12人産んじゃった助産師さんは、倫理観価値観の在り方が一般とはどこかちがうと何度か書きました。
言葉の定義も違うようなのです。
「責任」。ところどころ、んん?と首を傾げる表現が出てきます。
その考えのもとが伺える、こんなブログがありました。
そもそも〝責任〟って何?
「責任をとる」を噛み砕いて言うと、
「責めを背負うこと」
「制裁を負わされること」
じゃあ、子どもを産み育てるっていうのは
怒られまくって、責め負われまくる苦悩の生き方を
自ら選ぶってことでしょうか。
こわ・・・
めっちゃ恐ろしいですね。
大人にとって、「こども」と「育てる義務」はセットです。
こどもがいても、どうも育て上げる義務は果たせない。ということは、まま起こり得ます。
今の日本で、大人は、こどもをすてることなく義務から逃れることができます。他の大人に、こどもと義務をセットで渡す。という形です。
手放した大人は、こどもが大人になるまで育てる「義務」は自分では果たせなくても、他の大人に渡すことで「責任」を果たしています。
責任とは、そういうことです。
こどもまるごと手放すまでもなく、パートタイムな義務委託も当たり前に行われています。
例えば保育園。申請要件は、「保育に欠ける家庭」であることです。
「うちの大人だけではこの子を保育しきれませんので、ともに保育してください」という申請です。
特別なことでも、恥ずかしいことでもありません。
「わたしだけでは無理なので」人手を借りる。責任ある養育者の姿です。
責任という言葉を、養育者を責め、制裁を与える意とする助産師さんの捉え方は、歪んでいます。
たぶん、多産と呼ばれる子を産んだり、離婚後に産んだりするごとに、周りからは「責任」の拳で殴られてきたのでしょう。
そして助産師さんはいつも「自分が正しい」ところから世界を組み立ててしまいます。
辛い時期に母親として「責任を果たせていない」という認め難い自覚に近づいてしまい、
「責任」という言葉の意そのものを歪めることで座標を歪め、自分の「正しい位置」を守ってしまったのかなあ。
助産師さん、自分ひとりで何もかもを背負うことはないのに。
攻撃者に見えるあんな人もこんな人も、共に責任の一端を担ってくれる手であるかもしれないのに。
そう思います。