ママスタで、12人産んじゃった助産師さんのモヤモヤする動画を教えていただきました。
仕事にあるように子育てにも『向き不向き』ってあるの?
相談への回答です。
いくつか要素がありますが、今日は「良いママ」ポイントにツッコミます。
年子のふたり。こどもは可愛い、でも2歳の上の子に暴言を吐いたり叩いたりしてしまう。
夫にもイライラする。
仕事にはもうすぐ復帰。
でも3人目も欲しい。
こんな私は子育てに向いていないのでしょうか?
ブログもありましたのでご紹介します。動画の方が言葉選びが極端です。
自分は子育てに向いていないのでは、と悩む相談者さんに
「今までたくさんのママさんたちを見てきた。子育てに向いている人などいない!」
だから大丈夫!と断言。
同じ迷い、悩みを持つママさんたちには救いの響きとなったようです。
その他のママさんたち。育児そこそこ楽しい、わたしは子育てに向いているのかな?と思いながら観ている人。迷いも苦しみも悩みもありながら、成長していくこどもとの生活を楽しめている人は、とつぜん謎の攻撃をくらいました。
「子育てに向いている人はこんな人です」
自分がない。
人に合わせられる。
良いママを演じ続けられる。
こうしたいというものがない。
ひとまず「はあああああああ?」と叫んで落ち着きます。
落ち着きました。
助産師さんにとって、「子育てに向いている人」=「良いママ」。
(ほぼ)年子5人を専業で育てていた時、助産師さんは苦しかったそうです。
「良いママ」という世間のレッテル。
世間体で子育てをしていた。
助産師さんが戦っていたのは、こどもにとっての「良いママ」ではなく、世間の評価での「良いママ」。
そりゃ歪むわけです。
あなた誰のママですよ。
ブログでは、こんな記述もありました。
出産した途端に、
あなたはママになったのだから
24時間、365日
自分らしさを封印せよ。
ひたすら我慢し、妥協し続けよ。
・・・って(^_^;)
それを苦なくできちゃう人って
世の中にどれだけいるんでしょうか?
既視感のある構文。
「責任」という言葉もなんだか不思議な解釈でした。
助産師さんが見ている世界は、ひどく辛く苦しいものなのかもしれません。
持論を展開します。
わたしはママになって、苦も楽も味わいながら、自分らしく親やってます。
ママだからというわけでもありません。
我が子に関わる大人たちは、それぞれにそれぞれの立場で、何かを封印したり我慢したり妥協したりしながら、今まで体験したことのない日々を一から作り上げています。
封印も我慢も妥協も、育児に限ったことではありません。
自分をなにもかもころさなくても子育てはできます。
ただ、自分をころす仕事からは逃げられるけど、子育ての責任からは逃れられません。
だから大事なのは、
自分をころさないように子育てすること。
ひとりだけで背負い込まないこと。
子育てを自分の全てにしないこと。
自分から意識して、産後ガルガル期と決別し、父親含め他者の手を上手に使っていくテクニックを身につけること。
子育てに向き、不向きはあるかと言われたらあると思います。
どうしてもこどもに向き合うことが苦痛なら、それは不向きでしょう。
「暴言を吐いたり、叩いてしまうことがある」助産師さんが完スルーしたこの点は、真っ先に否定されるべきでした。
2歳児への言葉・身体での暴力をやめられないのなら、「不向き」の傾向を示していると思います。
でも、不向き=子育てする資格がない。のではありません。
自分でも許せない言動をこどもに対してぶつけてしまっていたら、それは間違いなく「ママではないひとりの自分」として休まないといけない、というサインです。
向いてなくても仕事はできるように、子育てもできます。
向いていないという気づきさえあれば、子育てに関わるチームは誰か見渡し、自分の役割を見直し、大きすぎる負担は他に振り分けて、こどもたちの心と体の健康を守り育む道を探しだせます。
育児はチームです。
家族に限らず、園も、地域も、地域の助産師さんたちも。
相談者さんが復職してひとりの時間を持てるようになれば、新しい視点で次のチームの形を作っていけるでしょう。
3年経てば別人になる。助産師さんのこの言葉には同意します。
しかし次の子を産みたいのは理屈ではなく本能だと力説。
そして、支配下に置くことのできる
子どもという生き物を自分の周りに増やすことで
イライラを緩和させようとする
暗黙の独占欲も隠れているのかもしれません。
・・・それってコワイ、
なんて自分勝手な思考!!
と思うかもしれませんが。
人間なんてさ。
そんなもんでしょ。(笑)
こどもをうみたい理由がこれって。
その人間にわたしは入っていない。笑えない。
次に続きます。