挽歌や行幸を言祝ぐ歌などを数多く残しているが、壬申の乱で荒都となった近江大津宮を偲ぶ歌も残している。
このうちの一首、「近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ」は国語の資料集などにも採録されており、ご存知の方も多いのではないかと思う。
また、柿本人麻呂は兵庫県の柿本神社などで祭神としても祀られている人物である。
柿本人麻呂の名前をもじって、火除けとして柿の木を植えたというのは、大変興味深い伝承である。
柿木畠を訪れた際には、せっかくなので柿の木も探してみてはいかがだろうか。
参考:金沢市の公式ホームページ
http://www4.city.kanazawa.lg.jp/s/22050/kyuchomei/chiiki/kakinoki/tayori-kakinoki.html
角川書店編『ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 万葉集』角川文庫、平成十三年
能登印刷出版部『伝統と革新の町・金沢を歩き解く!金沢謎解き街歩き』実業之日本社、2015