自己犠牲は良くないのか? | あなたの守護天使の絵 描きます♪ 多次元的ないしょ話

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「行列のできる守護天使描き」ヤミコです。漫画家デビューを経て、ヒーラー・カウンセラーになり、宇宙意識を学ぶメタスピリチュアル講座もやっている国際催眠療法士。

 

 

よくスピ系やメンタルヘルス的な話で、

「自己犠牲は良くない」という意見を見かけます。

 


そこで私、あり?σ(゚∀゚;)と思いまして。


もしや世間様と私とでは「自己犠牲」の解釈が違うのでは? …というわけで。



『自己犠牲』



この言葉から受ける印象が、

ただの我慢みたいに感じるのは、

私だけでしょうか。

 

 


言葉の意味が時代とともに、

なぜか変わってしまうことってありますよね。


一般的に近年使われている「自己犠牲」。
宗教観からの「自己犠牲」。


実はこの2つ、

微妙に違うのだよ 明智くん✧(・ω・)ノ



いや、

本当は一つだけなんだけど、
解釈が時と共に変化して、

本来の意味が曲がってしまったようです。


ここをごちゃ混ぜにしてると

話が噛みあわなくなりますので、

ちょいと整理しましょかね^^

 


ってことで、今日も長いっす!(笑)

 

 

※2017年9月16日の過去記事を再掲載してます。

 

 

違和感があったらスルーしてね^^

 

 

 

あくまで便宜的な説明ですが、

自己犠牲を①と②に分類してみますチョキ

 



「私が自分の意見を口にするのは、

ワガママなんじゃないか…」

 


「自分さえ我慢していれば、

この場が丸くおさまるんだから…」

 



う~~む、

気持ち超わかります~~(*´Д`)

 


これ、いわゆる一般的に言われている、

「自己犠牲①」ですね。



これ絶対あります笑い泣き

しちゃうよね、この選択。
私も過去にこういうシチュエーション結構ありました…orz


でね、
実際「自分を犠牲にしてる」という自覚なんて、皆ないんです。
そうすることが当たり前で生きてきたから。



たとえ自覚してても、

それは仕方ないことだと思っちゃう。
そうしなきゃ、この世の中では生きられないと思ってるから。


「わがまま」=悪いこと・忍耐力の欠如
「言いたいことを言う」=自己中心的・後のこと考えてない



こう信じてるから。
それをするのはいけないこと、ダメな社会人

という認識になってしまってるから。

 



植え付けられた「ブロック」って、

それだけ強い拘束力を持っているんですよね。


でもそこから解放されないままでは、

本来の「自分力」は出てこないのだ。



だからこそ「自己犠牲はやめましょう」って事なんでしょうね。
それはのことを指してるんだと思います。

で。



「妥協」
「我慢」
「協調性」
「調和」



これ、全部同じ意味だと混同してませんか?
でも意味って、それぞれ違いますからね。



前にも書きましたが、

我慢は美徳じゃありません。



言いたいことも言えず我慢して、

周りに合わせて出来たもの。


なのに、そこから「調和(ハーモニー)」なんて生み出されると思います?

(ヾノ・∀・`)ナイナイ 

 

自分が我慢すればいい結果が出ると思うのは、気のせいです(笑)
美化したいだけさ。

あーまたキツイこと言っちゃったニヒヒ



でも。。。
実は世の中には、ホントに

「自分が犠牲になった方が皆にとって良いケース」があります。


それがの自己犠牲。

 

 

 

 

イエス・キリストがなぜこれほど年月を経ても、ここまで信仰の対象になるのか。

 


それは、あまりにも尊い「自己犠牲②」を、

身をもって示したからです。



磔刑になったのは、

当時の政府の迫害だと言われてますね。



イエス・キリストの素晴らしい話も、

多くの民衆にはまだ理解できずに批難されてしまいます。

 


政府と、政府に乗せられた民衆。
そうしてイエス・キリストは吊るし上げを食らい、磔刑となったそうな。

と。
まぁ、聖書の内容が本当にあったことかどうか。
実はそこって、信仰にとってあまり問題じゃないんですよね(・ω・)不思議だけど。。。


だけど日本人もそうでしょ?
皆さん、神社好きな人多いでしょ?


でも、

古事記に書かれてることが本当かどうか

ぶっちゃけ どうでもいいでしょ?(おいw)



スサノオが生きた馬の生皮を剥いで、

血まみれになった馬を機織り小屋に投げ込んだ?


そのとき、機織りをしていた娘が

ビックリして死んでしまった?


そして、弟のその乱暴さを嘆いて、

アマテラスは岩の中に隠れてしまった?



まさかこれ、この話の通り、

そのまま信じてる人いないよねぇ???
いたらビックリだわ(゚Д゚)



本当にあったことかどうか、信仰者って 

そこはあまり気にしてないんですよね。


ただ、何千年経っても人々から崇められる対象が必要なんでしょうね、宗教的意義では。

 

 

継松寺 「雪山童子図」 曾我簫白画 

 

 

 

むか~~しむかしのこと。
冬のヒマラヤの山奥に、

一人の求道者がおったそうな。



その者の名は、

雪山童子(せっせんどうじ)」。

 


衆生の幸せや利益となる教えを身につけようと、一身に修行に励んでいました。



しかし、

その様子を、帝釈天はいぶかしく思って眺めておりました。

 


どれだけ悟りを開こうと苦行を望んで来ても、

険しい山奥では毎日が死と隣り合わせ。


誰もがすぐに求道の心を失ってしまいます。


車に車輪が左右ともあれば、

物を乗せて運搬できる。
鳥に双翼があれば、空を飛ぶことができる。

修行者も同じく、戒を保っていても、

正真の智慧が無ければ、悟りには到達できない。

 

 


そこで帝釈天は、

雪山童子が修行を全うできる人物かどうか、

試してみることにしました。


見るも恐ろしい羅刹の姿に変化して、

天から雪山に降り立ちました。


そして童子に近寄り、

過去に仏が説いた「(げ)」を唱えました。



「諸行無常(諸行は無常なり)」


「是生滅法(これ生滅の法なり)」



羅刹が偈を半分だけ唱えると、

それを聞いた童子は大いに喜びました。



童子「大士よ、あなたはどこで過去の仏の説いた偈文を聞いたのでしょう。その偈文は過去・現在・未来の三世に渡る仏の教え、真実の道です。世間の人間でさえほとんど知ることのない教えです。本当にどこでその偈文を聞いたのですか」

羅刹「出家者よ、そんなことを聞いても無駄だ。私はもう幾日も食べ物が手に入らないので、飢えと乾きで心が乱れてでたらめを言ったのだ」

童子「大士よ、もし残りの偈文を説いてくれるならば、私は終生あなたの弟子になります。先ほどの偈文だけでは字句も不完全だし、義も尽きてはいません。どうか残りの偈文を教えてください」

羅刹「出家者よ、私は飢えて疲れているから、説くことができないのだ」

童子「大士よ、あなたは何を食べるのですか」

羅刹「私の食べ物は、人肉だ。飲み物は、人の生き血だ」

童子「大士よ、話は分かりました。残りの偈文を聞くことができたら、私はこの肉体をあなたに差し上げましょう。たとえ天寿を全うしても、どうせ、私の死体は獣か鳥に食われるだけです。しかも、食われたからといって何の報いがあるわけでもありません。それならば悟りの道を求めるために、この身を捨てる方が良いでしょう」

羅刹「では何か。わずかな偈文のために肉体を捨てようと言うのか。しかし、そうは言っても誰も信じないだろう」

童子「あなたは無智ですね。瓦の器を捨てて、七宝を得ることができるなら、誰でも喜んで瓦を捨てるでしょう」

羅刹「お前が本当にその身を捨てるというなら、残りの偈文を説いてやろう」

その言葉を聞いた雪山童子は、法座を設け、身につけていた鹿皮を脱いで、座に敷きました。

童子「大士よ、どうかここにお座り下さい」

そう言うと、合掌してひざまずき、残りの偈を待ちました。
羅刹はおもむろに、残りの偈文を説きました。


「生滅滅已(生滅滅し已て)」

「寂滅為楽(寂滅を楽と為す)」



羅刹「出家者よ、お前はすでに偈のすべてを聞いた。願いはかなえられたのだから、約束通り私に肉体を施してくれ」


童子は覚悟が出来ていました。
ただ、このまま死んでは

人々に何も残せません。

 


手当たり次第に石や壁、樹木などに、

この偈文を急いで書き留めました。

そして高い木に登り、地上へとその身を投げました。

 


しかし。
童子の体が地に落ちる前に、羅刹は帝釈天の姿に戻り、空中で童子の体を受け止めたのです。


羅刹と、諸天諸菩薩は、

雪山童子の前にひれ伏しました。
そして、求道心を試したことを心から詫びました。



わずか半偈のために身を投じた求道者、

雪山童子。
雪山童子は、お釈迦様の過去生の一つだと言われています。


この話から、

「諸行無常 是生滅法 生滅滅巳 寂滅為楽」を、

『雪山偈(せっせんげ)』と呼んでいます。




これが本当の

自己犠牲です。




「NO」と言えないだけの意志の弱さを

「自己犠牲」とは言いません。



善人ぶりたいエゴからの偽善。
嫌われたくないという恐れからの行動。
嫌だけど私がやらなきゃやる人がいないんだ、という過剰な自意識。



それらは自己犠牲ではありません。
優しいからとか、

断われない雰囲気だからとか、

それは自己犠牲と言うより…




自己欺瞞(じこぎまん)

です。  



自分で自分に嘘をついてるだけ。
失礼なこと言われても 笑ってごまかして反論できない自分を正当化したいだけ。


あ、

別にそれが悪いって言ってるんじゃないですよ(*´Д`)
さっきも書いたけど、私も身に覚えありすぎだからアセアセ


ただ、同じ「自己犠牲」って言葉でも、

全然意味が違うってこと。



心の底から自分が納得し、

他人に施すことが喜びとなっていること。
それがホントの「自己犠牲」です。



自己犠牲って、

本来はとても尊いことなのですキラキラ



まぁ、お釈迦様のようなことは、

凡人にはなかなか出来ることじゃありませんが。
この、ホントの本来の「自己犠牲」の精神。



これに近づくためには、まず余計なブロックを外すことが、簡単で早道になります。

うん、やっぱりここに着地したね(笑)



では、最後にまとめ。



①の自己犠牲とは、弱さ・優柔不断が動機。


②の自己犠牲とは、他者のために尽くす喜びの発露からの行動。

 

本来の「自己犠牲」とは②の方であり、

正当化のためなのか、

現代では意味が①に変化した。

 


変な思い込みがあるままでは、

心の底から人々のために命を賭すことは出来ない。

 

ということですな。
思い当たることはありましたか?

 

 

ちょっと考えてみるといいかもですヾ(´v`*)

 

 

 

 

 

 

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