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SC神戸中国語スクール 京都校

全くのゼロから、ビジネス会話、通訳レベルまでしっかりと学べる中国語スクール、SC神戸中国語スクールの京都校のブログです。

耳コピ。


goo辞書では次の説明がありました。

《コピは、コピーの略》俗に、楽曲を聞き取ってそのとおりに再現すること。また、その技術楽器を用いて演奏したり、楽譜に書き取ったりするなど。

出典:デジタル大辞泉(小学館)


私、高校時代、フォークソング研究部に所属していました。

アコースティックギターを抱えて歌っていたのですが、その時に、当時、流行っていた「ナオミの夢」を耳コピしました。


レコードを何度も何度も聞いて覚えるのですが、楽譜や文字ではなく「音」を「耳」で聞いてマネをしました。

この練習が、のちに中国語を学ぶときに大いに役に立ったと思います。


この耳コピ。

文字など目からの情報ではなく、耳からの情報で音をそのまままねる。


「ナオミの夢」はヘブライ語だったので、文字を見たことはなく、日本語のカタカナで表そうにもどうにも違う音なので耳からの情報をそのまま身につけたのです。


赤ちゃんは、文字を知らないので、言葉を覚えるときにこの「耳コピ」状態だったのでしょう。

私たちは大人なので効率よくマスターするために文字やピンインを用いるのでしょうが、そのときに母語干渉が起きやすいと思うのです。


この耳コピ。

試しにヘブライ語の「ナオミの夢」でやって見てください。

文字情報がないとなんとも不安で効率が悪いように感じるかもしれませんが、実はとても効率のいい学習方法ではないかと思うのですが、いかがでしょう?


ネイティブスピーカーのような発音を目指すのなら、最初は効率が悪いと感じるかもしれませんが、私の経験では、本物の「音」を身につける方法としてはかなり良い方法ではないかと思うのです。




同じように、大学時代、中国語を学びはじめた私は、「会話」を身につけたいと思い、中国の漫才である“相声“をカセットテープでしたが擦り切れるほど聞いて真似をしました。

もう40年ほど前のことですが、いまだに一節を諳んじることができます。



こちらはテキストもあり、文字情報も見ながらではありましたが、でも、あくまでも「耳コピ」で耳からの音情報を聞き倒し、それこそ耳にタコができるほど聞いて覚えました。

この「耳コピ」。
私にとっては効果的な方法だったのですが、私と相性の良い方法だったのかもしれません。
他の方には合わないのかもしれません。

最終的には自分にとって効果的な学習方法を見つける。それが一番なのでしょう。

今、『すごい傾聴』という本を読んでいます。


中国語を教えるのにどうして傾聴が大切なのか?

それは何かを「教える」ということは知識を説明することではない。という思いがあるからです。

『すごい傾聴』を読み進めていると、以前読んだ『はじめての傾聴』という本が気になり、今、また読んでいます。


すると以下の文章がありました。

私は大学で教鞭をとっていますが、大学教育で大切なのは、知識を学生たちに機械的に伝えることではなく、学生と教員の人間関係を育むことだと感じています。
(『はじめての傾聴術』P18)

著者は大学教育に限定していますが、私は教育とは全て教える側と教わる側の人間関係を育むことではないかと思うのです。

以前、ある中国語の授業がある高校で臨時の中国語講義をしました。
高校一年生と二年生のクラスでした。
どちらも4月に新しいクラスとなり、三学期になった時でした。
最初に一年生のクラスで講義をしたのですが、40名ほどのクラスの中で数名が机にすっぷして寝ている?のです。
私はこの方たちが気になって気になって仕方がなく、まともな講義ができなかったのですが、この経験からも何かを「教える」というのは教教える側と教わる側の人間関係を育み、その過程でお互いに学んでいくのではないかと思い、阿川佐和子さんの『聞く力』や『はじめての傾聴』。そして今、『すごい傾聴』を読んでいるのですが、この「人間関係を育む」という言葉に強く反応しました。

テスト対応のために知識を詰め込むのなら、教える側は上から目線で、教わる側はただひたすら知識を詰め込みそれを忘れないようにすることに専念すればいいのでしょうが、本来の教育というものはそういうものではないはずです。

私が臨時の中国語講義をした学校では、人間関係を育むことができない学生が落ちこぼれ、中国語に興味をなくしてしまったのでしょう。

中国語に限らず何かを学ぶというのはとても意義のあることで、私は何かを学ぶというのは自分を成長させることで、今日より明日、明日より明後日と少しでも良い人間になっていくことだと思っています。

今、学校でいじめの問題がなくならないのはこの教える側と教わる側の人間関係を育むことがなされていないせいではないかと思うのです。

私は今、タクシー乗務員をしていますが、街を走っていて感じるのは余裕のない人が多いということ。

一時停止をしない。
譲らない。
信号の変わり目で強引に(もう赤信号でも)交差点に進入する。
交差点では優先順位があるのにそれを無視してわれ先に運転する。
などなど。

こちらが譲らないと事故が起きてしまう状況があまりにも多く、1日の仕事を終えて無事故だとホッとする毎日です。

自分さえ良ければいい。と思っている人が多いのかと思ったのですが、どうやらただ他の人や周りに対する気遣いをする余裕がないのでしょう。

煽り運転をする人も、きっと悪いことをしているとは思っていないでしょう。
本人は正しいことをしているとさえ思っているのかもしれません。
でも、ちょっと見方を変えると煽り運転は暴力で、相手のことを考えない、身勝手な行為。
そんなことを感じながらタクシー乗務をしている今日この頃です。

森川先生の母語干渉への注意喚起を見て、私が思ったのは発音を学ぶ際の母語干渉についてです。


母語干渉は第二言語を学ぶ際、第一言語の影響を受けることですが、難しいとされる中国語の発音を日本語が母語の人が学ぶ時、日本語の発音を基準にして中国語の発音をしてしまうということです。


中国語には発音記号のようなピンインがあり、それをもとに中国語を発音するのならまだいいのですが、日本語のカタカナ表記をもとに中国語の発音をしてしまうということが多くあるということです。


ですから私は「日本語離れすること」を勧めています。


中国語の発音の中には、日本語の発音のまま発音しても構わないものもありますが、それでも、母語干渉しないように中国語の「音」を純粋に聞いてそれをできるだけ日本語の「音」から離れて発音することが中国語の発音をマスターするコツだと思います。


英語でも、


ホットコーヒーが「ハッカ」、今何時という英語の What time is it now. は「掘った芋いじるな」(これは、ジョン万次郎が聞き取った?)。


英語の「音」を聞いて、カタカナ表記に影響されることなく、聞いたままマネをする。


完全に日本語離れするのは難しくても、できるだけ離れようと意識すると、難しいと言われる中国語の発音ももっと学びやすくなるのではないかと思います。